第3話:休診日の嘘
[涼一月 第四日目]
意識が現実に適応するに従って、五感を通じた情報が流れ込んでくる。鼻を突くしょっぱい匂い。それにぽこぽこと湯が沸き立つ音。嫌な予感を覚えたガーヴェは、寝癖も直さずに調理場に駆けつけた。
「あ、先生。おはようございます」
調理場ではサビィが手際よく作業をしていた。竈から多様な音が奏でられているあたり、彼は料理でもしているのだろう。それからサビィは寝起きの医者を見るなり、彼の寝癖の多い風貌を鼻で笑った。
「お医者様って意外と遅起きなんですね」
そういえば、患者を泊めさせていたのだった。だが、よほど疲れていたらしい。昨晩の記憶がほとんど残っていない。覚えているのは、彼らは金勘定もできないほど学がないという点。そして、今みたいに人を不快にする達人ということ。
「うるせえ。あんたたちが早すぎるんだよ。それに、何勝手に料理しているんだ」
起床して早々に嫌味を吹っ掛けられて、いい気になる者はいない。そもそもサビィに食料を使っていい許可を出した覚えはないはずなのだが。非常識で無遠慮な来訪者は、口をとがらせて不服の感情をあらわにした。
「でも、『食べ物使っていいですか』って聞いたら、『ああ』って答えたじゃないですか」
言われてみれば一度起こされたような気もしなくはないが、不明瞭な記憶では腑に落ちない。あるいは、サビィがこちらを騙そうとしているのかもしれない。家主は警戒心を高めて腕を組んだ。
「まあ、食べましょう。色々使わせてもらいましたよ」
その宣言の通り、彼の作った朝食は、この一年でガーヴェが口にしたどんな食事よりも豪華だった。分厚い干し肉三枚に茹で野菜。それから山盛りの粥と黄色くなった漬物の端切れ。これまでの情報をもとに、彼はあることに気がついた。
「おい、あんた。ひょっとして、肉《《全部》》焼いたのか?」
「え、はい。腐ってたので」
男の顔がどんどん険しくなっていく。きっと、サビィは干し肉というものをご存じないのだろう。なけなしの金で買って毎日ちびちびと食べている、労働の日々を楽しむための娯楽。
「あと二ヶ月はそれで食い繋ごうと思っていたんだ」
目の前に広がるご馳走を前にして、ガーヴェは手を震わせた。残された肉片は価値にして三十ラニーにも満たないだろう。昨晩の治療費不足よりも損害は少ないはずなのに、こちらの方が何倍も腹立たしい。さては、サビィは肉を食べたいがために嘘をついたのではあるまいか。このまま不毛な水掛け論に持ち込んでもいいのだが、起きたての男にそんな体力はなかった。
サビィは数秒遅れでガーヴェの言わんとしたことに気がついたようで、肩を落として立ち尽くしていた。その様子から察するに、悪いのはこちらのようだ。
「……もういいや、食おう。せっかく作ってくれたんだ」
診察用に垂らしている暗幕を巻き上げて部屋全体に光を入れる。エイグルが眩しそうに目を細めるが知ったこっちゃない。治療台を長机に見立てて配膳を終えると、三人は遅めの朝餉を食べ始めた。昨晩の助言通り、エイグルの粥だけはぬるく作られているようだ。それなら、同時に病み上がりに肉を食わせるなとでも言った方が良かったかもしれない。
「いただきます」
エイグルはかすれた声を出した。五感が食欲を沸き立たせている。特に旨そうな肉の匂いは凶悪だった。抑えようのない欲求は、おそらく星喰らいの患者たちも同じだったのだろう。ガーヴェは肉を頬張り、その塩分を中和しようと粥を流し込む。
「うわ、この粥だいぶ濃いな」
「え、そうですか?」
サビィもエイグルも、この味を変だとは思わないらしい。こんな塩っぽい食事を当たり前のように摂取している目の前の二人が急に化物に見えてきた。おそらくこの濃い味付けは、農民の生活の知恵なのだろう。そうでなければ、彼らが一日中動き続けるなんてできないだろうから。
「先生は、今日お休みですか?」
エイグルの質問を受けて、ガーヴェが不思議そうに首を横に振る。
「なら、もう一往復しなきゃいけないか……」
どういう了見かと尋ねてみれば、それはあまりに無謀な計画だった。エイグルは一晩中治療費のことを考えていたようで、彼の育てている野菜をガーヴェに届けることで手を打とうとしていたらしい。稚拙な提案はエイグルなりの気遣いだろうが、今のガーヴェはそれを望まなかった。
「昨日言ったことを忘れたのか。無茶はするな」
