第28話 測れない光
朝の支度を終えるころ、リゼはまだ眠っていた。
寝台の上で、茶色の髪が枕に広がっている。昨夜、何度も櫛を通した髪だった。
――髪梳いてる時くらいは、こっち見てよ。
その声が、まだ耳の奥に残っている。
ユナは音を立てないように修道服の襟を整え、寝室の扉へ向かった。部屋を出る前に、もう一度だけ振り返る。
リゼは日常の中にいる。
朝の鐘で目を覚まし、食堂で隣に座り、夜には髪を梳いてほしいと笑う。そこに戻れば、自分はいつものユナでいられる気がする。
けれど、今日も巡祈は続く。
ユナは扉を静かに閉めた。
聖女の執務棟の前には、すでに巡祈隊が集まっていた。
白い朝の光の中で、ロランはいつも通り無言で周囲を見ている。クラウディアは記録板を抱え、マティアスは結界管理官と短く言葉を交わしていた。
その中心に、シャルロッテが立っている。
朝日を受けたホワイトゴールドの髪が、淡く揺れていた。
「おはようございます、ユナ」
名を呼ばれて、ユナは少しだけ足を止めた。
「おはようございます、シャルロッテ様」
返事をすると、シャルロッテはユナの顔を見た。
「眠れましたか」
「……はい。少しだけ」
嘘ではなかった。けれど、よく眠れたわけでもない。
シャルロッテはそれ以上、無理に聞かなかった。ただ、いつもの穏やかな声で言う。
「今日も、見えたものを無理に整えなくてかまいません。分からなければ、分からないまま話してください」
ユナは胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
どうしてこの方は、自分の言葉を待ってくれるのだろう。
聖女だから。王女だから。結界の異変に関わる者として、自分の証言が必要だから。
理由なら、いくつもある。
それなのに、そのどれかひとつだけではないような気がしてしまう。
「本日は第十結界、白耀塔へ向かいます」
マティアスが皆へ告げた。
「白耀塔は、王城外苑の一角にある王宮魔術局の管理区画内です。確認後、状況に問題がなければ第十一結界、北西古道碑へ進みます。そこで大きな異常がなければ、第十二結界、聖名水庭まで確認する予定です」
王宮魔術局。
その名を聞いて、ユナは少し緊張した。
聖名庁とは違う場所。祈りではなく、術式と魔導具を扱う人々の場所。聖都の魔導灯や測定具を管理する、王家直属の機関。
同じ聖都にありながら、ユナにとっては遠い場所だった。
王城外苑の一角にある管理区画へ入ると、空気が少し変わった。
白い石造りの建物は聖名庁と似ている。けれど、そこに満ちているものは祈りの静けさではなかった。
青白い魔導灯が昼でも淡く灯り、壁には細い術式が銀の線で刻まれている。硝子板の奥で光が走り、金属の記録針がかすかな音を立てて動いていた。
ユナは思わず立ち止まりそうになる。
聖句ではない文字。祈りではない光。
それでも、この場所も聖都を支えているのだと分かった。
「お待ちしておりました、聖女殿下」
塔の前で、一人の女性魔術師が頭を下げた。
栗色の髪を後ろで束ね、つばの広い魔術師帽を被っている。濃紺の外套の胸元には、王宮魔術局の徽章が留められていた。
「王宮魔術局、結界観測班所属のリディア・フェルマーです。本日の白耀塔確認に立ち会います」
そう名乗ってから、リディアは軽く帽子のつばに触れた。
「堅苦しい挨拶はここまでで。現場では、見えたものをそのまま言ってもらえると助かります」
「よろしくお願いします、リディア」
シャルロッテが静かに頷いた。
白耀塔は、管理区画の奥にあった。
細く高い白い塔。外壁には古い聖句が刻まれ、塔の根元には魔導灯網へ繋がる金属管が幾筋も伸びている。聖なるものと魔術のものが、同じ塔に絡み合っているように見えた。
塔の内部は冷えていた。
中央には聖印が刻まれた白い石台があり、その周囲を囲むように測定具が並んでいる。硝子の筒、魔力圧を示す針、淡く光る記録板。リディアがそれらを一つずつ確認していく。
「魔力圧は通常範囲。魔導灯網への逆流もなし。術式干渉も……今のところは出てないわね」
クラウディアが記録板へ書き込む。
シャルロッテは石台の前へ進み、両手を重ねた。
祈りの言葉が、塔の中に静かに落ちる。
聖印が白く光った。
その光は、魔導灯の青白さとは違っていた。やわらかく、温かく、けれど芯のある光。塔の内壁に刻まれた聖句が、ひとつずつ応えるように淡く輝く。
異常はない。
そう思った瞬間だった。
天井近くの魔導灯が、一度だけ瞬いた。
消えたわけではない。揺らいだわけでもない。
