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第32話 倒れた聖女


 シャルロッテの呼び声で、ユナはようやくこちら側へ戻ってきた。


 水面は静まり返っている。


 黒い触肢は消えていた。池全体へ広がっていた黒い波紋も、もう動いてはいない。けれど、池底の聖句に沈んでいた黒は、完全には消えていなかった。白い石の底に、薄い墨のような痕だけが残っている。


 ユナは、まだシャルロッテの腕の中にいた。


「……戻りましたね」


 シャルロッテが、小さくそう言った。


 その声を聞いた直後だった。


 シャルロッテの身体から、ふっと力が抜けた。


「……え?」


 ユナは反射的に支えようとした。


 けれど、自分を抱き込んでいたシャルロッテの重みを、受け止めきれなかった。膝が崩れそうになる。


「殿下!」


 ロランが駆け込むように間へ入った。


 倒れかけたシャルロッテを受け止める。ユナを押しのけるのではなく、二人ごと支えるように。


「殿下。聞こえますか」


 ロランの声はいつもより硬かった。短く、低い。けれど、その奥に焦りが滲んでいる。


 ユナは呆然としていた。


 さっきまで何が起きていたのか、自分の身体で覚えているはずなのに、うまく思い出せない。覚えているのは、顔のない少女の声と、シャルロッテに名を呼ばれたことだけだった。


