第34話 日常に戻れたなら
朝になっても、シャルロッテは目を覚まさなかった。
けれど、呼吸は夜よりも落ち着いている。顔色も、ほんの少しだけ戻っているように見えた。
「聖女様は安定しています。今は眠ることが一番の回復です」
クラウディアがそう告げた。
ユナは寝台のそばに立ったまま、小さく頷く。昨夜、重ねられた手の温もりが、まだ指先に残っている気がした。
離れたくなかった。
けれど、ロランが扉のそばから短く言った。
「ユナ。もう限界だ」
ユナは顔を上げる。
「宿舎へ戻れ。殿下が目を覚ました時、倒れた顔を見せる気か」
責める言い方ではなかった。けれど、逆らえない声だった。
クラウディアも静かに続ける。
「朝食を取り、少し休みなさい。戻ることを禁じているわけではありません」
「……はい」
ユナはもう一度だけ、眠るシャルロッテを見た。
何かを言いたかった。
けれど声にはならない。
胸の奥で、ただ小さく呼ぶ。
シャルロッテ様。
返事はなかった。
◇
聖女執務棟を出ると、朝の光が白い石畳に落ちていた。
いつもの聖名庁の朝だった。
修道女たちが渡り回廊を歩き、遠くで鐘が鳴り、庭師が中庭の落ち葉を掃いている。けれど、昨日までと同じには見えなかった。
聖名水庭へ続く道は封鎖されている。
聖騎士が立ち、結界管理官が何度も行き来していた。近くを通る者たちは声を潜め、何があったのかと目だけで問い合っている。
「聖女様が倒れたらしい」
「結界の確認中に異常があったとか」
「悪魔が出たって、本当なのかしら」
遠くから聞こえた声に、ユナは足を止めそうになった。
悪魔。
その言葉が胸の奥に引っかかる。
あの子は、本当にそう呼ばれるものだったのだろうか。
顔のない少女。
自分に似ていた影。
呼ばれなかった、と言った声。
けれど、何も言えなかった。
ユナは俯いたまま、修道院区画へ戻った。
◇
部屋の扉を開けると、リゼがいた。
寝台には座っていない。窓辺にもいない。扉の近くで、ずっと待っていたように立っていた。
「ユナ」
最初の声は、いつものリゼより静かだった。
ユナは返事をしようとした。けれど、喉が詰まる。
リゼはユナの顔を見て、ほんの少し眉を寄せた。
「……この世の終わりみたいな顔、更新してるんだけど」
いつもの軽口だった。
けれど、笑えなかった。
「ごめんなさい」
「謝るの早い。まだ何に怒るか決めてないし」
リゼはそう言って、ユナの腕を軽く引いた。
「とりあえず座って。ごはんは?」
「……まだ」
「だと思った」
リゼは小さく息を吐き、机の上を指さした。布に包まれたパンと、冷めかけのスープが置いてある。
「帰ってくる気がしたから、取っておいた」
ユナは椅子に座った。
パンを手に取る。けれど、口へ運べなかった。
「一口でいいから」
リゼの声が少しだけ柔らかくなる。
「聖女様のところに戻りたいのは分かるよ。でも、ユナが倒れたら、戻るも何もないでしょ」
ユナは小さく頷き、パンを少しだけかじった。
味はよく分からなかった。
けれど、噛んで、飲み込む。そんな当たり前のことが、ひどく遠く感じられた。
「何があったか、聞いてもいい?」
リゼが尋ねた。
ユナはパンを持ったまま、視線を落とす。
「全部は……分かりません」
「うん」
「でも、名前を聞かれました」
「名前?」
「どうして、私には名があるのかって」
言った瞬間、顔のない少女の声が蘇った。
どうして、あなたには名があるの。
ユナの手が震える。
リゼはしばらく黙っていた。
意味は分からなかったのだと思う。
それでも、リゼは笑わなかった。
「私には難しいこと分かんないけどさ」
リゼは椅子の背にもたれ、ユナを見た。
「でも、ユナって呼んだら、私はユナに振り向いてほしいよ」
ユナは顔を上げた。
「リゼ……」
「それじゃ駄目?」
駄目ではなかった。
むしろ、その言葉が胸の奥に触れた。
シャルロッテの声が、自分をこちら側へ呼び戻した。
リゼの声は、日常の中へ引き戻そうとしてくれる。
どちらも、ユナの名を呼んでいた。
リゼは少しだけ目を伏せた。
「昨日、帰ってこなかったでしょ」
「……はい」
「心配したんだからね」
「ごめんなさい」
「だから、謝るなら食べてから」
いつものように言ってから、リゼは小さく付け足した。
「……ユナが遠いところに行っちゃったみたいで、ちょっと嫌だった」
ユナは何も言えなかった。
リゼは困ったように笑って、机の端に置いていた櫛を取る。
「ほら、髪。ひどいことになってる」
「え」
「気づいてなかったでしょ。座り直して。五分だけ」
ユナは言われるまま、椅子の向きを変えた。
リゼが後ろに立ち、櫛を通す。
ユナの黒い髪に、櫛がゆっくりと通っていく。絡まっていた髪が、少しずつほどけていった。
昨夜、シャルロッテの手が自分の手に重なった。
今朝、リゼが髪を梳いている。
どちらも、ユナをここに留めてくれるものだった。
「ちゃんと帰ってきなよ、ユナ」
リゼが言った。
「どこで何してきてもいいけど、帰ってくる時はここだからね」
ユナは膝の上で手を握った。
「……はい」
声はまだ小さかった。
それでも、今度はちゃんと答えられた。
「帰ってきます」
リゼは櫛を止めて、少しだけ笑った。
「よし。じゃあ、もう一口食べてからね」
ユナは小さく頷いた。
胸の奥には、まだ顔のない少女の問いが残っている。
けれど、背中にはリゼに梳かれた髪の感触が残っていた。
それだけで、少しだけ歩ける気がした。




