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第25話 石に残る名


 聖救護院を出ると、薬草を煮出したような匂いは少しずつ遠ざかっていった。


 代わりに、白い石畳を渡る風の匂いが近づいてくる。昼の光はまだ明るい。けれど、聖救護院の静けさを抜けたばかりのせいか、外の空気はどこか薄く感じられた。


 クラウディアが記録板を閉じる。


「次は第九結界、聖墓苑です」


 聖墓苑。


 その名を聞いた時、ユナは聖救護院で見た白い寝台を思い出した。


 熱に揺れる子どもの額。眠れない巡礼者の目。もう一度、朝を迎えるために横たわる人たち。


 これから向かう場所にあるのは、もう朝を迎えない人たちの名だった。


 一行は白翼橋へ向かった。


 昨日、王城へ向かう時にも渡った白い橋。橋の下の水路は、昼の光を受けて淡く光っていた。欄干に刻まれた翼の意匠は変わらないのに、今日はその向こうに見える景色が違っているように思えた。


 昨日は王城へ向かった。


 今日は、王城外苑の北東側へ折れる。


 整えられた生垣の奥に、低い白石の柱が並んでいる。花は咲いていた。けれど聖冠広場の花のように華やかではない。淡い白や青、薄紫の花が、風に揺れている。


 聖墓苑は、静かだった。


 白い墓碑が整然と並び、それぞれの石には名と祈りの文が刻まれている。市場のような声も、白灰通りの子どもの笑い声もない。聖救護院のように、布を運ぶシスターの足音もない。


