第27話 まだ名づけられない問い
リゼの残っていた仕事は、思っていたよりも多かった。
礼拝室で使った布を畳み、燭台の蝋を削り、明日の朝に配る祈祷書を棚へ戻す。ひとつひとつは小さな仕事なのに、気づけば両手いっぱいになっていた。
「だから、手伝わなくていいって言ったのに」
リゼは布の端を揃えながら、少しだけ唇を尖らせた。
「私が手伝いたかったんです」
「それ、真面目な顔で言われると怒りにくいんだけど」
「怒っていたんですか」
「怒ってない。ちょっとだけ、心配してただけ」
リゼの声は軽かった。けれど、その軽さの奥にあるものを、ユナは少しだけ分かるようになっていた。
白祈会議室を出てからも、胸の奥に残っているものがある。
古鐘門の鐘の音。
記録板に残された文字。
それを、どう言葉にするのかを決めようとする大人たちの声。
見たものは、自分の中にまだ残っている。けれど、それを正しく言葉にできる気はしなかった。
だからこそ、手を動かしていたかった。
布を畳む。祈祷書を並べる。蝋燭の芯を整える。そうしている間だけは、自分が聖名庁の見習い修道女でいられる気がした。
「ユナ、そこ、逆」
「あ……すみません」
「はい、やり直し」
リゼは笑いながら、祈祷書の束をユナの前へ戻した。
いつも通りの声だった。
その声に、少しだけ息がしやすくなる。
仕事が片づくころには、夕食の鐘が鳴っていた。
食堂には、温かい麦粥と、豆の煮込みの匂いが満ちていた。長机には見習いたちが並び、今日あった小さな失敗や、明日の掃除当番の話をしている。
ユナはリゼの隣に座った。
「食べてる?」
「食べています」
「口だけじゃなくて?」
「……食べます」
匙を口に運ぶと、リゼは満足そうに頷いた。
けれど、しばらくしてから小さく尋ねた。
「今度は、何を考えてたの」
「……分かりますか」
「分かるよ。ユナ、考えごとしてる時、匙を持ったまま止まるから」
ユナは自分の手元を見た。確かに、匙は器の上で止まっていた。
言うべきか、少し迷った。
古鐘門のこと。会議のこと。記録のこと。言えないことはたくさんある。けれど、今胸の中に浮かんでいたのは、そのどれとも少し違っていた。
「シャルロッテ様のことを、考えていました」
リゼの手が、一瞬だけ止まった。
「聖女様のこと?」
「はい」
「……そっか」
それだけだった。
リゼはそれ以上、すぐには聞かなかった。豆の煮込みを匙でつつきながら、少しだけ視線を落とす。
その沈黙が、ユナにはかえって気になった。
「変、でしょうか」
「変じゃないよ。巡祈で一緒にいるんだし、考えることくらいあるでしょ」
「はい」
ユナは匙を見つめた。
「ただ、分からないんです」
「何が?」
「シャルロッテ様が、どうして私のことをあんなに気に掛けてくださるのか」
口にしてから、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
「私は、ただの見習いです。結界のことも、聖女様のお役目も、ほとんど分かりません。見えるものだって、うまく説明できないことばかりです」
「うん」
「それなのに、シャルロッテ様は私の言葉を待ってくださいます。分からないなら、分からないままでいいとおっしゃってくださいます。私の名を……何度も、呼んでくださいます」
言いながら、自分でその言葉に戸惑った。
名を呼ばれること。
それがどうして、こんなに胸に残るのだろう。
リゼは少し黙ってから、軽く笑った。
「聖女様だから、じゃないの?」
「そう、なのでしょうか」
「聖女様って、困ってる人を放っておけない人なんでしょ。街の人も、みんなそう言ってるし」
「はい」
「でも」
リゼはそこで、少しだけ声を落とした。
「ユナがそう思うってことは、たぶん、それだけじゃない感じがするんでしょ」
ユナは答えられなかった。
聖女だから。
王女だから。
異変に関わる証言者だから。
理由なら、いくつも考えられる。
