第1話 名を呼ばれる夢
泣き声が、二つあった。
ひとつは近くで、もうひとつは白い布の向こう側で聞こえていた。どちらも細く、まだこの世界の空気に慣れていない声だった。
白い布が揺れている。
灯りはないはずなのに、その布だけが暗がりの中でぼんやりと浮かんで見えた。誰かの腕が、小さなものを抱いている。布に包まれたそれは泣いていた。もうひとつの泣き声は、すぐそばにあった。あったはずだった。
どちらが自分の声なのか、分からない。
寒い、と思った。
けれど、身体が震えているのかも分からなかった。
低い声がした。
祈りのようにも、決まりごとを読み上げる声のようにも聞こえた。そこに怒りはなかった。悲しみも、ためらいもなかった。ただ、昔からそうすることが決まっていたのだと言うように、淡々としていた。
――向こう様へ。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
白い布の先に、誰かが立っている。
顔がない。
目も、口も、鼻もない。輪郭さえ曖昧で、そこに人の形をした空白があるように見えた。それでも、見られていることだけは分かる。何かを待っている。何かを受け取ろうとしている。
泣き声が、ひとつ遠ざかった。
連れて行かれるのは、どちらなのだろう。
残されるのは、どちらなのだろう。
声を出そうとした。喉は動かなかった。
名前を呼ぼうとして、呼ぶべき名前を知らないことに気づいた。
自分に名前はあるのか。
あるのなら、誰が呼んでくれるのか。
白い布が暗がりに溶けていく。顔のない何かも、遠ざかる泣き声も、すべてが水面の奥へ沈むように薄れていく。
その時だった。
「ユナ」
誰かが呼んだ。
白い布の向こうではない。
もっと近く、朝の光に触れる場所から。
「ユナ、起きて。鐘、鳴ってるよ」
目を開けると、古い木の梁が見えた。
細い窓から朝の光が差し込んでいる。薄い生成りのカーテンが揺れ、遠くで鐘の音が響いていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。聖都アステルの朝を知らせる鐘だ。
ユナはしばらく、息をすることも忘れていた。
胸の奥が冷たい。夢の中の白い布が、まだ目の裏に残っている。二つあった泣き声も、顔のない存在も、目覚めたはずなのに消えてくれない。
「ユナ?」
寝台の横から、少女が顔をのぞき込んでいた。
リゼ・ノイマン。ユナと同じ修道女見習いで、同じ部屋で寝起きしている同期だった。朝に強く、声がよく通る。けれど、人が本当に触れられたくない場所には、不思議と踏み込んでこない。
「大丈夫? 顔、少し白いよ」
「……リゼ」
「うん。リゼ。ちゃんといるよ」
その声を聞いて、ユナはようやく瞬きをした。
「すみません。起こしてくれて、ありがとうございます」
「謝らなくていいよ。鐘、三回目だったから」
リゼは畳んであった修道服を、ユナの膝にそっと置いた。白と淡い灰色の、見習い用の簡素な服だった。ユナはそれに手を触れ、ようやく自分が今いる場所を確かめた。
聖都アステル。
聖名庁の修道院宿舎。
見習いたちに与えられた、小さな寝室。
夢の中の暗がりではない。
白い布の向こうでもない。
ここには、朝の光があった。
「怖い夢だった?」
リゼが尋ねた。
ユナは答えようとして、言葉を飲み込んだ。
白い布。
二つの泣き声。
向こう様へ、という声。
顔のない存在。
それを夢だと言えば、きっと夢になる。けれど、胸の奥に残る冷たさは、夢という言葉だけでは消えてくれなかった。
「……覚えていません」
リゼはユナをじっと見た。
けれど、すぐに小さく息を吐いた。
「そっか。じゃあ、覚えてない夢のことは、後で考えよ」
「……はい」
「まずは着替え。朝の祈りに遅れちゃう」
リゼは少しだけ笑った。ユナもつられるように、ほんの少し口元を動かした。
聖名庁の朝は早い。
身支度を整えて宿舎の寝室を出ると、見習いたちの足音が廊下に重なっていた。誰かが水差しを運び、誰かが祈祷書を胸に抱え、年長のシスターが静かな声で列を整えている。
宿舎の外へ出ると、朝の光が中庭の石畳に落ちていた。
白い石造りの棟が、渡り回廊の向こうにいくつも並んでいる。
祈りのための棟、記録を納める棟、傷ついた者を受け入れる棟。
そのどれもが、ここにいる者の名を守るためにあるのだと、ユナは教えられてきた。
遠くには、聖名大聖堂の塔が見えた。
聖都アステルのどこからでも見える、白く高い塔。鐘の音はそこから響き、聖都の朝を起こす。
ユナは、その一角にある修道院区画で暮らしている。
修道女見習い。
まだ正式なシスターではない。けれど、何者でもないわけではない。
聖名帳には、そう記されている。
ユナ・リベル。
教会の記録にある、自分の名。
リゼが「ユナ」と呼べば、振り向く。
けれど、それが本当に自分の奥まで届いているのかと問われると、うまく答えられなかった。
ユナ、という名も。
リベル、という姓も。
聖名帳に書かれている。講義でもそう呼ばれる。誰も疑わない。
それなのに、口の中で転がすと、どこか借り物のように感じる。
自分のもののはずなのに、自分の奥まで届かない。
「ユナ」
隣を歩いていたリゼが、少しだけ声を落とした。
「本当に、無理してない?」
ユナは足を止めかけた。
朝の光が、中庭の白い石の上で淡く揺れている。夢の中の布と少しだけ似ていた。そう思った瞬間、胸の奥にまた冷たさが触れた。
「大丈夫です」
そう答えると、リゼは一瞬だけ何か言いたそうにした。
でも、結局言わなかった。
「ならいいけど。食堂ではちゃんと朝食食べなよ。ユナ、考えごとしてると食べるの忘れるでしょ」
「……そんなことは」
「あるよ。昨日だって、食堂で聖女様の話になった時、パンを持ったまま固まってたし」
「聖女様……」
「シャルロッテ様。ほら、聖都にいて知らない人いないでしょ」
「……はい」
「返事だけじゃなくて、本当に」
リゼは今度こそ笑った。
ユナも歩き出す。
シャルロッテ。
聖女の名は、聖都で暮らす者なら誰もが知っている。
祈りの鐘や白い塔と同じように、当たり前にそこにある名だった。
けれどユナにとっては、まだ白い塔の上にあるような、自分とは離れたところの名だった。
それなのに、その名だけはなぜか、耳の奥に小さく残った。
ここは聖都アステル。
神の秩序に守られた、白い石の街。
祈りの鐘が鳴り、聖名帳に名が記され、誰もが自分の名を持っている場所。
不安になることなど、何もないはずだった。
けれどその朝、ユナの耳にはずっと、夢の中で遠ざかっていった泣き声が残っていた。
鐘の音に紛れて、誰にも聞こえないほどかすかに。
名を呼ばれなかった誰かの声のように。
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