 ここでは、人の気配さえ礼法の内側に収められているようだった。


 中央には、低い祈りの碑があった。


 第九結界の基点なのだろう。白石の表面には古い聖句が刻まれ、周囲には小さな聖名碑が半円を描くように並んでいる。


 シャルロッテが、その前に立った。


 白い指先が聖印に触れる。祈りの言葉が、墓苑の静けさの中へ落ちた。


 祝福の光は、静かに通った。


 古鐘門のような鳴動はない。

 水面のような揺らぎもない。

 何かが欠ける気配もなかった。


 ただ、白い光が祈りの碑の聖句をなぞり、墓碑の間へ淡く広がっていく。


「第九結界、聖墓苑。祝福反応、安定。聖名碑、損傷なし」


 クラウディアが記録板へ書き込んだ。


 マティアスも周囲を確認し、短く頷く。


「異常はありません」


 何も起きなかった。


 それは安心していいことのはずだった。


 けれど、ユナは墓碑に刻まれた名から目を離せなかった。


 名は、石の上にも残るのだと思った。


 生きている者がその声で呼べなくなっても、誰かがここへ来て、その名を読むことができる。祈ることができる。忘れないために、石へ刻むことができる。


 では、名を持てなかった者は、どこに眠るのだろう。


 そう思ってから、ユナは自分でも驚いた。


 なぜ、そんなことを考えたのか分からなかった。


 結界確認が終わると、シャルロッテは少しだけ墓苑の奥へ視線を向けた。


「少しだけ、寄ってもよろしいでしょうか」


 その声は静かだった。


 マティアスが予定を確認する。


「予定より早く終わっています。短時間であれば問題ありません」


 クラウディアは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。ロランも黙っている。


 ユナだけが、その意味を知らないまま、シャルロッテの後ろについて歩いた。


 墓苑の奥にある墓碑は、ほかのものより少し大きかった。


 白い花が供えられている。墓碑には王家の紋章が刻まれ、その下に、細い文字が並んでいた。


 エリーゼ・アステリア。

 王妃にして、光を遺した者。

 その名が、王国の祈りに安らかでありますように。


 王妃。


 その文字を読んだ瞬間、ユナは遅れて理解した。


 シャルロッテの母。


 シャルロッテは墓前に膝を折り、静かに祈った。


 長い祈りではなかった。けれど、形だけの祈りでもなかった。白金の髪が風にわずかに揺れ、薄青の祝祷帯の端が墓前の花に触れそうになる。


 祈り終えたシャルロッテは、墓碑を見上げた。


 その横顔には、民へ向ける微笑みとは違うものがあった。


 悲しいような。

 懐かしむには、あまりにも遠いような。

 知らないものを、それでも大切にしようとしているような顔。


「私は、この方の声を知りません」


 シャルロッテは静かに言った。


 ユナは何も言えなかった。


「けれど、名だけはずっと知っていました」


 墓碑に刻まれた名。


 エリーゼ・アステリア。


 シャルロッテは、その名を声には出さなかった。ただ、目で触れるように見つめていた。


「母と呼ぶには、私はこの方のことを知らなすぎるのです」


 その声は、ひどく穏やかだった。


 穏やかだからこそ、胸の奥に沈んだ。


 ユナは、セシリアのことを思い出した。


 母ではないと知ってしまった日。

 廊下に落ちた白布。

 名前を呼ぶ声に混じった、優しさとは違う悲しみ。


 母と呼べる人。

 母と呼べなかった人。

 母だと思っていた人。


 名は、いつも少しだけ届かない場所にある。


 やがてシャルロッテは立ち上がった。


「それでは、戻りましょう」


 クラウディアが小さく顔を上げる。


「もう、よろしいのですか」


 シャルロッテは少しだけ笑った。


「ええ。長く祈れば、近づけるというものでもありませんから」


 その笑みは、ほんの少しだけ寂しかった。


 マティアスが周囲を確認し、静かに言う。


「予定より早く終わりましたが、古鐘門の件もあります。第十結界以降は明日に回し、いったん聖名庁へ戻りましょう」


「分かりました」


 シャルロッテは頷いた。


     ◇


 聖女執務棟へ戻ると、白祈会議室にはすでにグレゴリオ大司教と数名の結界管理官が待っていた。


 卓の上には、古鐘門の記録と、聖都十二結界の簡略図が広げられている。部屋の空気は、聖墓苑とは違う静けさを持っていた。


 祈るための沈黙ではない。


 言葉を選ぶための沈黙だった。


 クラウディアが今日の記録を報告する。


「第八結界、聖救護院。異常なし。第九結界、聖墓苑。祝福反応、安定。聖名碑、損傷なし。第十結界以降は、明日に確認予定です」


 グレゴリオは頷いた。


「ご苦労でした」


 それから、古鐘門の記録へ視線を落とす。


「古鐘門の鐘については、現時点では“古鐘門における一時的な結界応答”として扱います」


 その声は穏やかだった。


 けれど、ユナは胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 原因不明の単発反応。


 その言葉は、間違ってはいないのかもしれない。けれど、あの鐘の音を小さな箱に入れて蓋をするようにも聞こえた。


 クラウディアが静かに尋ねる。


「鐘としての機能は失われている、という過去記録との整合はどう扱いますか」


 グレゴリオは、すぐには答えなかった。


 結界管理官の一人が視線を下げる。


 やがてグレゴリオは、静かに言った。


「整合は、こちらで取ります」


 整合。


 その言葉が、部屋の中へ落ちた。


 シャルロッテの表情は大きく変わらなかった。けれど、ユナには、その横顔がほんの少しだけ硬くなったように見えた。


「鐘が鳴ったことは、記録に残してください」


 シャルロッテの声は穏やかだった。


 グレゴリオは深く頷く。


「もちろんです。表現には十分注意いたします」


 表現には。


 ユナは、古鐘門で聞いたシャルロッテの言葉を思い出した。


 記録にないものを、なかったことにはしません。


 けれど今、目の前では、起きたことが別の言葉へ整えられようとしている。


 聖墓苑の墓碑には、名が刻まれていた。

 忘れられないために。

 残されるために。


 では、言葉を変えられた出来事は、何として残るのだろう。


 白祈会議室の灯りの下で、シャルロッテは何も言わなかった。


 ただ、その横顔だけが、昼に墓前で見た時よりも少し硬く見えた。


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