表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/36

第21話 分からないまま、言えないまま


 聖名庁へ戻るころには、空はすっかり茜色に染まっていた。


 王城で見た金の装飾も、青灰色の屋根も、噴水の音も、まだユナの中に残っている。聖冠広場で兄に呼ばれた時のシャルロッテの声。聖女ではなく、王女として、妹としてそこにいた横顔。


 同じ人なのに、場所が変わるだけで見え方が変わる。


 そのことが、ユナには少し不思議だった。


 白祈会議室は、聖女執務区画の執務棟の中にあった。


 聖名庁の他の会議室よりも小さい。けれど、壁も机もよく磨かれていて、窓辺には薄い白布がかけられている。部屋の中央には楕円形の卓があり、巡祈隊の記録板と、聖都十二結界の簡略図が広げられていた。


 昼間の王城ほど華やかではない。


 けれど、ここにはここで、静かに整えられた空気があった。


「本日の確認は、第一から第六まで。いずれも祝福反応は安定。聖名標および聖句に損傷なし」


 クラウディアが記録板を確認しながら告げた。


 マティアスが頷く。


「予定より順調です。ただし、明日は第七結界からになります」


 その言葉に、部屋の空気がほんの少し硬くなった。


 第七結界。


 古鐘門。


「聖名水庭で異常が確認された時、結界図に同時の揺れが出ていた場所ですね」


 クラウディアが記録板へ視線を落としたまま言った。


 その一言で、ユナの胸の奥に、あの日の水音が戻ってきた。


 池底の聖句が欠けたこと。

 祝福が、水面に届く前に砕けたこと。

 そして、声ではないものが、頭の奥へ落ちてきたこと。


 ――見つけましたよ。


 誰が。


 何を。


 あれは、自分に向けられた言葉だったのだろうか。


 ユナ・リベルという名を持つ自分へ。


 それとも、もっと奥にある、自分でも知らない何かへ。


 考えようとすると、胸の中に暗い水面が広がる気がした。見えない雫が落ちる。輪が広がる。名の形が、ゆっくりほどけていく。


「ユナ?」


 シャルロッテの声で、ユナは顔を上げた。


 いつの間にか、手元の結界図を見たまま動けなくなっていたらしい。


「大丈夫ですか」


「……はい。すみません」


「謝ることではありません」


 シャルロッテは静かに言った。


 その声は、今日一日で何度も聞いた民へ向ける声とは少し違った。柔らかいけれど、遠くない。人々の祈りに応えるための声ではなく、目の前の自分をこちら側へ戻すための声。


 なぜ、この人は自分を気にかけてくれるのだろう。


 初めて名を呼ばれた時から、不思議だった。


 ただの見習い修道女でしかない自分を。

 何かが見えるだけの、頼りない自分を。

 どうして、こんなふうに見つけてしまうのだろう。


 シャルロッテは、卓の上の結界図へ視線を落とした。


「第七結界、古鐘門は、聖名水庭で異常が確認された時、同時に揺れが出た場所です。明日は、今日まで以上に慎重な確認が必要になります」


「古鐘門は、聖都の北西側でしたね」


 マティアスが言う。


「はい。古い巡礼路と関わる門です。今は正門ほど使われていませんが、結界としての重要度は低くありません」


 クラウディアが記録板に明日の順路を書き加える。


「第七結界の確認を優先し、問題がなければ、そのまま第八結界以降へ進む。そういう予定でよろしいですね」


「ええ」


 シャルロッテは頷いた。


「古鐘門に異常があれば、そこで足を止めます。何もなければ、予定通り巡祈を続けましょう」


 ロランは黙っていた。


 けれど、その目は先ほどから結界図の北西に置かれた印を見ている。マティアスも、いつもの穏やかさを残しながら、どこか警戒を強めているように見えた。


 古鐘門。


 その名は、鐘の音を連れてくる。


 ユナは、まだ聞いてもいない鐘の音が、どこか遠い場所から響いてくるような気がした。


 会議は長くは続かなかった。


 明日の集合時刻、移動順路、聖具の確認、記録の扱い。クラウディアが必要なことを一つずつまとめ、マティアスが警備上の注意を補う。シャルロッテはそれを静かに聞き、必要なところだけ言葉を添えた。


 やがて、マティアスが結界図をたたんだ。


「本日はこれで解散としましょう。明朝、聖女執務棟前に集合」


 ロランが短く頷き、クラウディアは記録板を抱えて立ち上がった。


 ユナも椅子を引こうとした時、シャルロッテの声がした。


「ユナ」


「はい」


「少しだけ、よろしいですか」


 部屋には、もうロランだけが残っていた。彼は扉の近くで控え、こちらを見るでもなく、ただ静かに立っている。


 シャルロッテは卓の向こうから、ユナを見た。


「疲れていませんか」


 その問いに、ユナはすぐには答えられなかった。


 疲れているのだろうか。


 今日一日、結界を確認し、街を歩き、人々の声を聞いた。けれど実際に祈りを重ねたのはシャルロッテだ。声をかけられ、感謝を受け取り、子どもに微笑み、商人に言葉を返し、王城では王太子にまで案じられていたのも、シャルロッテだった。


 リゼと街へ出た日、初めて見たあの一瞬の疲れ。


 あれは、やはり見間違いではなかったのだと思う。


 シャルロッテ様こそ、お疲れではないですか。


 そう聞きかけて、ユナは唇を閉じた。


 昼食の時に、すでに踏み込みすぎた気がしていた。


 ――シャルロッテ様は、もっと苦しいのではないかと思いました。


 言ってしまった直後、胸が冷えた。


 あの時、シャルロッテは怒らなかった。否定もしなかった。けれど、それは許されたということとは違う気がした。優しさに甘えて、もう一度同じ場所へ踏み込んでしまっていいのか、ユナには分からなかった。


 だから、聞けなかった。


「私は……大丈夫です」


 ユナは小さく答えた。


「今日、何も見えなかったので」


 言ってから、少し違う気がした。


 何も見えなかったから大丈夫なのではない。


 何も見えなかった場所を、今日たくさん見た。祈りが届き、祝福が通り、人々が何事もない日々を続けている場所を。


 それが、少しだけ怖くて、少しだけ安心だった。


 シャルロッテは、ユナの答えを急かさなかった。


「明日は、古鐘門です」


「はい」


「何か見えたのであれば、思った通りに言ってください。見えたものが分からなければ、分からないままで構いません」


 ユナは顔を上げる。


 シャルロッテの瞳は、静かだった。


「分からないものを、無理に答えにしようとしなくていいのです。ただ、見えたものをそのまま教えてください」


 その言葉が、胸の奥に触れた。


 見えたものを、そのまま。


 あの日、水面の奥から届いたものも。

 欠けた聖句も。

 自分に向けられたのか、それとももっと奥へ向けられたのか分からない、あの言葉も。


 すぐに意味を決めなくていい。


 そう言われた気がした。


「……はい」


 ユナは頷いた。


 窓の外では、夕暮れの光が白祈会議室の壁を薄く染めている。


 明日、古鐘門へ向かう。


 異常がなければ、巡祈はそのまま続く。

 けれどユナには、まだ鳴っていない鐘の音だけが、胸のどこかで静かに待っている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