第31話 私を呼ぶ声
「どうして、あなたには名があるの」
その声は、耳から聞こえたものではなかった。
水面の奥から響いたのか、自分の内側に落ちたのか、ユナには分からない。ただ、その問いだけが、まっすぐ胸の奥へ沈んでいく。
黒い触肢が水面を裂く音がした。
ロランの剣が、それを断つ。
リディアの術式が赤く弾け、マティアスの指示が飛ぶ。シャルロッテの祝福が、水面へ白い光を落としている。
けれど、すべてが遠かった。
水の底から聞いているように、ぼやけていく。
ユナの前には、顔のない少女が立っていた。
目も、口も、鼻もない。けれど、見られていることだけは分かる。
「どうして」
少女が言った。
「あなたには、名前があるの」
ユナは答えようとした。
けれど、声が出なかった。
ユナ。
そう呼ばれれば振り向ける。セシリアが呼んだ。リゼが呼んだ。シャルロッテが呼んだ。何度も、何度も、こちら側にいるものとして呼ばれてきた。
それなのに、その名は本当に自分のものなのだろうか。
ずっと、どこかで借り物のように感じていた。
「私は」
少女の声は、冷たくはなかった。
ただ、どこにも届かなかったものが、ようやく言葉の形を探しているようだった。
「呼ばれなかった」
ユナは目を逸らせなかった。
まばたきもできない。
それなのに、目から涙だけが静かにあふれていた。
泣いていることに、自分でも気づけなかった。
「ユナ!」
遠くで、シャルロッテの声がした。
名を呼ばれた。
けれど、戻れない。
「あなたは」
少女が、また近づいた。
足音はない。水面も揺れない。ただ、距離だけが削られていく。
「どうして、そちらにいるの」
黒い触肢が、石畳へ叩きつけられる。
ロランが斬り払った。
「数が増えている」
「奥から補われてるわ。こっちで削っても、きりがない」
リディアの声がした。
「魔術師が嫌いなやつ、ほんとに嫌いなんだけど」
「ロラン卿、前を開けるな。リディア殿、無理はするな」
マティアスは指示を飛ばしながら、横合いから伸びてきた触肢を剣で斬り払った。
黒い泥が石畳へ散る。けれど、すぐに水面へ引き戻され、また別の触肢となって伸び上がる。
「まったく、斬って終わる相手なら楽なんだがな」
ロランは前を抑え、マティアスは側面から抜けてくる触肢を落としていた。リディアは術式を組み直し、シャルロッテは祝福を水面へ流し続けている。
白い光に触れた黒い触肢だけが、わずかに退く。
けれど、押し返しても押し返しても、波紋の奥からまた伸びてくる。
シャルロッテは息を詰めた。
ユナの返事がない。
「ユナ」
もう一度、呼ぶ。
それでも、ユナは振り向かない。
顔のない少女だけを見つめている。目から涙をこぼしながら、まるで自分が泣いていることさえ忘れているように。
シャルロッテの表情が変わった。
「ロラン、リディア。前を抑えてください」
「殿下?」
「マティアス、ここはお願いします」
マティアスが一瞬だけシャルロッテを見た。
その視線には、止めたいという色があった。けれど、すぐに剣を構え直す。
「……承知しました。ロラン卿、前は任せる。私は抜けた分を落とす」
そう言いながら、マティアスはユナの方へ伸びかけた触肢を斬り払った。
シャルロッテはユナへ向かった。
黒い触肢の音が背後で跳ねる。
ロランの剣が水を裂く。
リディアが術式を重ねる。
それでも、シャルロッテは止まらなかった。
ユナの前に立つ。
顔のない少女を、ユナに見せないように。
シャルロッテはユナの両肩を掴み、自分の方へ向かせた。
「ユナっ!」
叫ぶように名を呼ぶ。
ユナの視線が、少女から外れた。
けれど、戻ってきたわけではなかった。
目の前にシャルロッテがいる。両肩を掴まれている。名を呼ばれている。
それなのに、ユナの瞳はどこも見ていなかった。
水面の奥でもない。
顔のない少女でもない。
シャルロッテでもない。
ただ、こちら側に焦点を結べないまま、空白を見つめていた。
「ユナ。私を見てください」
シャルロッテの声が、わずかに震えた。
