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第36話 消さないために


 静養室の扉の前で、ユナはしばらく立ち尽くしていた。


 扉の向こうでは、シャルロッテが眠っている。


 そう聞いていた。


 けれど、胸の奥は少しも落ち着かなかった。小控室でのやり取りが、まだ耳の奥に残っている。


 悪魔に類するもの。


 暫定分類。


 見えなかったことと、そうでなかったことは同じではありません。


 グレゴリオ大司教の声は穏やかだった。怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。それなのに、ユナの言葉はあの場でどんどん小さくなっていった。


 違う。


 あの子は、黒い触肢を操っていたわけではない。


 そう思った。


 けれど、なぜそう思うのかと問われた時、答えられなかった。


 証拠はなかった。


 測定具に出たものでもない。

 記録板に残っていたものでもない。

 誰もが同じように見た事実でもない。


 ただ、ユナの胸の奥に残っているだけだった。


 どうして、あなたには名があるの。


 その声の温度だけが。


「ユナ」


 名前を呼ばれて、ユナは顔を上げた。


 クラウディアが廊下の向こうから歩いてくる。足音は静かだったが、その表情には張りつめたものが残っていた。


「聖女様が目を覚まされました」


 ユナは息を呑んだ。


「本当ですか」


「ええ。ただし、長くは話せません。治療医からも、会話は短くと念を押されています」


 胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ動いた。


 目を覚ました。


 その事実だけで、泣きそうになる。


 けれど、すぐに別の不安が追いかけてきた。自分が今、シャルロッテに会っていいのか。あの方はまだ弱っている。自分がまた、余計な負担をかけてしまうのではないか。


 扉の横に立っていたロランが、短く言った。


「入れ」


 ユナはロランを見た。


 ロランは何も付け足さなかった。ただ、扉へ手をかける。


 それだけで、ユナの迷いを許さないようだった。


「……はい」


 小さく答えると、ロランが扉を開けた。


     ◇


 静養室の中は、朝よりもさらに静かだった。


 聖印灯の淡い光が、白い壁に薄く広がっている。香草の匂いと、清潔な布の匂いがした。


 寝台の上で、シャルロッテは横になっていた。


 枕を少し高くされているだけで、起き上がってはいない。顔色はまだ白く、唇にも色が薄い。それでも、瞳は開いていた。


 ユナが近づくと、シャルロッテの視線がゆっくりとこちらへ向く。


「ユナ」


 弱い声だった。


 けれど、その声はまっすぐにユナへ届いた。


「はい」


 ユナは寝台のそばで足を止めた。


 それ以上近づいていいのか迷っていると、シャルロッテがほんのわずかに目元を緩めた。


「少し、顔色が悪いですね」


「それは……シャルロッテ様の方です」


 言ってから、ユナは慌てて口を閉じた。


 こんな時に何を言っているのだろう。


 けれど、シャルロッテは小さく息を漏らすように笑った。


「そうですね。今は、反論できません」


 その声は弱かった。


 けれど、いつものシャルロッテの声音だった。


 ユナは、それだけで胸が詰まった。


 クラウディアが寝台の少し離れた位置に立つ。ロランは扉の近くに控えた。二人とも会話を妨げるつもりはないようだったが、シャルロッテに負担がかかればすぐ止めるつもりなのだと分かる。


 シャルロッテは、しばらくユナを見ていた。


「何か、言われましたね」


 ユナの指先がわずかに震えた。


「……どうして」


「そういう顔をしています」


 シャルロッテは穏やかに言った。


 優しい声だった。けれど、誤魔化しを許さない声でもあった。


 ユナは視線を落とす。


「記録の確認がありました」


「はい」


「グレゴリオ大司教が、あの子を……顔のない少女を、悪魔に類するものとして扱うのが妥当だと」


 言葉にした瞬間、胸が冷えた。


 あの子。


 そう呼ぶことさえ、どこか心もとなかった。


 名がないから。


 名を知らないから。


 けれど、悪魔と呼ぶことだけはしたくなかった。


「私は、違うと思いました」


 ユナは膝の前で手を握った。


「あの子は、黒い触肢を操っていたわけではないと思いました。あの子が命じたようには、見えなかったんです」


 シャルロッテは黙って聞いていた。


「でも……なぜそう思うのかと聞かれて、答えられませんでした」


 声が小さくなる。


「何も、言えませんでした。測定値もありません。証拠もありません。ただ、そう見えたとしか言えなくて」


 ユナは唇を噛んだ。


「あの子は、問いかけていました。どうして私には名があるのかって。私は呼ばれなかったって。でも、それも……悪魔が人の心に入り込むための問いかもしれないと、言われて」