 聖名水庭の入口から、足音が近づいてくる。


 クラウディアが戻ってきていた。その後ろには、グレゴリオ大司教と数名の結界管理官がいる。皆、息を切らしていた。


 彼らが見たのは、最後の場面だけだった。


 シャルロッテがユナを抱き込んだまま、胸元の聖印に手を当てている姿。


 白い聖法の光に押し返される、黒いもの。


 そして、水面の奥へ退いていく、少女のような輪郭。


 けれど、それがいつ現れたのか。何をしたのか。ユナと少女の間で、どんな言葉が交わされたのか。


 それを見ていた者は、入口にはいなかった。


「殿下の容体は」


 クラウディアの声が、鋭く落ちた。


 マティアスが剣を収めながら答える。


「限界を超えた聖法を使われました。意識を失っておられます」


 グレゴリオは池とシャルロッテを見比べ、それから静かに言った。


「聖女殿下が聖法を使い、悪魔に類するものを退けたことは確認しております。まずは、お身体を移しましょう。救護棟へ」


「いえ」


 マティアスがすぐに首を振った。


「聖女執務棟の静養室へ。殿下を人目に晒すわけにはいきません」


 グレゴリオは一瞬だけ目を細めたが、反論はしなかった。


「よろしい。では、そうなさい」


「私が運ぶ」


 ロランが短く言った。


 いつものロランだった。少なくとも、声だけは。


 けれど、ユナには分かった。ロランの腕には、わずかに力が入りすぎている。シャルロッテを抱き上げる動きは丁寧なのに、呼吸だけが浅い。


 その時、ユナの目から涙がこぼれた。


 今さら、自分が泣いていることに気づく。


「……申し訳、ございません」


 声が震えた。


 マティアスがユナを見た。


「今は気負いすぎるな」


 その言葉は乱暴ではなかった。けれど、慰めすぎる優しさでもなかった。


「立てるか、ユナ」


 ユナは頷こうとした。


 けれど、足に力が入らなかった。


 シャルロッテが運ばれていく。自分の名を呼び、自分をこちら側に留めるために倒れた人が、ロランの腕の中にいる。


 追いかけなければならない。


 そう思うのに、身体が動かなかった。


 リディアはその様子を気にしながらも、池の縁で測定具を開いていた。


「……最悪」


 低く呟く。


 水面は静かだ。黒い触肢も、顔のない少女も、もういない。けれど測定具の針は完全には戻っていなかった。


「押し返せてはいる。でも、戻ったとは言えないわね」


 池底の聖句に残る薄い黒。乱れたままの結界反応。聖法の残り香のような白い揺らぎ。


 リディアは眉を寄せた。


「殿下が、黒い波紋の広がりを無理やり鎮めたのね。……無茶にもほどがあるわ」


 グレゴリオがリディアへ視線を向ける。


「あなたが王宮魔術局の方ですね」


「ええ。結界観測班所属、リディア・フェルマーです」


「後ほど、結界管理官と情報共有をお願いします。聖名水庭は一時封鎖します」


「了解です。こちらの記録もまとめておきます」


 グレゴリオは頷き、マティアスへ向き直った。


「マティアス副官。君は少し残って、ここで何が起きたのか説明を」


「承知しました」


 マティアスはロランたちを一度見てから、クラウディアへ声をかけた。


「クラウディア殿。殿下をお願いします」


「承知しています」


 聖名水庭の外には、いつの間にか人影が集まり始めていた。


 中で何が起きたのかまでは、誰にも分からない。けれど、結界管理官が走り、聖騎士たちが慌ただしく動き、聖名水庭へ続く道が封じられ始めている。それだけで、ただ事ではないことは伝わってしまう。