けれど、シャルロッテが自分の名を呼ぶ時の声は、そのどれかひとつだけで説明できるようには思えなかった。
夕食を終えると、二人は湯浴み場へ向かった。
湯気の満ちた石造りの部屋で、見習いたちの声がやわらかく響いている。今日の疲れを湯に落としていくように、誰もが少しだけ表情を緩めていた。
ユナは湯に肩まで浸かりながら、天井に溜まった白い湯気を見上げた。
シャルロッテは、今もまだ仕事をしているのだろうか。
巡祈で人々に微笑み、祈りを受け取り、結界を確認し、会議では言葉を選びながら立つ。聖女として。王女として。誰かの前に立つ人として。
けれど、あの人自身の疲れは、どこへ行くのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
湯浴み場を出ると、夜の回廊には淡い魔導灯がともっていた。濡れた髪の先から、水滴がぽたりと落ちる。石床に小さな点を作り、すぐに消えた。
部屋に戻ると、リゼは椅子を引いて座った。
「はい、今日もお願い」
そう言って、櫛を差し出す。
ユナは受け取った。
リゼの髪は、湯上がりで少しだけ重たくなっていた。指で分け、ゆっくり櫛を通す。引っかからないように、根元からではなく毛先から。何度もやってきたことだった。
リゼはこの時間が好きだと言ったことがある。
ユナも、嫌いではなかった。
誰かの髪を梳くという行為は、相手がそこにいることを確かめるようだった。目の前にいる。触れれば温かい。名を呼べば返事がある。
「聖女様って、ユナのこと、よく見てるよね」
リゼが前を向いたまま言った。
ユナの手が止まる。
「……そうでしょうか」
「そうだよ。だって、ユナが何か言う前から気づくんでしょ。顔色とか、声とか、見えたものを言いにくそうにしてることとか」
「それは、聖女様だから」
「聖女様って、みんなにそうなの?」
リゼの声は軽かった。
けれど、その問いは、櫛の歯よりも細く胸に触れた。
ユナは答えられなかった。
シャルロッテは、誰にでも優しい。
街の人にも、子どもにも、怪我人にも、祈る者にも。
けれど、自分の名を呼ぶ時の声を、他の誰かにも向けているのかは分からなかった。
「……分かりません」
「そっか」
リゼはそれだけ言って、膝の上で手を組んだ。
ユナはもう一度、櫛を通す。
茶色の髪が、櫛の歯の間をすべっていく。何度も見てきた髪。何度も呼んできた名前。リゼは、ユナの日常にいる。
それなのに、少しだけ手が止まる。
「また考えてる」
リゼが言った。
「すみません」
「謝るところじゃないでしょ」
「でも」
「でも?」
「今、リゼの髪を梳いているのに、別のことを考えていました」
正直に言うと、リゼは少しだけ肩を揺らした。笑ったのか、困ったのかは分からなかった。
「そういうの、言わなくてもいいのに」
「言わない方がよかったですか」
「ううん。ユナらしいなって思っただけ」
リゼは少しだけ振り向いた。
「でもさ」
「はい」
「髪梳いてる時くらいは、こっち見てよ」
その言い方は軽かった。
いつものリゼらしい、冗談のような声だった。
けれど、ユナはなぜか胸を突かれた。
櫛を持つ手に、少しだけ力が入る。
「……はい」
「そんな真面目に返事しなくても」
「今は、リゼを見ています」
リゼが黙った。
それから、耳のあたりが少しだけ赤くなる。
「そういうの、ほんと困るんだけど」
「困らせるつもりは」
「分かってる。分かってるから困るの」
リゼは前を向き直った。
ユナはゆっくり櫛を通す。
明日も巡祈は続く。
聖女のそばに立ち、見えたものを伝えなければならない。分からないものを、分からないまま見なければならない。
戻る場所がある。
けれど、見てしまった人もいる。
ユナはその二つを抱えたまま、リゼの髪を最後まで梳いた。
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