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第20話 聖冠広場


 午後の光は、午前より少しやわらかかった。


 聖女執務区画の食堂を出ると、白い石壁に落ちた陽が淡く傾き始めている。午前中に巡った正門、市場、白灰通りの人々の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 ありがとう。

 お祈りを。

 次の祈りの日も、また来てね。


 それらはユナに向けられた言葉ではない。


 けれど、シャルロッテの後ろに立っているだけで、その重さの端に触れてしまった気がした。


「午後は予定通り、第四結界から確認します」


 マティアスが言った。


「第四結界、商館街。第五結界、白翼橋。問題がなければ、第六結界、王城内の聖冠広場まで進みます」


 王城。


 その言葉だけが、ユナの中に少し遅れて残った。


 聖女として祈りを受ける人。

 けれど同時に、王家の名を持つ人。


 普段は聖名庁で過ごしているシャルロッテにも、戻るべき場所がある。それが、ユナには少し不思議に思えた。


 第四結界のある商館街は、市場とはまた違う賑わいを持っていた。


 広い通りに面して、石造りの商館が並んでいる。軒先には各商会の紋章が掲げられ、荷車が何台も行き交っていた。香辛料の匂い、革袋の匂い、遠い土地から来た木箱の乾いた匂い。聖都の内側にいながら、外の国々の気配が少しだけ混じっている。


 商館街の聖名標は、通りの中央にある小さな広場に立っていた。


 商人たちは足を止め、帳簿や革袋を抱えたまま頭を下げていく。商いが正しく行われるように。荷が無事に届くように。契約が破られぬように。


 シャルロッテが聖名標へ手をかざす。


 光は静かに通った。


「第四結界、商館街。祝福反応、安定。聖名標、損傷なし」


 クラウディアが記録板に書き込む。


 ユナは聖名標を見つめた。


 何も欠けていない。

 何も拒まない。


 それを確かめるたび、なぜか聖名水庭の池底を思い出す。あそこだけが違っていた。祝福が届かなかった場所。聖句が欠けた場所。


 違いは、まだ分からない。


 第五結界、白翼橋へ向かうころには、通りの人波が少し落ち着いていた。


 商館街を抜けると、白石の橋が見えてくる。橋の下には細い水路が流れ、午後の光を受けてきらめいていた。橋の欄干には翼を広げた鳥の意匠が刻まれている。


 橋の向こうには、王城外苑へ続く道がある。


 そこから先は、空気が変わる。


 露店の声も、子どもの走る音も、少し遠ざかっていた。代わりに、整えられた植え込みと、一定の間隔で立つ衛兵の姿が見える。


 橋のたもとで、衛兵が槍を立てて一礼した。


「聖女殿下。巡祈のため、お通りください」


「ありがとうございます」


 シャルロッテは短く返した。


 衛兵の目は、民が聖女を見る目とは少し違っていた。祈りよりも、職務。感謝よりも、礼法。その違いが、ユナには妙にはっきり見えた。


「ここから先は、通常、関係者以外は通れません」


 クラウディアが静かに言った。


「歩幅を乱さず、周囲を見すぎないこと」


「はい」


 ユナは背筋を伸ばした。


 白翼橋の聖名標は、橋の中央近くにあった。小ぶりだが、よく磨かれている。行き交う者は少ない。それでも、王城へ向かう役人や衛兵が通るたび、短く手を合わせているのだろう。石の表面には、手入れされた静かな光が宿っていた。


 シャルロッテの祝福は、ここでも拒まれなかった。


「第五結界、白翼橋。祝福反応、安定。聖句の欠け、なし」


 クラウディアの筆が滑る。


 橋の下で、水が小さく鳴った。


 ユナは思わず水面を見た。


 ただの水だった。


 風に揺れ、陽を返し、橋の影を映して流れている。そこには何もいない。何も見えない。


 それでも、胸の奥だけが少し冷えた。


 王城の正門が近づいてくる。


 聖名庁の門とは、まるで違っていた。


 淡い砂色を帯びた白い石壁が、左右へ大きく広がっている。外壁にはやわらかな曲線が重なり、窓枠や柱には金の装飾が細く施されていた。高い窓には青みを帯びた硝子がはめ込まれ、青灰色の屋根の上には、丸みを帯びた屋根と小さな尖塔がいくつも連なっている。


 聖名庁の白さが祈りのためのものなら、王城の白さは、見上げる者に国の大きさを思い出させるためのものに見えた。


 金と青の紋章。整列する衛兵。広い階段。門扉に刻まれた王家の印。


 シャルロッテが先頭に立つと、門はすぐに開かれた。


 誰も驚かない。


 ここでは、シャルロッテが通ることは当然なのだ。


「こちらです」


 シャルロッテが振り返り、穏やかに言った。


 王城の中へ入ると、庭の匂いがした。


 聖冠広場は、王城の奥にある広い中庭だった。


 白石と青灰色の石が幾何学模様のように敷かれ、その中央には、大きな噴水があった。水は幾段にも重なった白い石盤から細く流れ落ち、午後の光を受けてきらきらと散っている。


