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第2話 聖名帳の名


 朝の祈りと朝食を終えても、ユナの胸の奥には、目覚める前の夢が残っていた。


 白い布。

 二つの泣き声。

 呼ぼうとして、呼べなかった名前。


「ユナ」


 記録棟へ向かう渡り回廊で呼ばれて、ユナは少し遅れて顔を上げた。


 リゼが眉を寄せている。


「またこの世の終わりみたいな顔してる」


「……そんな顔、してますか」


「してる。朝から世界ひとつ滅ぼしてきました、みたいな顔」


「滅ぼしていません」


「分かってるよ。ユナにそんな器用なことできないし」


 そう言って、リゼは歩調を緩めた。


 渡り回廊には、それぞれの仕事へ向かう見習いたちの足音が重なっている。筆箱を抱えた子、書類の束を抱えた子、年長のシスターに小さく注意されて背筋を伸ばす子。


 朝はいつも通りだった。


 いつも通りであることが、少しだけ遠い。


「さっきの夢?」


 リゼの声が、少しだけ低くなる。


 ユナは答えられなかった。


 覚えている、と言えるほど形はない。

 覚えていない、と言えるほど遠くもない。


「分からないなら、今は分からないままでいいよ」


 リゼはあっさりと言った。


「仕事して、それから少し休む。順番にやればいいの。考えるのはそのあと」


「リゼは、簡単そうに言いますね」


「簡単じゃないから順番にするんでしょ」


 言い返せなくて、ユナは小さく頷いた。


 記録棟の写字室に入ると、羊皮紙とインクの匂いが静かに満ちていた。


 今日の仕事は、聖名帳の写し取りだった。


 生まれた者の名。

 修道院へ入った者の名。

 祝福を受けた者の名。


 古い帳面に記されたそれらの名を、新しい羊皮紙へ写していく。


 そして、写すべき名の中には、ユナ自身の名もあった。


 ユナ・リベル。


 机に置かれた古い聖名帳の上で、その文字は静かにそこにあった。


 見慣れているはずだった。


 リゼも、セシリアも、他のシスターたちも、ユナをそう呼ぶ。聖名庁に入った時から、ずっとその名で記録されている。


 なのに、紙の上に書かれたその名は、自分よりも先にここへ来て、自分を待っていたもののように見えた。


「名を写す時は、汚してはいけません」


 年長のシスターの声が、写字室に落ちる。


「曲げてはいけません。欠けさせてはいけません。ひとつひとつ、祈るように書きなさい」


 ユナは筆を取った。


 インクの匂いが、指先に近づく。


 ユナ。

 リベル。


 一文字ずつ、形を崩さないようになぞっていく。


 名を汚してはいけない。

 欠けさせてはいけない。

 その人が確かに生きていた証を、傷つけてはいけない。


 そう思えば思うほど、筆を持つ指に力が入った。


「ユナ」


 背後から声がした。


 リゼではない。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に小さな輪が広がった。


 振り向くと、セシリアが写字室の扉のそばに立っていた。白い修道服の袖口を揃え、いつものように穏やかな顔をしている。


 けれど、その目は、ユナの顔より少し奥を見ているようだった。


「セシリアさん」


「仕事中に失礼します。少し様子を見に来ただけです」


 セシリアは近づきすぎず、机の横で足を止めた。


「今朝は、少し顔色が優れないように見えました」


「……大丈夫です」


 返事が、少し遅れた。


 セシリアはそれを責めなかった。ただ、机の上の聖名帳へ視線を落とす。


「今日は聖名帳の写し取りなのですね」


「はい」


「あなたは、字が丁寧ですから」


 優しい言葉だった。


 けれど、ユナは筆を持つ指を隠したくなった。


 セシリアに見られているのは字ではなく、その奥にある何かなのではないか。そんな気がした。


 セシリアは、古い帳面の表紙にそっと指を置いた。


「名は、大切なものです」


「……はい」


「けれど、時々、名を見つめすぎると苦しくなることもあります」


 ユナは顔を上げた。


 セシリアは微笑んでいた。いつものように穏やかで、優しい顔だった。


 それなのに、その指は帳面の表紙を押さえたまま、少しも動かない。


 まるで、その一冊の中に、開いてはいけない頁があるみたいに。


「ユナ」


 もう一度、名を呼ばれる。


 その声は優しかった。


 優しいのに、胸のどこかが痛んだ。


「具合が悪くなったら、無理をせず知らせなさい。午後の講義も、今日は休んだ方がいいでしょう」


「……でも」


「今のあなたに必要なのは、無理に席へ着くことではありません」


 セシリアの声は静かだった。


「少し休んで、それから、落ち着ける場所を歩きなさい。何もしないでいる方がつらいなら、無理のない範囲で」


「……はい」


「よろしい」


 セシリアはそれ以上、何も聞かなかった。


 白い修道服の裾が、扉の向こうへ消える。足音が遠ざかり、写字室にはまた筆の音だけが戻ってきた。


 隣の席から、リゼがそっと身を寄せる。


「大丈夫?」


「……大丈夫です」


「それ、今日何回目?」


「数えていません」


「じゃあ、私が数える」


「数えなくていいです」


 リゼは肩をすくめた。


 その仕草に、少しだけ息がしやすくなる。


 ユナは机へ向き直った。


 聖名帳には、まだ写すべき名が並んでいる。


 ひとつひとつ、間違えないように。

 誰かが確かに生きていた証を、欠けさせないように。


 そう思って筆を持ち直した、その時だった。


 筆先から、黒い滴が落ちた。


 新しい羊皮紙の上に、小さな染みが生まれる。


 名の列から、少し離れた場所。


 どの欄にも入らない位置。


 ユナは息を止めた。


 ただのインクの染みだった。

 筆に含ませすぎたインクが、落ちただけ。


 そう分かっているのに、目を離せなかった。


 黒い点。


 名ではないもの。

 けれど、そこにあるもの。


 誰にも呼ばれず、どの欄にも収まらず、ただ黒く沈んでいるもの。


 目覚める前の夢が、ふいに目の裏へ戻ってきた。


 布の向こうにいた、顔のない誰か。

 呼ぼうとして、呼べなかった名前。

 自分のものではないはずなのに、胸の奥に残っている泣き声。


「ユナ?」


 リゼの声が聞こえた。


 けれど、すぐには返事ができなかった。


 聖名帳には、名が並ぶ。


 生まれた者。

 祝福された者。

 聖名帳に記された者。


 では、そこに書かれなかったものは、どこへ行くのだろう。


 そして。


 書かれているのに、自分のものだと思えない名は、本当に自分の名と言えるのだろうか。


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