 言葉が止まる。


 違う。


 そう思う。


 でも、まだ言えない。


 なぜ違うのかを、ユナは知らない。


 シャルロッテは、しばらく目を伏せていた。


 やがて、静かに言う。


「私にも、あの少女が何者なのかは分かりません」


 ユナは顔を上げた。


 シャルロッテの言葉は、安易な慰めではなかった。


「ただ、分からないものを、急いで悪魔と呼ぶことには危うさがあります」


 その声は弱い。


 けれど、芯があった。


「名を与えることと、分類することは似ています。けれど、同じではありません。名は、そのものを見ようとする言葉です。分類は、時に、そのものを見ずに収めるための言葉になります」


 ユナは黙って聞いていた。


「もちろん、教会には民を守る責任があります。危険なものを危険と呼ばなければならない時もあります」


 シャルロッテはそこで少し息を整えた。


 クラウディアがわずかに身じろぎする。


 けれど、シャルロッテはまだ言葉を続けた。


「ですが、分からないものを分からないまま残すことも、必要です。言葉にできないものまで、消してしまわなくていいのです」


 その言葉が、ユナの胸に落ちた。


 消してしまわなくていい。


 ユナは、あの場で消されそうになったものを思い出す。


 少女の声。

 問いかけ。

 呼ばれなかったという言葉。

 黒い触肢を操っていたわけではない、という感覚。


 どれも、まだ形になっていない。


 けれど、なかったことではない。


「ユナ」


 シャルロッテが呼ぶ。


「はい」


「あなたが聞いた声を、忘れないでください」


 ユナは息を止めた。


「記録の言葉が変わっても、あなたが聞いた声まで変わるわけではありません。誰かが別の名で呼ぼうとしても、あなたが見たものまで、別のものになるわけではありません」


 シャルロッテの指先が、布の上でわずかに動いた。


 昨夜、ユナの手に重ねられた手。


 今は、動かすだけでも重そうだった。


「今の私には、すぐに確かめに行くことはできません。だから、ユナ。あなたが覚えていてください」


 ユナの喉が詰まった。


 怖かった。


 覚えていることは、痛い。


 忘れてしまえたら、どれほど楽だろうと思う。


 けれど、忘れてしまえば、あの子は本当に悪魔という言葉の中へ閉じ込められてしまう。


 ユナはゆっくり頷いた。


「……忘れません」


 声は震えていた。


 けれど、消えなかった。


「私は、あの子の声を忘れません」


 シャルロッテは、少しだけ安心したように目を細めた。


「ありがとう」


「お礼を言われることでは……」


「いいえ」


 シャルロッテは弱く首を振る。


「あなたが覚えていてくれることは、きっと大切です」


 その直後、シャルロッテの呼吸がわずかに乱れた。


「聖女様」


 クラウディアがすぐに歩み寄る。


「そこまでです。これ以上のお話は、治療医の指示に反します」


 シャルロッテは逆らわなかった。


「……はい」


 ユナは慌てて一歩下がる。


「申し訳ありません。私が、話しすぎました」


 シャルロッテは、もう一度だけユナを見た。


「話せて、よかった」


 その一言だけで、ユナは何も言えなくなった。


 クラウディアが布を整え、シャルロッテに休むよう促す。ユナは深く頭を下げて、静養室を出た。


     ◇


 扉が静かに閉まる。


 廊下に出た途端、ユナは自分が息を詰めていたことに気づいた。


 ロランが横に立っている。


 少しの間、何も言わなかった。


 それから、短く尋ねる。


「言えたか」


 ユナは顔を上げた。


 先ほどと同じ問いだった。


 けれど、今度は少しだけ違う答えができた。


「……少しだけ」


 ロランは頷いた。


「なら、次も言える」


 慰めではなかった。


 励ましというほど柔らかくもない。


 けれど、その言葉はユナの足元に静かに置かれた支えのようだった。


「はい」


 ユナは小さく答えた。


 廊下の窓から、聖名庁の中庭が見えた。朝の光が白い石畳を照らしている。その向こう、聖名大聖堂の裏手には聖名水庭がある。


 今は封鎖されている場所。


 黒い波紋が広がった場所。


 顔のない少女が現れた場所。


 ユナは、あの声を思い出す。


 どうして、あなたには名があるの。


 まだ答えはない。


 あの子の名を、ユナは知らない。


 けれど、悪魔という言葉だけで終わらせないと決めた。


 それが、今のユナにできる、たった一つの抵抗だった。


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