ただ、光だけがほんの少し遅れて、そこへ戻ってきたように見えた。
ユナは息を止めた。
水面の波紋ではない。古鐘門の鐘の音でもない。けれど今、確かに何かがずれた。
こちら側にあるはずの光が、一瞬だけ、こちら側へ戻るのを迷ったように。
「ユナ」
シャルロッテの声がした。
その名に、ユナは瞬きをする。
シャルロッテは振り返っていた。祝福を終えたばかりなのに、その視線は石台ではなくユナへ向いている。
「何か、見えましたか」
ユナは口を開きかけ、迷った。
測定具は静かだった。リディアも異常を告げていない。ロランも剣へ手をかけてはいない。
自分だけが、また言葉にしづらいものを見ている。
「……異常と言えるほどでは、ありません」
それでも、言わなければならないと思った。
「ただ、光が……一瞬だけ、戻るのを遅らせたように見えました」
リディアが測定具へ視線を走らせる。
「測定値に変化なし。魔導灯網も乱れてないわね。……だからこそ、嫌な感じだけど」
当然のように告げられた言葉に、ユナの胸が少しだけ縮む。
けれど、シャルロッテは静かに言った。
「では、測定値には出ていない異常として記録してください」
クラウディアの筆が止まる。
「殿下」
「ユナが見たことです」
その声は穏やかだった。けれど、退く気配はなかった。
「分からないものを、分からないまま残すことも必要です」
ユナはシャルロッテを見た。
どうして。
また、その問いが胸に浮かぶ。
どうしてこの方は、私が見たものを消さずにいてくださるのだろう。
クラウディアは短く頷き、記録板へ筆を走らせた。
「第十結界、白耀塔。祝福反応、安定。魔導測定値に異常なし。ただし、ユナの証言として、魔導灯光の一瞬の遅延を記録」
リディアは少しだけ興味深そうにユナを見た。
「光の遅れ、ね」
「……はい。そう見えただけかもしれません」
「そう見えただけ、で済ませると後で痛い目を見るのよ。特に、こういう嫌な現場ではね」
リディアは測定具に視線を戻した。
「測れないものがある、って記録も観測の一部。魔術師としては、あんまり認めたくないけど」
その言葉に、ユナは少し驚いた。
魔術局の人なら、測定値に出ないものを否定すると思っていた。けれど、そうではないらしい。
白耀塔の確認は、それ以上大きな異常なく終わった。
けれど、リディアは測定具からすぐには離れなかった。記録板に残された「魔導灯光の一瞬の遅延」という文字を、もう一度見ている。
「聖女殿下」
リディアが顔を上げた。
「差し支えなければ、第十一結界以降の確認にも同行させてください」
リディアは記録板の文字を一瞥して、肩をすくめた。
「測定値に出ない異常を置いて帰れるほど、私も肝は太くないので」
マティアスがわずかに眉を動かした。
「魔術局からの同行ですか」
「はい。白耀塔では測定値に異常は出ていません。けれど、ユナさんは“光の遅れ”を見た。測定具に出ないから何もない、で済ませるには少し気持ち悪いです」
リディアは測定具を軽く叩いた。
「白耀塔は魔導灯網の結節点です。あそこで妙な遅れが出たなら、他の結界基点にも同じものが出ていないか確認した方がいい。こういう嫌な予感って、だいたい外れてくれませんから」
ユナはリディアを見た。
測定値に出ないものを、なかったことにしない人。
そう思うと、少しだけ胸の奥が落ち着いた。
「同行者が増えれば、隊列も変わります。観測員とはいえ、殿下の護衛を優先する点は変えられません」
「問題ありません。前へ出るつもりはありませんし、観測位置はクラウディアさんの後方で構いません」
マティアスはシャルロッテへ視線を向けた。
「殿下、いかがなさいますか」
シャルロッテは少し考え、それから頷いた。
「同行を許可します。ただし、巡祈隊の指揮はマティアスに従ってください。記録はクラウディアと共有を」
「了解しました。記録はクラウディアさんと共有します」
リディアは深く頭を下げた。
「王宮魔術局、結界観測班所属、リディア・フェルマー。第十一・第十二結界の確認に、観測員として同行いたします」
塔を出ると、朝の光は少し高くなっていた。管理区画に並ぶ青白い魔導灯は、もう何事もなかったように静かに灯っている。
「次は第十一結界、北西古道碑です」
クラウディアが告げた。
北西。
その言葉を聞いた瞬間、ユナの胸の奥に、理由のない冷たさが落ちた。
古鐘門の鐘の音が、遠くで一度だけよみがえる。
白耀塔の光は、もう揺れていない。
けれどユナには、あの光が一瞬だけ、こちら側へ戻り損ねたように見えたことが、まだ胸の奥に残っていた。