 噴水の奥には、王冠をかたどった古い聖名標が立っていた。


 その周囲には低い柱が並び、柱の間を埋めるように、色とりどりの花が咲いている。


 赤、白、薄紫、淡い黄色、深い青。


 花壇は左右対称に整えられ、細い小道はまるで図面の線のように正しく伸びていた。どの花も、咲く場所まで決められているように見える。庭師が毎日手を入れているのだと、一目で分かった。


 美しい場所だった。


 けれど、白灰通りの花鉢とは違う。


 ここにある花は、暮らしのためではなく、見られるために咲いているように思えた。


「聖冠広場は、王家の儀礼にも使われる場所です」


 シャルロッテが言った。


「王族が国と神へ誓いを立てる時、ここで祈りを捧げます。聖都十二結界のうち、第六結界は王城の内側を守るものでもありますが、それだけではありません」


「それだけでは、ない?」


「ええ。王城が、聖都の内側にあることを忘れないための結界でもあります」


 ユナは噴水の向こうに立つ聖名標を見た。


 王冠をかたどった石の下に、古い聖句が刻まれている。王のものとも、教会のものとも言い切れない、不思議な重さがあった。


 シャルロッテはその前に立つ。


 聖女として。

 王女として。


 その二つを分けることは、ここではできないのだとユナは思った。


 祝福の光が、聖冠広場に落ちる。


 中央の聖名標が、静かに応えた。


 噴水の水が光を受けて白くきらめき、花々が風に揺れる。低い柱の聖句に光が走り、白石の広場に、薄く円を描くような輝きが満ちた。


「第六結界、聖冠広場。祝福反応、安定。聖名標、損傷なし」


 クラウディアが記録した。


 異常はない。


 ここも、拒まない。


 その時だった。


「シャルロッテ」


 後ろから、低く穏やかな声がした。


 ロランがすぐに反応し、半歩だけ位置を変える。けれど剣には手をかけなかった。マティアスも軽く姿勢を正す。


 シャルロッテが振り返った。


「兄上」


 そこに立っていたのは、背の高い男性だった。


 濃紺の上衣に、王家の紋章を留めている。護衛を二人従えていたが、彼自身の立ち姿にも、周囲の人が自然と道を空ける静かな強さがあった。


 ユナはすぐに分かった。


 王太子レオンハルト・アステリア。


 遠くからなら、式典で見たことがある。けれど、こうして近くで見るのは初めてだった。


 市場で人々の祈りを受けていたシャルロッテとは違う。


 彼に向けられるものは、祈りではなく、敬意と緊張だった。


「巡祈中か」


「はい。第六結界の確認を終えたところです」


「異常は」


「ありません」


 シャルロッテは静かに答えた。


 レオンハルトは噴水の奥にある聖名標へ視線を向け、それからシャルロッテを見た。


「聖名水庭の件は聞いている。無理はするな」


 その声は、公的なもののようで、少しだけ違った。


 命じているのではない。


 案じている。


 ユナには、そう聞こえた。


 シャルロッテは一瞬だけ目を伏せた。


「ありがとうございます。ですが、聖都十二結界は私が張り、保つものです。確認を他の方へ預けることはできません」


「分かっている」


 レオンハルトは短く言った。


 その横顔は硬い。


 けれど、冷たくはなかった。


「だからこそ、倒れるなと言っている」


 シャルロッテの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「はい、兄上」


 そのやり取りを、ユナは黙って見ていた。


 聖女ではない声。

 王女としての声。

 そして、妹としての声。


 シャルロッテの中にあるいくつもの名が、ここでは重なって聞こえる。


 レオンハルトの視線が、ふとユナへ向いた。


 ユナは慌てて頭を下げた。


「ユナ・リベルです。修道女見習いで……」


「聞いている」


 レオンハルトは短く言った。


「巡祈中は、シャルロッテと隊の指示に従いなさい」


「……はい」


 それ以上、レオンハルトはユナには踏み込まなかった。


 短い言葉だった。


 けれど、ただの挨拶ではなかった。


 この人は、何を言うべきで、何を言わないべきかを知っている人なのだと、ユナは思った。


 レオンハルトはシャルロッテへ視線を戻す。


「父上にも報告しておく。巡祈が終わったら、詳しい話を聞くことになるだろう」


「承知しました」


「ロラン」


「はい」


「妹を頼む」


「命に代えても」


 ロランの声は短く、揺れなかった。


 レオンハルトは小さく頷き、護衛と共に広場を離れていった。


 噴水の音が、少し遅れて戻ってくる。


 その背中が花の向こうへ消えてから、マティアスが空を見上げた。


「本日はここまでにしましょう。聖名庁へ戻ります」


 シャルロッテは静かに頷いた。


「分かりました」


 帰り道、王城の白い壁は夕陽を受けて淡く色を変えていた。


 昼にはまぶしかった金の装飾も、茜色に染まると少しだけ遠い記憶のように見える。聖名庁へ向かう道の先で、鐘が鳴った。


 ユナは振り返らなかった。


 けれど胸の奥には、聖冠広場の噴水の音と、色とりどりの花と、王冠の形をした聖名標が残っていた。


 シャルロッテ様は、ここにも名を持っている。


 聖女として呼ばれる名。

 王女として置かれた名。

 妹として呼ばれる名。


 そのどれもが、きっと軽くはない。


 空が茜色に染まるころ、一行は聖名庁の門をくぐった。


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