第3話 守られた街
写し取りの仕事が終わるころには、朝の光は少しだけ高くなっていた。
記録棟の写字室の窓から差し込む光は、羊皮紙の上に薄く伸びている。名の列は、朝よりもずっと長くなっていた。生まれた者、修道院に入った者。筆でなぞるたび、その人たちが確かに生きているのだと、聖名帳が静かに証ししているようだった。
ユナは最後の一文字を書き終え、筆を置いた。
指先に、インクの匂いが残っている。
「終わった?」
「はい。たぶん」
「たぶんってなに。そこは自信持っていいところでしょ」
「……終わりました」
「うん、よくできました」
リゼは小さく頷いた。まるで自分の仕事も終わったような顔をしている。
その何気なさに、少しだけ胸がゆるんだ。
セシリアに言われた通り、午後の講義は休むことになっている。
けれど、何もしないでいると、余計に夢のことを考えてしまいそうだった。
白い布。
遠ざかる泣き声。
顔のない存在。
思い出したくないのに、思い出してしまう。
「ユナ、本当にひとりで大丈夫?」
リゼが声を落とした。
「……少しだけ、外を歩きます」
「外って、中庭?」
「はい。遠くへは行きません」
「ならいいけど。ふらっとしたら呼んでね。怒られる前に回収しに行くから」
リゼはそう言って笑った。けれど、その目はいつもより少しだけ心配そうだった。
「ありがとうございます」
「そういう時は、ありがと、でいいの。ほら、言ってみて」
「……うん、ありがと」
言い慣れない返事をすると、リゼは満足そうに笑った。
写字室を出ると、記録棟の廊下には昼前の静けさが降りていた。
朝の慌ただしさは少し落ち着き、代わりに遠くから聖歌の練習が聞こえる。高い声と低い声が重なり、白い石壁にやわらかく響いていた。
記録棟の外へ出ると、聖名庁の敷地が広がっている。
白い石造りの棟がいくつも並び、そのあいだを中庭と石畳の道、屋根付きの渡り回廊が繋いでいた。聖名大聖堂へ向かう中央の道は広く、柱の並ぶ渡り回廊には古い聖句が刻まれている。反対側には、結界管理棟へ続く管理区画寄りの回廊があり、淡い青の魔導灯が昼でも静かな光を宿していた。
祈りと、記録と、魔術。
それらが同じ敷地の中にあることを、ユナは不思議だと思うことがある。けれど聖都アステルでは、それが当たり前だった。
この街は守られている。
聖都十二結界。
子どものころから何度も聞いてきた言葉だ。聖都を囲む十二の主要結界が、魔物や災厄から街を守っている。だから聖都の中では、夜に子どもが迷っても、巡回の騎士が見つけてくれる。商人は安心して市を開ける。鐘が鳴れば人々は祈り、祈りが終わればパンを買い、笑い、働き、眠る。
守られている街。
そのはずだった。
ユナは記録棟の前の中庭へ出た。
白い石畳の中央に、小さな泉がある。昼の光を受けて、水面はきらきらと揺れていた。修道女たちが洗濯物を運び、若い司祭が書類の束を抱えて聖務会議棟の方へ急いでいく。
何もおかしなことはない。
水はただの水で、光はただの光だった。
それなのに、ユナは泉のそばで足を止めた。
水面を見ると、胸の奥が少しだけ冷える。夢の中で、白い布も、泣き声も、顔のない何かも、水面の奥へ沈むように消えていった。
目を逸らそうとした時、背後から声がした。
「ユナ」
セシリアだった。
ユナは振り向く。
セシリアは小さな籠を抱えていた。中には乾いた布と薬草の束が入っている。救護棟へ運ぶものだろう。
「無理をしないように言ったはずですが」
「すみません。少し、歩くだけなら大丈夫だと思って」
セシリアは困ったように微笑んだ。
「あなたは、謝る時ほど無理をしていますね」
その声は優しい。
優しいから、逃げ場がない。
ユナは俯いた。
「……何もしないでいる方が、考えてしまうので」
言ってから、少し後悔した。けれど、今度は嘘ではなかった。
セシリアはしばらく黙っていた。
風が中庭を抜ける。泉の水面が細かく揺れる。ユナはその揺れを見ないように、セシリアの手元の籠へ視線を落とした。
「では、救護棟まで一緒に来てくれますか」
「私が、ですか」
「ええ。歩く理由が必要なのでしょう?」
セシリアは静かに言った。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ優しく寄り添うような言い方だった。
「……はい」
二人で歩き出した。
救護棟は、修道院区画から中庭をひとつ挟んだ北側にある。記録棟から向かうには、石畳の道を渡り、聖名大聖堂へ続く広い渡り回廊の手前を抜けなければならない。
セシリアの歩幅はゆっくりだった。ユナに合わせているのだと分かる。その気遣いがありがたいのに、胸のどこかが少し苦しくなる。
この人はいつも、自分を大切に扱う。
母親のような人だった。
いや、ユナにとっては、母親だったのだと思う。
少なくともユナが覚えているかぎり、朝に名を呼び、髪を整え、熱を出せば夜通しそばにいてくれた人は、セシリアだけだった。
それなのに、母という言葉だけは、胸の奥で少しだけつかえる。
転ばないように。傷つかないように。怖いものを見ないように。
けれど時々、その優しさの奥に、消えない痛みが見える。
まるで、自分を通して、もういない誰かを見ているような目。
ユナはそれを聞けない。
聞けば、今の優しい日々が、薄い氷のように割れてしまう気がした。
「ユナ」
セシリアが足を止めた。
そこは聖名大聖堂へ続く渡り回廊の手前だった。高い柱の向こうに、大聖堂の扉が見える。扉はまだ閉じていたが、その向こうから微かな祈りの声が聞こえた。
「あなたは、ここが怖いですか」
思いがけない問いだった。
「ここ、ですか」
「聖名庁も。聖都も。祈りも、名も」
ユナは答えられなかった。
怖い、とは違う。嫌いでもない。ここは自分が暮らす場所で、リゼが笑う場所で、セシリアが自分の名を呼ぶ場所だ。
けれど、安心しているかと聞かれれば、分からない。
「……分かりません」
それが、今出せる一番正直な答えだった。
「守られている場所だとは、思います。でも」
「でも?」
「守られているのに、どうして時々、こんなに遠い感じがするのか、分からないんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が震えた。
自分でも、そんなことを考えていたのだと初めて知った。
セシリアは目を伏せた。
その表情に、また痛みがよぎる。
「……そうですか」
それだけだった。
けれど、その短い返事の中に、言えない言葉がいくつも沈んでいるように聞こえた。
ユナはセシリアを見上げる。
聞きたかった。
セシリアさんは、何を知っているのですか。
どうして、そんな顔をするのですか。
私を通して、誰を見ているのですか。
けれど、どの問いも声にならなかった。
遠くで鐘が鳴った。
昼を告げる鐘ではない。結界管理棟の方角から聞こえる、小さな確認鐘だった。聖都十二結界に異常がないことを知らせる、日々の音。
中庭を歩いていた者たちは、誰も驚かない。
当たり前の音だからだ。
今日も聖都は守られている。
今日も祈りは続いている。
今日も名は聖名帳に記される。
それなのに、ユナの胸の奥では、まだ名になれない何かが静かに沈んでいた。
セシリアは再び歩き出す。
ユナもその隣を歩いた。
白い石畳に、二人分の影が伸びる。
その影の間に、ほんのわずか、誰かが立てるほどの隙間があるように見えた。