 何があったのかと、不安げにこちらをうかがう者たちがいる。


 マティアスは短く指示を飛ばした。


「まず人払いを。聖女殿下がお通りになる。余計な騒ぎにするな」


 聖騎士たちと結界管理官が、急ぎ周囲の者たちを下がらせる。聖名水庭から聖女執務棟へ向かう道が、細く開けられていった。


 その導線が確保されたのを確認してから、ロランはシャルロッテを抱え直した。


「行く」


 クラウディアが先導する。


 ロランはシャルロッテを抱えたまま、足早に進み出た。ユナは俯いたまま、その後ろについていった。


     ◇


 聖女執務棟の静養室は、白く静かな部屋だった。


 厚い扉の向こうに、外の騒ぎは届かない。


 薄いカーテン。聖印の入った水差し。清潔な白布のかけられた寝台。香草の淡い匂い。


 ロランはシャルロッテを、ゆっくりと寝台へ下ろした。


 その手つきは、剣を振るう時とはまるで違っていた。壊れやすいものに触れるように、慎重だった。


「ユナ」


 クラウディアの声がした。


「あなたも、そこへ座りなさい」


 部屋の隅に置かれた長椅子を示される。


 ユナは言われるままに腰を下ろした。座った瞬間、自分の手が震えていることに気づく。


「きれいな布と水を用意します。リディアさん、殿下の聖法反応を見ていただけますか」


「もちろんよ」


 リディアは測定具を手に、寝台のそばへ近づいた。


 クラウディアが部屋を出ていく。


 ユナは、寝台の上のシャルロッテを見つめた。


 顔色が白い。呼吸はある。けれど、いつものように静かに立っているシャルロッテではない。


 自分が戻れなかったから。


 呼ばれても、答えられなかったから。


 自分の名を呼ぶために、自分を庇うために、シャルロッテは力を使いすぎた。


 胸の奥が、ぎゅっと潰れる。


「マナ切れじゃないわね」


 リディアが測定具を見ながら言った。


「聖法の反応が強く残ってる」


 ユナは顔を上げる。


 リディアは眉を寄せたまま、けれど声だけは落ち着かせて続けた。


「殿下の身体が、あの聖法に耐えきれなかったんだと思う。器の許容量を超えたのよ」


 そこで、リディアは小さく息を吐いた。


「……無茶にもほどがあるわ」


「命に関わるのか」


 ロランが問う。


 短い声だった。けれど、その一言に、抑えきれないものが滲んでいた。


「今すぐどうこう、という反応ではないわ。安静にしていれば落ち着くと思う。ただ、救護の人にも診てもらった方がいい。私は魔術師であって、医師じゃないから」


 ロランは小さく頷いた。


 ユナは、膝の上で手を握りしめた。


「……私のせいです」


 言葉がこぼれた。


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


「私が、戻れなかったから。シャルロッテ様は、私を呼ぶために……」


「ユナのせいではない」


 ロランが短く言った。


 ユナは顔を上げる。


 ロランはシャルロッテから目を離さないまま続けた。


「それを言うなら、守り抜けなかった私の力不足だ」


「違います」


 ユナは首を振った。


 けれど、続きの言葉は出てこなかった。


「はいはい、自分のせいだって言い合うのは後」


 リディアが少しだけ大きめの声で言った。


「今は聖女様の看病が先よ。倒れた本人の前で反省会を始めたら、起きた時に怒られるんじゃない?」


 軽い言い方だった。


 けれど、そのおかげで、部屋に詰まっていた空気がほんの少しだけ動いた。


 扉が開く。


 クラウディアが水桶と布を持って戻ってきた。


「ユナ」


「……はい」


「布を」


 ユナは立ち上がり、水桶のそばへ向かった。


 手はまだ震えていた。けれど、動くことはできた。


 クラウディアはそれを見て、何も言わなかった。


 ただ、静かに告げる。


「聖女様の看病が落ち着き次第、私が結界管理棟へ向かった後のことを教えてください。正確に、見たものを」


「……はい」


     ◇


 しばらくして、静養室の中は少しだけ落ち着きを取り戻した。


 シャルロッテの額には冷たい布が置かれ、ロランは扉のそばに立っている。クラウディアは寝台の近くで必要なものを整え、リディアは測定具の記録をまとめていた。


「それで」


 クラウディアが静かに口を開いた。


「聖女様がユナを庇いながら、現れたものを波紋の向こうへ押し返した。私が戻った時に見た状況と、リディアさんの説明を合わせると、そういうことですね」


「ええ。少なくとも、私が見た範囲ではね」


 リディアは測定具を閉じた。


「黒い触肢は、こっち側に核がなかった。殿下の聖法で押し返して、黒い波紋の広がりを無理やり鎮めた。……ただし、完全に元通りじゃないわ」


「ありがとうございます」


 クラウディアは頷いた。


 けれど、その表情は晴れなかった。


「状況は、あまり良くありません」


「結界のこと?」


「それだけではありません」


 クラウディアは一度、眠るシャルロッテへ視線を向けた。


「グレゴリオ大司教と結界管理官たちが見たのは、最後の場面だけです。殿下が聖法で黒いものを押し返し、その奥に少女のような輪郭が退いていくところを」


 リディアは、少しだけ眉を寄せた。


「……なるほどね。最初から見ていないなら、なおさら厄介だわ」


 ロランが短く言った。


「教会は、見たままを書かないことがある」


 ユナは顔を上げた。


 クラウディアが静かに補う。


「人々が混乱しないように。信仰が揺らがないように。そういう名目で、記録は整えられます」


「つまり、今日のことも別の形になるかもしれない、ってことね」


 リディアの声から、いつもの軽さが少し消えていた。


「はい」


 クラウディアは答えた。


「出現の経緯も、ユナとのやり取りも見ていない。けれど、入口から見た者には、顔のない少女と黒い触肢が同じものとして映った可能性があります」


 悪魔。


 その言葉はまだ誰の口からも出ていない。


 けれど、ユナの胸には、なぜかその響きが落ちた。


 あの子は。


 そう言いかけて、言葉が出ない。


 顔のない少女は、問いかけていた。


 どうして、あなたには名があるの。


 私は、呼ばれなかった。


 あの声を、ユナは覚えている。


 でも、それをどう説明すればいいのか分からなかった。


 リディアが、小さく息を吐く。


「聖女様は、記録とも戦っているのね」


「はい」


 ロランが答えた。


「殿下は、都合のいい記録に書き換えられないよう、いつも気にしている」


 クラウディアも頷いた。


「だからこそ、見たものを残さなければなりません。ユナ、あなたの証言も必要になります」


 ユナは膝の上で手を握った。


 まだ言葉にはできない。


 けれど、忘れてはいけないと思った。


 黒い触肢。

 黒い波紋。

 顔のない少女。

 そして、自分の名を呼んだシャルロッテの声。


 そのどれか一つでも違う形にされてしまえば、きっと何かが消えてしまう。


  寝台の上で、シャルロッテは静かに眠っていた。


 ユナはその顔を見つめた。


 呼ばれたのに、すぐには戻れなかった。

 戻れた時には、シャルロッテは倒れていた。


 何か言わなければいけない気がした。


 謝罪でも、言い訳でもなく。

 ただ、ここにいると伝えたかった。


 けれど、声はうまく出なかった。


「……シャルロッテ様」


 かすれた声で、名を呼ぶ。


 返事はない。


 それでもユナは、眠るシャルロッテのそばで、もう一度だけ小さくその名を呼んだ。


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