表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/36

第1話 名を呼ばれる夢


 泣き声が、二つあった。


 ひとつは近くで、もうひとつは白い布の向こう側で聞こえていた。どちらも細く、まだこの世界の空気に慣れていない声だった。


 白い布が揺れている。


 灯りはないはずなのに、その布だけが暗がりの中でぼんやりと浮かんで見えた。誰かの腕が、小さなものを抱いている。布に包まれたそれは泣いていた。もうひとつの泣き声は、すぐそばにあった。あったはずだった。


 どちらが自分の声なのか、分からない。


 寒い、と思った。

 けれど、身体が震えているのかも分からなかった。


 低い声がした。


 祈りのようにも、決まりごとを読み上げる声のようにも聞こえた。そこに怒りはなかった。悲しみも、ためらいもなかった。ただ、昔からそうすることが決まっていたのだと言うように、淡々としていた。


 ――向こう様へ。


 その言葉だけが、耳の奥に残った。


 白い布の先に、誰かが立っている。


 顔がない。


 目も、口も、鼻もない。輪郭さえ曖昧で、そこに人の形をした空白があるように見えた。それでも、見られていることだけは分かる。何かを待っている。何かを受け取ろうとしている。


 泣き声が、ひとつ遠ざかった。


 連れて行かれるのは、どちらなのだろう。

 残されるのは、どちらなのだろう。


 声を出そうとした。喉は動かなかった。

 名前を呼ぼうとして、呼ぶべき名前を知らないことに気づいた。


 自分に名前はあるのか。


 あるのなら、誰が呼んでくれるのか。


 白い布が暗がりに溶けていく。顔のない何かも、遠ざかる泣き声も、すべてが水面の奥へ沈むように薄れていく。


 その時だった。


「ユナ」


 誰かが呼んだ。


 白い布の向こうではない。

 もっと近く、朝の光に触れる場所から。


「ユナ、起きて。鐘、鳴ってるよ」


 目を開けると、古い木の梁が見えた。


 細い窓から朝の光が差し込んでいる。薄い生成りのカーテンが揺れ、遠くで鐘の音が響いていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。聖都アステルの朝を知らせる鐘だ。


 ユナはしばらく、息をすることも忘れていた。


 胸の奥が冷たい。夢の中の白い布が、まだ目の裏に残っている。二つあった泣き声も、顔のない存在も、目覚めたはずなのに消えてくれない。


「ユナ?」


 寝台の横から、少女が顔をのぞき込んでいた。


 リゼ・ノイマン。ユナと同じ修道女見習いで、同じ部屋で寝起きしている同期だった。朝に強く、声がよく通る。けれど、人が本当に触れられたくない場所には、不思議と踏み込んでこない。


「大丈夫? 顔、少し白いよ」


「……リゼ」


「うん。リゼ。ちゃんといるよ」


 その声を聞いて、ユナはようやく瞬きをした。


「すみません。起こしてくれて、ありがとうございます」


「謝らなくていいよ。鐘、三回目だったから」


 リゼは畳んであった修道服を、ユナの膝にそっと置いた。白と淡い灰色の、見習い用の簡素な服だった。ユナはそれに手を触れ、ようやく自分が今いる場所を確かめた。


 聖都アステル。

 聖名庁の修道院宿舎。

 見習いたちに与えられた、小さな寝室。


 夢の中の暗がりではない。

 白い布の向こうでもない。


 ここには、朝の光があった。


「怖い夢だった?」


 リゼが尋ねた。


 ユナは答えようとして、言葉を飲み込んだ。


 白い布。

 二つの泣き声。

 向こう様へ、という声。

 顔のない存在。


 それを夢だと言えば、きっと夢になる。けれど、胸の奥に残る冷たさは、夢という言葉だけでは消えてくれなかった。


「……覚えていません」


 リゼはユナをじっと見た。


 けれど、すぐに小さく息を吐いた。


「そっか。じゃあ、覚えてない夢のことは、後で考えよ」


「……はい」


「まずは着替え。朝の祈りに遅れちゃう」


 リゼは少しだけ笑った。ユナもつられるように、ほんの少し口元を動かした。


 聖名庁の朝は早い。


 身支度を整えて宿舎の寝室を出ると、見習いたちの足音が廊下に重なっていた。誰かが水差しを運び、誰かが祈祷書を胸に抱え、年長のシスターが静かな声で列を整えている。


 宿舎の外へ出ると、朝の光が中庭の石畳に落ちていた。

 白い石造りの棟が、渡り回廊の向こうにいくつも並んでいる。

 祈りのための棟、記録を納める棟、傷ついた者を受け入れる棟。

 そのどれもが、ここにいる者の名を守るためにあるのだと、ユナは教えられてきた。


 遠くには、聖名大聖堂の塔が見えた。


 聖都アステルのどこからでも見える、白く高い塔。鐘の音はそこから響き、聖都の朝を起こす。


 ユナは、その一角にある修道院区画で暮らしている。


 修道女見習い。

 まだ正式なシスターではない。けれど、何者でもないわけではない。


 聖名帳には、そう記されている。


 ユナ・リベル。


 教会の記録にある、自分の名。


 リゼが「ユナ」と呼べば、振り向く。


 けれど、それが本当に自分の奥まで届いているのかと問われると、うまく答えられなかった。


 ユナ、という名も。

 リベル、という姓も。


 聖名帳に書かれている。講義でもそう呼ばれる。誰も疑わない。


 それなのに、口の中で転がすと、どこか借り物のように感じる。


 自分のもののはずなのに、自分の奥まで届かない。


「ユナ」


 隣を歩いていたリゼが、少しだけ声を落とした。


「本当に、無理してない?」


 ユナは足を止めかけた。


 朝の光が、中庭の白い石の上で淡く揺れている。夢の中の布と少しだけ似ていた。そう思った瞬間、胸の奥にまた冷たさが触れた。


「大丈夫です」


 そう答えると、リゼは一瞬だけ何か言いたそうにした。


 でも、結局言わなかった。


「ならいいけど。食堂ではちゃんと朝食食べなよ。ユナ、考えごとしてると食べるの忘れるでしょ」


「……そんなことは」


「あるよ。昨日だって、食堂で聖女様の話になった時、パンを持ったまま固まってたし」


「聖女様……」


「シャルロッテ様。ほら、聖都にいて知らない人いないでしょ」


「……はい」


「返事だけじゃなくて、本当に」


 リゼは今度こそ笑った。


 ユナも歩き出す。


 シャルロッテ。


 聖女の名は、聖都で暮らす者なら誰もが知っている。

 祈りの鐘や白い塔と同じように、当たり前にそこにある名だった。


 けれどユナにとっては、まだ白い塔の上にあるような、自分とは離れたところの名だった。


 それなのに、その名だけはなぜか、耳の奥に小さく残った。


 ここは聖都アステル。


 神の秩序に守られた、白い石の街。

 祈りの鐘が鳴り、聖名帳に名が記され、誰もが自分の名を持っている場所。


 不安になることなど、何もないはずだった。


 けれどその朝、ユナの耳にはずっと、夢の中で遠ざかっていった泣き声が残っていた。


 鐘の音に紛れて、誰にも聞こえないほどかすかに。


 名を呼ばれなかった誰かの声のように。


お読みいただきありがとうございます。

ユナたちの行く先をもう少し見届けたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価でそっと応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