「私の声を聞いて」
ユナは答えない。
その背後で、顔のない少女がさらに近づいた。
細い手が、ゆっくりと持ち上がる。
ユナの背中へ、伸びてくる。
触れさせてはいけない。
そう思った瞬間、シャルロッテはユナの両肩を掴んだまま、強く引き寄せた。
顔のない少女から隠すように。
ユナの身体を、自分の腕の内側へ閉じ込めるように。
正面から、抱き込む。
ユナは抵抗しなかった。
けれど、戻ってきたわけでもなかった。
その瞳は、シャルロッテの肩越しにある、どこか遠い場所を見ている。
少女の手が、ユナの背中へ触れる寸前で止まった。
渡さない。
そう言う代わりに、シャルロッテはユナを抱く腕に力を込めた。
こちら側にいるのだと、示すように。
左腕でユナを抱えたまま、右手で胸元の聖印に触れる。
「ユナを、連れていかせません」
聖印が白く光った。
それは、いつもの穏やかな祝福とは違っていた。
祈りというより、拒絶に近い。
こちら側にいる者を、向こうへ渡さないための光だった。
白い光が、シャルロッテの胸元から水面へ落ちる。
池底の黒い聖句に重なり、波紋へ伸びていた黒い触肢を押し返す。
黒い泥のようなものが、初めて奥へ引いた。
「聖法反応、跳ねすぎ……!」
リディアの声が鋭くなる。
「殿下、それ以上は危ないわ!」
「ロラン卿、殿下を支えられる位置へ!」
マティアスが叫ぶ。
ロランも振り返った。
「シャルロッテ様!」
それでも、シャルロッテはユナを離さなかった。
黒い触肢が暴れる。
池の水面が歪む。
顔のない少女が、こちらを見ている。
シャルロッテはユナを抱き込んだまま、もう一度名を呼んだ。
「ユナ」
声は、ユナの遠くへ落ちた。
少女の声が近い。
どうして、あなたには名があるの。
シャルロッテの声が、遠い。
ユナ。私の声を聞いて。
名前。
呼ばれなかった子。
呼ばれた私。
どちらが、本当にこちら側にいるべきだったのだろう。
ユナの胸の奥で、何かが揺れる。
呼ばれれば振り向ける名。
まだ、自分の奥まで届いていないと思っていた名。
けれど今、その名を、誰かが必死に呼んでいる。
「ユナ」
シャルロッテの声が、もう一度届いた。
「戻ってきなさい」
ユナは息をした。
冷たい水の底から、急に空気のある場所へ引き上げられたようだった。
目の前に、シャルロッテがいた。
自分を抱き込んでいる。
白い顔で、けれど決して離さない腕で、自分をこちら側へ留めている。
「……シャルロッテ様」
声が出た。
その瞬間、シャルロッテの聖印が強く光った。
黒い触肢が水面へ引き戻される。波紋が、白い光で縫われるように閉じていく。黒く沈んでいた聖句の広がりが止まり、池の奥でざわめいていたものが、遠ざかる。
顔のない少女も、ゆっくりと奥へ押し戻されていく。
最後に、小さな声が聞こえた。
「名前……」
それきり、水面は静まった。
完全に元へ戻ったわけではない。
池底の聖句の黒は、まだ薄く残っている。
けれど、黒い触肢は消えた。
波紋も、見えなくなっていた。
ユナは、まだシャルロッテの腕の中にいた。
シャルロッテは、ユナの顔を見た。
ユナがこちら側にいることを確かめるように、かすかに目を細める。
「……戻りましたね」
小さく、そう言った。
その直後、シャルロッテの身体から力が抜けた。
「シャルロッテ様?」
ユナは反射的に支えようとした。
けれど、抱き込まれていた身体を支え返すには、あまりにも遅かった。シャルロッテの重みが自分にかかる。膝が崩れそうになる。
「殿下!」
ロランが駆け込むように間に入った。
倒れかけたシャルロッテを受け止める。
ユナを押しのけるのではなく、二人ごと支えるように。
マティアスの声が飛ぶ。
リディアが測定具を閉じる音がした。
誰かが結界管理棟へ走れと言った。
けれど、ユナには何も聞こえなかった。
ただ、自分の名を呼んでくれた人が、自分をこちら側に留めたまま倒れたことだけが分かった。
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