第4話 守られた名
セシリアの隣を歩く時、ユナはいつも少しだけ息を整える。
急かされているわけではない。むしろ、セシリアの歩幅はいつもユナに合わせられている。けれど、その静かな優しさに触れるたび、自分は何か大切なものを知らないまま守られているのだと感じてしまう。
知らないまま。
その言葉が胸の奥で小さく沈んだ。
救護棟は、修道院区画から中庭をひとつ挟んだ北側にあった。
聖名大聖堂から少し離れた、日当たりのいい棟だ。修道院区画から向かうには、中庭をひとつ横切り、屋根付きの渡り回廊を抜ける必要がある。祈りの声よりも、水差しの音や、薬草を刻む音の方がよく聞こえる場所だった。
セシリアが救護室の扉を開けると、乾いた布と薬草の匂いがした。
寝台は十ほど並んでいる。怪我をした修道士、熱を出した見習い、巡回中に足を痛めた若い従騎士。重い怪我人はいない。聖都十二結界に守られた聖都アステルでは、救護室の静けささえ、守られていることの証のように見えた。
「この布は奥の棚へ。薬草は机の上にお願いします」
「はい」
ユナはセシリアから籠を受け取り、言われた通りに歩いた。
寝台のそばでは、年配のシスターが記録板に何かを書きつけていた。寝台番号、名前、症状、処置。きちんと欄が分かれていて、誰が何を受けたのか、一目で分かるようになっている。
記録されること。
それはここでも、人が見失われないためのしるしだった。
「三番寝台、エルマ・クライン。熱は下がりましたね」
シスターが名を呼ぶと、寝台の少女が小さく頷いた。
「はい……ありがとうございます」
「無理は禁物です。昼までは休みなさい」
名を呼ばれる。
症状を記される。
休む場所を与えられる。
それだけで、その人はここにいるのだと分かる。
ユナは棚に布を置きながら、ふと自分の手を見た。指先には、朝の写字室で落とし損ねたインクの色が少し残っている。何度洗っても、爪の近くに黒が沈んでいた。
名を書く手。
名を写す手。
けれど、自分の名さえうまく受け取れない手。
「ユナ」
セシリアの声がした。
振り向くと、彼女は小さな子どもの寝台のそばに膝をついていた。聖名庁で働く下働きの子らしい。額に冷たい布を乗せ、目元だけをこちらに向けている。
「水を持ってきていただけますか」
「はい」
ユナは水差しを取り、杯に注いだ。
子どもは受け取る時、少し手を震わせた。
「ありがとう……シスター」
「私はまだ見習いです」
そう言うと、子どもは不思議そうに瞬きをした。
「でも、名前呼んでくれた」
「え?」
「さっき、私のこと、ミナって」
ユナは少し考えてから思い出した。水差しを取る前、寝台札に書かれた名を見て、確かに呼んだ。
ミナ。
ただ確認しただけだった。間違えないように、書かれた名前を声にしただけ。
それなのに、子どもは安心したように杯を抱えていた。
「名前呼ばれると、ちょっと怖くなくなるから」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
怖くなくなる。
呼ばれれば、ここに戻れる。
リゼが呼ぶ「ユナ」。
セシリアが呼ぶ「ユナ」。
けれど、まだ自分の奥まで届ききらない名。
「……ミナさん」
ユナはもう一度、その名を呼んだ。
子どもは少しだけ笑った。
その笑みを見て、なぜか息が詰まった。
守られる人がいる。
記録される人がいる。
名前を呼ばれて、怖さから少し戻れる人がいる。
ここは、そういう場所なのだと思った。
それなのに、自分の中には、どこにも戻れない声が残っている。
白い布の向こうで遠ざかっていった泣き声。
呼ばれなかった誰かの気配。
「ユナ」
セシリアが、静かに呼んだ。
ユナは顔を上げる。
セシリアはミナの寝具を直しながら、穏やかな顔をしていた。けれど、その指先は少しだけ強く布を握っている。
その手を見て、ユナは思った。
セシリアさんは、何をそんなに怖がっているのだろう。
誰かの名を呼ぶたびに、何かを思い出しているように見える。
