表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/36

第35話 見たもの、書かれるもの

えー、ストックが尽きてしまいました。しばらくは朝のみ更新になりそうです。


気分転換に短めの百合作品も投稿してみました。


『偽物聖女と断罪された私は、悪女辺境伯の傷を癒やす ~擦り傷ひとつ消せない私を、彼女だけが必要だと言った~』


10話前後で完結予定ですので、気になった方は作者ページからどうぞ。


 ユナが聖女執務棟へ戻るころには、朝の光は少し高くなっていた。


 リゼに梳かれた黒い髪が、肩の少し下で静かに揺れている。櫛の感触はまだ残っていた。絡まっていたものを、少しずつほどいてもらった感覚も。


 けれど、胸の奥に残るものまでは、ほどけていなかった。


 どうして、あなたには名があるの。


 顔のない少女の声が、まだ消えない。


 聖女執務棟の前には、昨日よりも多くの聖騎士が立っていた。扉の前では、ロランが警戒に立っている。いつも通り無言で、けれどその目は普段より鋭かった。


「戻ったか」


「はい」


「殿下は眠っている」


 それだけ聞いて、ユナは小さく息を吐いた。


 眠っている。


 目を覚ましていないことに胸が痛む。けれど、まだ眠れていることに、少しだけ安心もした。


「容体は安定している」


 ロランは短く付け加えた。


「クラウディア殿が呼んでいる。小控室だ」


「……はい」


 静養室へ行きたい気持ちを、ユナは押し込めた。


 今は呼ばれている。


 見たものを、話さなければならない。


 聖女執務棟の小控室には、クラウディアとリディア、そしてマティアスがいた。机の上には記録板が置かれ、数枚の羊皮紙が並べられている。


 リディアは椅子に腰掛け、測定具を片手にしていた。昨夜より顔色はましだったが、目元には疲れが残っている。


「ユナさん、少しは食べた?」


「……少しだけ」


「なら上出来。こういう時は、少しだけでも勝ちよ」


 リディアは軽く言ったが、その声には無理に空気を柔らげようとする響きがあった。


 クラウディアがユナへ椅子を示す。


「長くはかけません。けれど、昨日あなたが見たものを、確認させてください」


「はい」


 ユナは椅子に座った。


 膝の上で手を重ねる。指先に、昨夜シャルロッテの手が重なった感触が蘇る。


「昨日うかがったことと重なる部分があります。ですが、今回は正式な記録に残すための確認です」


 クラウディアは記録板を前に置いた。


「リディアさんの観測記録、マティアス様の報告、そしてユナ、あなたの証言を照らし合わせます。答えられる範囲で構いません」


「まず、池底聖句の黒化。続いて、水面の波紋。そこまでは、あなたの証言とリディアさんの観測記録が一致しています」


 クラウディアの筆先が、羊皮紙の上で止まった。


「その後、顔のない少女が現れた。間違いありませんか」


「……はい」


 その形を思い出すだけで、喉が狭くなる。


 細い肩。

 水に濡れたように揺れる髪。

 目も、口も、鼻もない顔。


 なのに、自分を見ていた。


「少女は、あなたに何か言いましたか」


 ユナは頷いた。


「どうして、あなたには名があるの、と」


 部屋の中が少し静かになった。


 マティアスの表情がわずかに引き締まる。リディアは測定具から目を上げた。


 クラウディアは感情を出さず、記録板へ筆を走らせる。


「他には」


「私は、呼ばれなかった、と。どこにも行けなかった、と」


 言葉にすると、あの声がまた胸の奥へ沈んでいく。


 ユナは膝の上の手を握った。


「あの子は、怒っているようには見えませんでした。笑ってもいませんでした。ただ……聞いているようでした」


「黒い触肢については?」


 マティアスが問う。


 ユナは少しだけ顔を上げた。


「あの子が、操っていたわけではないと思います」


 言ってから、自分の声の小ささに気づいた。


 それでも、その言葉だけは消したくなかった。


 リディアが軽く頷く。


「測定上も、少女と黒い触肢が完全に同じ反応だったとは言い切れないわ。触肢の核はこっちになかった。黒い波紋の奥から先端だけが出ていた感じね」


「ただし」


 マティアスが静かに続ける。


「顔のない少女が現れた直後に、黒い触肢の動きが激しくなったのも事実です」


「ええ。それも事実」


 リディアは測定具を閉じた。


「だから厄介なのよ。見えたものだけ並べると、いくらでも嫌な形に整えられる」


 その言葉が落ちた時、扉が静かに叩かれた。


 クラウディアが顔を上げる。


「どうぞ」


 入ってきたのは、グレゴリオ大司教だった。


 白い法衣の裾が、床を静かに擦る。穏やかな顔をしている。けれど、その目は少しも揺れていなかった。


「続けてください。私も確認しておきましょう」


 ユナの背中に、冷たいものが落ちる。


 グレゴリオは椅子には座らず、机のそばに立った。


「顔のない少女の出現と、黒い波紋の拡大は同時に起きた。さらに、聖女殿下が聖法によって退けた。ここまではよろしいですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 グレゴリオは穏やかに続ける。


