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第26話 なかったことじゃない


 白祈会議室の灯りは、昼の明るさとは違っていた。


 窓から差し込む光ではなく、壁に据えられた魔導灯の淡い光。白い石の卓に広げられた記録板と、聖都十二結界の簡略図が、静かに照らされている。


 ユナはシャルロッテの少し後ろに立っていた。


 古鐘門の鐘は、もう鳴っていない。


 けれど、胸の奥にはまだ細い震えが残っている。鐘の音そのものではない。もっと奥、名前を呼ばれるよりも深い場所に触れられたような感覚。


 あれを、どう記録するのだろう。


 古鐘門の鐘が鳴った。


 けれど、鐘としての役目は失われていると記録されていた。


 ならば、鳴ったものは何なのか。


 卓の向こうで、グレゴリオ大司教が静かに口を開いた。


「古鐘門の件は、“第七結界における一時的な結界応答”として処理します」


 その声は穏やかだった。


 穏やかだからこそ、言葉が石の上に置かれていくように聞こえる。


「鐘の鳴動についても記録は残します。ただし、意味づけは保留とする。現時点で、人々に不安を広げる必要はありません」


 間違ってはいない。


 ユナにも、それは分かった。


 危険は確認されていない。結界も保たれている。鐘が鳴った理由も分からない。分からないことを広めれば、不安だけが大きくなる。


 それでも、胸の奥が少し冷えた。


 一時的な結界応答。


 その言葉は、あの鐘の音を小さな箱に入れて、蓋をするように聞こえた。


「大司教猊下」


 シャルロッテが静かに言った。


「鐘が鳴ったことを、鐘が鳴らなかったかのようには書かないでください」


 部屋の空気が、ほんの少し動いた。


 グレゴリオは表情を変えなかった。


「もちろんです、聖女殿下。起きたことは記録します」


「では、ユナが感じたことも」


 ユナは思わず顔を上げた。


 シャルロッテの横顔は静かだった。けれど、その声には柔らかいだけではない強さがある。


「鐘の音に、自分の中の何かが触れられたように感じた。少なくとも、その証言は削らないでください」


 グレゴリオの視線が、ユナへ向いた。


 責めるものではない。


 けれど、測られているようだった。


「証言としては残しましょう。ただし、断定は避けます」


「それで構いません」


 シャルロッテは頷いた。


「けれど、最初から別の言葉へ置き換えないでください」


 記録板を持つクラウディアの指が、ほんの少し止まった。


 ユナは、古鐘門の前で聞いたシャルロッテの言葉を思い出していた。


 記録にないものを、なかったことにはしません。


 あの時、その言葉は確かに胸へ残った。


 では、言葉を整えられた出来事は、何として残るのだろう。


 起きたことの形が変わってしまったら、いつか誰かが読んだ時、それは同じものとして届くのだろうか。


「第十結界以降は、明日確認します」


 マティアスが実務的な声で言った。


「古鐘門の監視は管理官へ引き継ぎ済みです。聖女殿下のご負担を考えても、本日の巡祈はここまでが妥当かと」


「異議はありません」


 グレゴリオが答える。


「明日は残る結界を確認してください。古鐘門については、こちらでも記録を照合します」


 整えます、とは言わなかった。


 けれど、ユナには同じ言葉のように聞こえた。


     ◇


 会議が終わるころには、外の光は少し傾いていた。


 ユナは修道院区画へ戻る渡り回廊を歩いていた。石畳に落ちた影が長く伸びている。どこかで夕食の準備をする匂いがした。


 戻ってきた。


 そう思うのに、戻った気がしない。


 聖名庁は同じ場所にある。白い棟も、回廊も、遠くに見える聖名大聖堂の塔も変わらない。けれど、自分の立つ場所だけが、少しずれてしまったようだった。


「ユナ」


 その声に、足が止まった。


 リゼが回廊の柱のそばに立っていた。手には畳みかけの布を抱えている。仕事の途中だったのだろう。


 けれど、ユナを見るとすぐに眉を寄せた。


「おかえり。……って言っていい顔じゃないね」


「ただいま、でいいのでしょうか」


「いいでしょ。帰ってきたんだから」


 リゼは当たり前のように言った。


 その当たり前が、胸に少しだけ触れた。


「何かあった?」


 ユナは答えに迷った。


 どこから話せばいいのか分からない。古鐘門の鐘。聖救護院の祝福。聖墓苑の墓碑。王妃の名。白祈会議室。整えられる記録。


 どれも自分の中でまだ沈みきっていない。


「鐘が、鳴りました」


「鐘?」


「鳴るはずのない鐘です」


 リゼは目を瞬かせた。


「……うん。もうその時点で全然分からない」


「私も、分かりません」


 そう言うと、リゼは少しだけ肩の力を抜いた。


「そっか。ユナも分かってないんだ」


「はい」


「じゃあ、分からないままでいいよ」


 ユナは顔を上げた。


 リゼは布を抱え直し、少しだけ笑う。


「分かんないことは、分かんないままでいいでしょ。でも、ユナの中に残ってるなら、それはなかったことじゃないよ」


 その言葉は、会議室のどの言葉よりも簡単だった。


 簡単なのに、すぐには飲み込めなかった。


「記録には、別の言葉で残るかもしれません」


「うん」


「私が感じたことは、うまく書けないかもしれません」


「うん」


「それでも、あったことは……あったのだと思います」


 言い終えると、喉の奥が少し震えた。


 リゼは茶化さなかった。


「私は覚えてるよ」


「え?」


「記録にどう残るかは知らないけど、私は覚えてる」


 リゼはまっすぐユナを見た。


「ユナが今日、ちゃんと戻ってきたこと」


 その瞬間、胸の奥に残っていた鐘の震えが、ほんの少しだけ遠のいた。


 消えたわけではない。


 けれど、その上に別の音が重なった。


 リゼの声。


 食堂で呼ばれる声。朝に起こされる声。考えごとの顔を指摘する声。帰ってきたことを、ただ帰ってきたこととして受け止める声。


「ユナ」


 リゼがもう一度呼んだ。


 それは鐘の音ではなかった。


 聖女の祈りでも、会議室の記録でもなかった。


 ただ、同じ部屋で眠る少女が、帰ってきた友人を呼ぶ声だった。


 ユナは小さく頷いた。


「……はい」


 その返事だけが、今は自分のもののように思えた。


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