ここで、ガーヴェの頭の中に突発的な考えが浮かんだ。エイグルに運ばせるのではなくて、自分が野菜を貰いに行けばいいのだ。唯一の問題といえば、この診療所を留守にすることくらいだが、半日もあれば行って帰ってくることはできるだろう。
「……そうか、今日は休診日だった。忘れてたよ」
あからさまな嘘の粗を指摘するでもなく、二人はその言葉を鵜呑みにした。彼らはただただ純粋で無骨なだけで、ガーヴェの気質とうまく噛み合っていない。こうやって同じ卓を囲んで食事をしている割に、三人の心の距離はちぐはぐなままだ。そこから先に有意義な話が交わされることはなかった。
男三人の朝餉はあっという間に終了した。あれだけ慣れない味だったのに、今は不思議と満たされている。
「よし、すぐ準備しろ。案内してくれ」
濃い粥と肉のせいで、今日はやたらと元気がみなぎっている。ほとんど着の身着のままで訪れた二人組よりも早く出支度を終わらせると、ガーヴェは一足先に家を出た。表の看板には「休診中」と書かれている。毎朝これをひっくり返すのが日課になっているからか、看板を放置するのは変な気持ちだ。
少しの時間を置いて、サビィとエイグルが家から出てきた。木戸に鍵を掛け、三人は意気揚々と一歩を踏み出した。
◇◇◇
農民の足の早さを舐めていた。それに、自分の体力を過信していたようだ。日はもうすでに高い位置にある。予定ではもうとっくに村についているはずなのに、現在地はエイルの森の中だ。二人の若者が自分よりもずっと先を歩いている。ちょっかいを掛けては笑いあっているあたり、彼らは体力があるし仲睦まじい。
「本当に仲良しだよな、あんたたちは」
そうやって呆れつつも、ガーヴェは心の奥底で彼らを羨んでいた。内向的でひねくれた男に、あのような気の置けない友人はいない。ましてや、倒れている自分を診療所まで連れて行ってくれるほど信頼できる間柄だなんて。
案の定、友達はいないのかとサビィが茶化してきた。ガーヴェは息を切らして何も答えられない。その沈黙をいいように捉えたのだろう。エイグルがこのように発案した。
「じゃ、俺たちが先生と友達になればいいんじゃない?」
友達とはそんな口約束でなれるものなのだろうか。作り方さえも忘れてしまった男は、無邪気な誘いを断われないままそれに同意した。何かをつぶやいて立ち止まった男に気が付いて、エイグルは足を止める。彼の耳には、確かに孤独な医者のつぶやきが聞こえたのだった。
「……ガーヴェでいい。そう呼んでくれ」
やがて三人組は林を抜け、開けた場所に出た。緩やかな斜度の段々畑が川に向かって伸びている。青く茂った畑の間にぽつぽつと家屋が建っている。よくある農村の風景だ。その中でも特に立派な土壁の建物まで歩くと、サビィは得意げに俺の家だと自慢した。
サビィ曰く、ここは代々彼の一族が継いできた土地で、住人の多くは彼に土地を借りて耕作している小作農であるようだった。エイグルもその一人で、サビィとは幼馴染でありながらも明確な立場の違いがあったようだ。その証拠にサビィは他の村人に呼び止められて、どこかに行ってしまった。
「じゃあ、少し採ってきます。ガーヴェさんはその辺で待っていてください」
今にでも畑に繰り出して収穫を始めようとするエイグル。その勇ましい後ろ姿を引き止めて、客人となった男は家はどこかと質問した。サビィのお隣さんと聞いているのに、彼の家の隣にはそれらしい家がない。
「ああ、あれです」
エイグルはそう言って案内された傾いた建物……少なくともここには住みたくはないと思わせるほどのあばら家を指差した。横には彼の名の由来になったであろう太いエイルの木が生えていた。
振り返ると、エイグルはずいぶん遠くに行ってしまっていた。周囲には人影はない。ガーヴェは戸と言ってもいいのかもわからない小さな隙間を覗く。農民の暮らしに興味を持った男は、ひっそりとあばら家に侵入した。
直立したままでは頭をぶつけてしまいそうなほど低い天井。隙間から漏れ出る光を頼りに目を凝らすと、あまりに劣悪な住環境が浮かび上がってきた。ぼろ切れと相違ない薄い布団。お世辞にも衛生的とは言えない床の上には、長いこと使われていない土まみれの食器が転がっている。
調度品は布団一組だけで、薄汚い着替えがそのままぐしゃぐしゃになって放置されていた。厨房はあるが、使われた痕跡はない。どうやら、隣のサビィに暮らしの面倒を見てもらっているのが実情のようだ。