でも、それが何なのか、ユナには分からない。
救護室の中で、それを聞いてはいけない気がした。ここには休んでいる人がいて、記録されている人がいて、呼ばれることで安心している子がいる。そんな場所で、誰かの傷を無理に開くことはできなかった。
「手伝えることは、他にありますか」
代わりに、そう尋ねた。
セシリアは一瞬だけ目を伏せた。
「では、こちらの記録札を並べてください。名前と寝台番号が合っているか、確認を」
「はい」
小さな木札には、ひとつひとつ名が刻まれていた。
エルマ・クライン。
ミナ・ラウ。
オルト・ベッカー。
知らない人たちの名。
けれど、刻まれているだけで、その人たちはどこかへ消えずに済むように見えた。誰かが呼べる。誰かが探せる。誰かが祈れる。
ユナは木札を並べながら、自分の名を思う。
ユナ・リベル。
聖名帳に記された名。
呼ばれれば振り向ける名。
けれど、まだ胸の奥で少しだけ遠い名。
「ユナ」
また、セシリアが呼んだ。
今度は近かった。
ユナが振り向くと、セシリアは布の入っていた空の籠を抱えていた。何かを言おうとして、言えないでいるようだった。
「あなたが名前を呼んだ時、あの子は安心していました」
「私は、ただ札を読んだだけです」
「それでも、呼ばれた側には違います」
セシリアの声が、わずかに揺れた。
ユナはその揺れを聞き逃せなかった。
「セシリアさん」
呼んでから、続きが出てこなかった。
聞きたいことはいくつもある。
どうしてそんな顔をするのか。
どうして夢の話をすると黙るのか。
どうして、自分の名を呼ぶ時だけ、祈るような声になるのか。
けれどセシリアは、ユナの問いを待たなかった。
「名は、ただの記録ではありません」
静かな声だった。
「呼ぶ人がいて、応える人がいる。だから、その人は見失われずにいられます」
「……では」
ユナは言いかけた。
では、呼ばれなかった人は。
けれどセシリアの顔を見た瞬間、その言葉は胸の奥で止まった。
セシリアは、泣きそうな顔をしていた。
ほんの一瞬だけ。
すぐにいつもの穏やかな顔へ戻ったけれど、ユナには見えてしまった。
やはり、何かを知っているのかもしれない。
ユナがまだ知らない、もういない誰かのことを。
救護棟を出るころ、昼の光は少し傾き始めていた。
中庭の方からは、午後の仕事へ向かう人々の足音が戻っている。誰もが自分の向かう棟を知っているように歩いていた。
セシリアは歩きながら深く息を吸い、息を吐き出した。
「ありがとうございました、ユナ」
「いえ。私は、あまり役に立っていません」
「そんなことはありません」
セシリアはすぐに言った。
その早さに、ユナは少し驚いた。
「あなたは、名前を呼びました」
それだけで十分なのだと、セシリアの声は言っていた。
ユナは返事ができず、ただ頷いた。
二人は修道院区画へ戻るため、救護棟の前の石畳を歩き出した。
午後の光が、北側区画の白い壁を淡く照らしている。救護棟から修道院区画へは、木立のそばを抜ける細い石畳と、屋根付きの渡り回廊が続いていた。
中央中庭の賑わいは、棟の向こう側にある。
ここまで来ると、聖名大聖堂の塔は屋根越しに少しだけ見えるだけだった。
その時、遠くで小さな鐘が鳴った。
昼を告げる鐘ではない。
聖名大聖堂の鐘とも違う、もっと細く、硬い音。
セシリアの足が、ほんの少しだけ止まった。
「……セシリアさん?」
「いえ」
セシリアはすぐに歩き出した。
「結界管理棟の確認鐘です。いつもの音です」
いつもの音。
そう言われれば、そうなのだと思うしかなかった。
けれど、セシリアがほんの一瞬だけ足を止めたことを、ユナは忘れられなかった。
救護室で呼んだ名。
木札に刻まれていた名。
忘れられないように刻まれた、いくつもの名。
そのどれもが、さっきの細い鐘の音に触れたように、胸の奥で静かに揺れていた。
ユナは何も言わず、セシリアの隣を歩いた。
渡り回廊の影が、二人の足元に長く伸びていた。