「教会記録としては、悪魔に類するものとして扱うのが妥当でしょう」


 悪魔。


 その言葉が、部屋の中で形を持った。


 ユナは息を呑んだ。


「……違います」


 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 けれど、グレゴリオの視線はすぐにユナへ向いた。


「違う、とは」


「あの子は……黒い触肢を、操っていたわけではないと思います」


「なぜ、そう思うのです」


 責める声ではなかった。


 穏やかで、静かだった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


 ユナは唇を開いた。


 あの子は命じていなかった。

 黒いものを動かしていたようには見えなかった。

 ただ、そこに立っていた。

 ただ、問いかけていた。


 どうして、あなたには名があるの。


 でも、それは証拠にならない。


 リディアの測定具に出たものでもない。

 クラウディアの記録に残っていたものでもない。

 入口にいたグレゴリオたちが見たものでもない。


 ユナの胸の奥に残っている、声の温度だけだった。


「……分かりません」


 ようやく出た声は、かすれていた。


「でも、そう見えたんです」


 グレゴリオは、ゆっくりと頷いた。


「なるほど」


 否定はしなかった。


 けれど、ユナの胸は軽くならなかった。


「では、ユナの証言として残しましょう。少女が触肢を操っていたようには見えなかった、と」


 クラウディアの筆が動く。


 一瞬、ユナは息をついた。


 けれど、グレゴリオは続けた。


「ただし、見えなかったことと、そうでなかったことは同じではありません」


 その言葉は静かだった。


 静かなまま、ユナの証言の上に別の蓋を置いた。


「悪魔は、人の心に入り込む時、問いの形を取ることもあります。名を問うたからといって、それが無垢である証にはなりません」


 ユナは何も言えなかった。


 違う。


 そう思う。


 けれど、なぜ違うのかを言えない。


 リディアが測定具を机に置いた。


「大司教。測定値だけで言えば、少女と黒い触肢を同一反応と断定するには材料が足りません」


「断定ではありません」


 グレゴリオは静かに微笑んだ。


「暫定分類です」


 リディアの眉が、ほんの少しだけ動く。


「……便利な言葉ですね。暫定というのは」


「混乱を避けるために、言葉は必要です」


「言葉で混乱が増えることもありますけどね」


 リディアの声は軽かった。


 けれど、その奥には薄い刃のようなものがあった。


 グレゴリオは表情を変えなかった。


「いずれにせよ、正式な記録は聖務会議で整理します。今は、聖女殿下の回復が最優先です」


 その言葉に、ユナは俯いた。


 聖女殿下の回復。


 それは本当だ。


 けれど、その言葉の中で、顔のない少女の声が遠ざかっていく気がした。


 あの子は悪魔だった。


 そう記されれば。


 どうして、あなたには名があるの、という問いも。


 私は呼ばれなかった、という声も。


 全部、悪魔の言葉として片づけられてしまうのだろうか。


 クラウディアが静かに言った。


「記録には、ユナ証言として残します。少女が問いかけたこと。黒い触肢を命じているようには見えなかったこと」


 グレゴリオの視線が、クラウディアへ向く。


「不要な混乱を招かぬよう、表現には注意を」


「承知しています」


 クラウディアは筆を止めなかった。


「ですが、見たものは残します」


 その声は大きくなかった。


 けれど、退く気配もなかった。


 ユナはクラウディアを見た。


 少しだけ、息ができた。


     ◇


 確認が終わったあと、ユナは静養室の前へ戻った。


 扉の前には、ロランが立っている。


 ユナが近づくと、ロランは一度だけ視線を向けた。


「言えたか」


 ユナは立ち止まった。


「全部は……言えませんでした」


「なら、次に言え」


 短い言葉だった。


 慰めではない。


 けれど、ユナの中で何かが少しだけ支えられる。


「はい」


 扉の向こうでは、シャルロッテが眠っている。


 昨日、ユナを呼んでくれた人。

 こちら側へ留めてくれた人。

 重ねた手の温もりを残して、また眠りに落ちた人。


 ユナは扉を見つめた。


 あの子は、悪魔なのだろうか。


 それとも、名を呼ばれなかった誰かなのだろうか。


 まだ、答えはない。


 けれど、悪魔という言葉だけで終わらせてはいけない。


 それだけは、分かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