何かが蠢く影が見えた気がして、ガーヴェは顔を上げた。一匹の虫……それも大ぶりで何本も足を生やしたやつが天井を這いずり回っていた。ぼとり、と大きな音がしてそれが床に落ちた。生理的嫌悪が沸き上がる。ガーヴェはたまらず家を飛び出て、わけもなく服についた汚れをはたき落とした。
「ど、泥棒!」
甲高い声に顔を上げてみると、そこにはサビィともエイグルとも違う村人が立っていた。頭に頭巾を被った若い女性だった。その腹はだいぶ膨れており、妊娠中だということがうかがえる。洗濯をしていたらしい女性は、空になった洗い桶を胸の前に据えて身構えていた。
「イラ、大丈夫。俺のお客さんだ」
血相を変えたサビィが駆け寄ってきて、二言三言のやり取りが行われた。客人が医者であること、そしてエイグルの命の恩人であることを知ると、イラと呼ばれた妊婦は態度を一変させた。
「ごめんなさい。泥棒だと決めつけちゃって」
イラは流れるようにひざまずく。だが、身重の女性にそんなことをさせるのは気分が悪い。なんとかして近くの木箱に彼女を座らせると、サビィはまたどこかに消えていった。診療所では迷惑客だった彼も、この集落では多くの役割を担っているらしい。視線を移すと、イラが腹を擦っているのが目に入った。
「……大変でしょう。そんなに大きいと」
ガーヴェは女心をよく理解していない。まくし立てるように旦那の悪口を言い始めたイラは、彼のことを良き理解者だとでも勘違いしたのだろう。些細な愚痴を聞かされ、ガーヴェは上の空で返事を繰り返す。その文脈の中で、イラがサビィの妻であることが判明した。
「あなたは、お父さんみたいな飲んだくれになっちゃだめですよ」
散々ないわれようのサビィに同情しながら愛想笑いを続けていると、遠くから威勢のいい声が聞こえてきた。まもなく見慣れたエイグルの影が現れて、こちらに駆け寄ってきた。
「あれぇ。イラ、もう仲良くなったんだ」
泥と汗だらけのエイグルは、背中の荷物を地面に置いた。どすん、と鈍い音が響く。目を丸くするほどの大きな背負籠の中には、彼が収穫したであろう季節の野菜が山積みになっていた。赤く丸い根菜に青々とした葉物野菜。布製の袋には脱穀したての麦まで入っている。
こんなに重いなんて聞いていない。早くも帰り道の心配をするガーヴェに、もう一つ手土産が出てきた。
「それと、漬物のお裾分けです」
半ば押し付けるように、大きな葉に包まれた漬物を持たされた。あの汚い家のどこで野菜を漬けていたのかは検討もつかないが、断るのも悪い。客人は覚悟を決めて包みを両手で受け取った。何とも形容しがたい不思議な匂いがする。
「それで五十ラニーにはなるかなぁ」
エイグルは冗談交じりに笑うが、もう十分だ。これ以上彼らから搾取してはいけない。ガーヴェの持ち得る倫理観がそう警鐘を鳴らしている。
「なあ……次からはお金を払わせてくれないか?」
まさか自分からそんな提案をすることになろうとは。案の定、エイグルは不思議そうにそれを断った。イラは彼より頭が回るようで、冷ややかな目でそのやり取りを観察していた。
「早く帰らないと」
背負籠をまた返しに来ることを約束し、ガーヴェは荷物を背負って立ち上がる。軟弱な男の肩に、重たい籠の紐が肩に食い込んだ。よろけたガーヴェをサビィが支えて、エイグルが背中を押す。やや前傾姿勢になった男は、身体が求めるままに歩き出した。その様子を不安に思ったのか、どこからかサビィが飛んできて杖を貸してくれた。先が二股になっている、荷運び用の杖だ。
「お忙しいでしょうから、俺が取りに行きますよ」
エイグルは親切心でそう言っただけなのに、ガーヴェはひどく怯えて肩を震わせている。
「取り立ては苦手なんだ」
借りるという行為自体をガーヴェはひどく恐れていた。杖にも背負籠にも、利子や返却期限なんて概念はないのに、馬鹿げた話だ。そんな閉塞した会話に風穴を開けたのはサビィだった。
「それじゃあ、友達として遊びに行けばいいですね!」
この頃は診療で忙しいから今来られたら困る。だが、その優しい言葉がどういうわけだかじれったいと同時に嬉しくも思われた。素直でない医者は照れ隠しで応答する。
「勘弁してくれ」
結局、どうしようもない友人二人は集落の外れまで一緒に見送りをしてくれた。たった一日でこれほど他人と仲良くなるだなんて、不思議な出会いもあるものだ。いつまでも手を振る村人の影を踏みながら、ガーヴェは長い長い坂道を一人で登っていった。もちろん、彼がその数時間後に大量の患者に留守を怒られたことは言うまでもない。




