第35話 見たもの、書かれるもの
えー、ストックが尽きてしまいました。しばらくは朝のみ更新になりそうです。
気分転換に短めの百合作品も投稿してみました。
『偽物聖女と断罪された私は、悪女辺境伯の傷を癒やす ~擦り傷ひとつ消せない私を、彼女だけが必要だと言った~』
10話前後で完結予定ですので、気になった方は作者ページからどうぞ。
ユナが聖女執務棟へ戻るころには、朝の光は少し高くなっていた。
リゼに梳かれた黒い髪が、肩の少し下で静かに揺れている。櫛の感触はまだ残っていた。絡まっていたものを、少しずつほどいてもらった感覚も。
けれど、胸の奥に残るものまでは、ほどけていなかった。
どうして、あなたには名があるの。
顔のない少女の声が、まだ消えない。
聖女執務棟の前には、昨日よりも多くの聖騎士が立っていた。扉の前では、ロランが警戒に立っている。いつも通り無言で、けれどその目は普段より鋭かった。
「戻ったか」
「はい」
「殿下は眠っている」
それだけ聞いて、ユナは小さく息を吐いた。
眠っている。
目を覚ましていないことに胸が痛む。けれど、まだ眠れていることに、少しだけ安心もした。
「容体は安定している」
ロランは短く付け加えた。
「クラウディア殿が呼んでいる。小控室だ」
「……はい」
静養室へ行きたい気持ちを、ユナは押し込めた。
今は呼ばれている。
見たものを、話さなければならない。
聖女執務棟の小控室には、クラウディアとリディア、そしてマティアスがいた。机の上には記録板が置かれ、数枚の羊皮紙が並べられている。
リディアは椅子に腰掛け、測定具を片手にしていた。昨夜より顔色はましだったが、目元には疲れが残っている。
「ユナさん、少しは食べた?」
「……少しだけ」
「なら上出来。こういう時は、少しだけでも勝ちよ」
リディアは軽く言ったが、その声には無理に空気を柔らげようとする響きがあった。
クラウディアがユナへ椅子を示す。
「長くはかけません。けれど、昨日あなたが見たものを、確認させてください」
「はい」
ユナは椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。指先に、昨夜シャルロッテの手が重なった感触が蘇る。
「昨日うかがったことと重なる部分があります。ですが、今回は正式な記録に残すための確認です」
クラウディアは記録板を前に置いた。
「リディアさんの観測記録、マティアス様の報告、そしてユナ、あなたの証言を照らし合わせます。答えられる範囲で構いません」
「まず、池底聖句の黒化。続いて、水面の波紋。そこまでは、あなたの証言とリディアさんの観測記録が一致しています」
クラウディアの筆先が、羊皮紙の上で止まった。
「その後、顔のない少女が現れた。間違いありませんか」
「……はい」
その形を思い出すだけで、喉が狭くなる。
細い肩。
水に濡れたように揺れる髪。
目も、口も、鼻もない顔。
なのに、自分を見ていた。
「少女は、あなたに何か言いましたか」
ユナは頷いた。
「どうして、あなたには名があるの、と」
部屋の中が少し静かになった。
マティアスの表情がわずかに引き締まる。リディアは測定具から目を上げた。
クラウディアは感情を出さず、記録板へ筆を走らせる。
「他には」
「私は、呼ばれなかった、と。どこにも行けなかった、と」
言葉にすると、あの声がまた胸の奥へ沈んでいく。
ユナは膝の上の手を握った。
「あの子は、怒っているようには見えませんでした。笑ってもいませんでした。ただ……聞いているようでした」
「黒い触肢については?」
マティアスが問う。
ユナは少しだけ顔を上げた。
「あの子が、操っていたわけではないと思います」
言ってから、自分の声の小ささに気づいた。
それでも、その言葉だけは消したくなかった。
リディアが軽く頷く。
「測定上も、少女と黒い触肢が完全に同じ反応だったとは言い切れないわ。触肢の核はこっちになかった。黒い波紋の奥から先端だけが出ていた感じね」
「ただし」
マティアスが静かに続ける。
「顔のない少女が現れた直後に、黒い触肢の動きが激しくなったのも事実です」
「ええ。それも事実」
リディアは測定具を閉じた。
「だから厄介なのよ。見えたものだけ並べると、いくらでも嫌な形に整えられる」
その言葉が落ちた時、扉が静かに叩かれた。
クラウディアが顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきたのは、グレゴリオ大司教だった。
白い法衣の裾が、床を静かに擦る。穏やかな顔をしている。けれど、その目は少しも揺れていなかった。
「続けてください。私も確認しておきましょう」
