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第33話 重ねた手


 シャルロッテは、まだ目を覚ましていなかった。


 聖女執務棟の静養室は、白く静まり返っている。厚い扉の向こうにあるはずの足音も、人の声も、ここまでは届かない。寝台のそばでは、聖女付きの治療医が診察を終え、クラウディアへ向き直っていた。


「命に関わる状態ではありません。ただし、聖法の反動が強く残っています」


 その言葉に、ユナは少しだけ息を吸った。


 命に関わらない。


 そう聞いても、胸の奥に落ちていた重石はなくならなかった。寝台の上のシャルロッテは、目を閉じたままだ。顔色は白く、呼吸もいつもより浅い。


「意識が戻ったとしても、私の判断で問題ないと言うまでは、安静にしていただくようお願いします」


「承知いたしました」


 クラウディアが静かに頷いた。


 長椅子に腰を下ろしていたリディアが、膝の上で測定具を閉じる。


「聖女様をもってしても、器の許容量を超えた。……それだけのものだったってことね」


 いつもの軽さは残っていた。けれど、その声は少しだけ低い。


「まあ、聖女様だから押し返せた、とも言えるけどね」


 ユナにも、一般の聖職者が行う祝福と、シャルロッテの聖法が同じものではないことくらいは分かっていた。


 シャルロッテの祈りは、結界そのものへ届く。だからこそ、聖名水庭の黒い波紋を押し返せた。


 けれど、その聖女でさえ、器の許容量を超えた。


 あの場で、シャルロッテがどれほど無理をしたのか。思い出そうとして、ユナは胸の奥が詰まった。


 覚えているのは、名前を呼ぶ声。


 自分を抱き込んだ腕の強さ。


 そして、その腕から力が抜けていく感覚だった。


「それじゃ、私は管理官たちと情報共有してくるわね」


 リディアは立ち上がり、濃紺の外套を整えた。


「変な方向にまとめられないよう、できるだけ釘は刺しておく」


 そう言って、リディアが部屋を出ていく。


 扉が閉まると、静養室は急に静かになった。


     ◇


 夜になっても、ユナは宿舎へ戻らなかった。


 戻れなかった、という方が正しいのかもしれない。


 シャルロッテのそばにいなければならないと思った。けれど、それだけではなかった。ここを離れたら、自分の中の何かがほどけてしまいそうだった。


 寝台の上で、シャルロッテは眠っている。


 薄い布の下で胸がかすかに上下しているのを、ユナは何度も確かめた。目を離すと、その呼吸まで消えてしまうような気がした。


「ユナ、あなたはもう戻りなさい。夕食も食べていないでしょう」


 クラウディアの声がした。


 責める声ではなかった。けれど、甘くもなかった。今にも崩れそうなユナを見て、それでも立たせようとする声だった。


「もう少しだけ、ここにいさせてください」


 自分でも驚くほど弱い声だった。


 クラウディアは少し黙った。


 叱ることも、無理に宿舎へ戻すこともできたはずだ。けれど、今のユナをこの部屋から追い出す方が危ういと判断したのだろう。


「倒れる前に、必ずロランを呼びなさい」


「……はい」


「それでは、聖女様をお願いしますね」


 クラウディアはそう言って、静養室を出ていった。


 扉のそばに立っていたロランが、短くユナを見る。


「私は外にいる。無理はするな」


「はい」


「殿下が目を覚ました時、お前まで倒れていたら困る」


 それだけ言うと、ロランは扉を開け、外へ出た。


 扉が閉まる。


 部屋には、ユナと眠るシャルロッテだけが残された。


 深夜。


 静養室は白く沈んでいた。


 魔導灯の淡い光が、寝台の端を照らしている。香草の匂いは薄く、窓の外からは風の音さえほとんど届かない。


 ユナは寝台の横に座っていた。


 シャルロッテの額に置いた布は、まだ少しだけ冷たさを保っている。水差しも、布も、クラウディアが整えていったままだ。


 何かしなければと思う。


 けれど、できることはもうほとんどなかった。


 ユナは寝台の端に手を置いた。いつの間にか、その手に額を預けている。


 眠ってはいけない。


 そう思っていた。


 けれど、まぶたは重かった。


 顔のない少女の声が、遠くで揺れる。


 どうして、あなたには名があるの。


 シャルロッテの声も、重なる。


 ユナ。戻ってきなさい。


 どちらも、まだ胸の奥に残っていた。


 その時、指先に、かすかな温もりが触れた。


 ユナはゆっくりと目を開けた。


 最初は、自分がどこにいるのか分からなかった。白い光。寝台。薄い布。静かな呼吸。


 そして、自分の手に、別の手が重なっていることに気づく。


 シャルロッテの手だった。


 細く、少し冷えている。けれど、確かに温かい手。


 ユナは息を呑んだ。


「シャルロッテ様……?」


 寝台の上で、シャルロッテが目を開けていた。


 焦点はまだ頼りなく、瞼も重そうだった。それでも、その視線はユナを探しているように見えた。


「ユナ……」


 かすれた声だった。


 それでも、ユナには届いた。


「はい」


 ユナはすぐに答えた。


「ここにいます」


 シャルロッテの指先が、ユナの手にほんの少しだけ重なる。


 握るほどの力はない。けれど、そこにいることを確かめるような触れ方だった。


「よかった」


 それだけだった。


 けれど、その一言で、ユナの胸は詰まった。


 謝らなければならないと思った。


 自分が戻れなかったこと。シャルロッテに無理をさせたこと。呼ばれていたのに、すぐには答えられなかったこと。


 けれど、言葉はうまく出てこない。


 代わりに、別の言葉がこぼれそうになった。


「あの子は……」


 顔のない少女。


 自分に似ていた影。


 名前を持たなかった声。


 悪魔なのか。


 何なのか。


 なぜ、自分に似ていたのか。


 なぜ、呼ばれなかったと言ったのか。


 ユナには分からなかった。


 続きは、声にならない。


 シャルロッテは、答えを急がせなかった。


「今は、分からないままで構いません」


 弱い声だった。


 長く話すだけの力は、まだないのだろう。けれど、その言葉はユナの胸に静かに落ちた。


「……はい」


 ユナは頷いた。


 重なった手を、強く握ることはできなかった。


 壊してしまいそうだったから。


 だから、ただそっと受け止める。


 シャルロッテの瞼が、少しずつ落ちていく。


 まだ何か言いたそうに唇が動いたが、声にはならなかった。やがて呼吸がゆっくりと整い、再び眠りに沈んでいく。


 ユナは、その手を見つめていた。


 重ねられた手は、とても弱かった。


 けれど、ユナをこちら側に留めるには、十分すぎるほど温かかった。


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