ユナの背中に、冷たいものが落ちる。
グレゴリオは椅子には座らず、机のそばに立った。
「顔のない少女の出現と、黒い波紋の拡大は同時に起きた。さらに、聖女殿下が聖法によって退けた。ここまではよろしいですね」
誰もすぐには答えなかった。
グレゴリオは穏やかに続ける。
「教会記録としては、悪魔に類するものとして扱うのが妥当でしょう」
悪魔。
その言葉が、部屋の中で形を持った。
ユナは息を呑んだ。
「……違います」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど、グレゴリオの視線はすぐにユナへ向いた。
「違う、とは」
「あの子は……黒い触肢を、操っていたわけではないと思います」
「なぜ、そう思うのです」
責める声ではなかった。
穏やかで、静かだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
ユナは唇を開いた。
あの子は命じていなかった。
黒いものを動かしていたようには見えなかった。
ただ、そこに立っていた。
ただ、問いかけていた。
どうして、あなたには名があるの。
でも、それは証拠にならない。
リディアの測定具に出たものでもない。
クラウディアの記録に残っていたものでもない。
入口にいたグレゴリオたちが見たものでもない。
ユナの胸の奥に残っている、声の温度だけだった。
「……分かりません」
ようやく出た声は、かすれていた。
「でも、そう見えたんです」
グレゴリオは、ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
否定はしなかった。
けれど、ユナの胸は軽くならなかった。
「では、ユナの証言として残しましょう。少女が触肢を操っていたようには見えなかった、と」
クラウディアの筆が動く。
一瞬、ユナは息をついた。
けれど、グレゴリオは続けた。
「ただし、見えなかったことと、そうでなかったことは同じではありません」
その言葉は静かだった。
静かなまま、ユナの証言の上に別の蓋を置いた。
「悪魔は、人の心に入り込む時、問いの形を取ることもあります。名を問うたからといって、それが無垢である証にはなりません」
ユナは何も言えなかった。
違う。
そう思う。
けれど、なぜ違うのかを言えない。
リディアが測定具を机に置いた。
「大司教。測定値だけで言えば、少女と黒い触肢を同一反応と断定するには材料が足りません」
「断定ではありません」
グレゴリオは静かに微笑んだ。
「暫定分類です」
リディアの眉が、ほんの少しだけ動く。
「……便利な言葉ですね。暫定というのは」
「混乱を避けるために、言葉は必要です」
「言葉で混乱が増えることもありますけどね」
リディアの声は軽かった。
けれど、その奥には薄い刃のようなものがあった。
グレゴリオは表情を変えなかった。
「いずれにせよ、正式な記録は聖務会議で整理します。今は、聖女殿下の回復が最優先です」
その言葉に、ユナは俯いた。
聖女殿下の回復。
それは本当だ。
けれど、その言葉の中で、顔のない少女の声が遠ざかっていく気がした。
あの子は悪魔だった。
そう記されれば。
どうして、あなたには名があるの、という問いも。
私は呼ばれなかった、という声も。
全部、悪魔の言葉として片づけられてしまうのだろうか。
クラウディアが静かに言った。
「記録には、ユナ証言として残します。少女が問いかけたこと。黒い触肢を命じているようには見えなかったこと」
グレゴリオの視線が、クラウディアへ向く。
「不要な混乱を招かぬよう、表現には注意を」
「承知しています」
クラウディアは筆を止めなかった。
「ですが、見たものは残します」
その声は大きくなかった。
けれど、退く気配もなかった。
ユナはクラウディアを見た。
少しだけ、息ができた。
◇
確認が終わったあと、ユナは静養室の前へ戻った。
扉の前には、ロランが立っている。
ユナが近づくと、ロランは一度だけ視線を向けた。
「言えたか」
ユナは立ち止まった。
「全部は……言えませんでした」
「なら、次に言え」
短い言葉だった。
慰めではない。
けれど、ユナの中で何かが少しだけ支えられる。
「はい」
扉の向こうでは、シャルロッテが眠っている。
昨日、ユナを呼んでくれた人。
こちら側へ留めてくれた人。
重ねた手の温もりを残して、また眠りに落ちた人。
ユナは扉を見つめた。
あの子は、悪魔なのだろうか。
それとも、名を呼ばれなかった誰かなのだろうか。
まだ、答えはない。
けれど、悪魔という言葉だけで終わらせてはいけない。
それだけは、分かった。




