第21話 分からないまま、言えないまま
聖名庁へ戻るころには、空はすっかり茜色に染まっていた。
王城で見た金の装飾も、青灰色の屋根も、噴水の音も、まだユナの中に残っている。聖冠広場で兄に呼ばれた時のシャルロッテの声。聖女ではなく、王女として、妹としてそこにいた横顔。
同じ人なのに、場所が変わるだけで見え方が変わる。
そのことが、ユナには少し不思議だった。
白祈会議室は、聖女執務区画の執務棟の中にあった。
聖名庁の他の会議室よりも小さい。けれど、壁も机もよく磨かれていて、窓辺には薄い白布がかけられている。部屋の中央には楕円形の卓があり、巡祈隊の記録板と、聖都十二結界の簡略図が広げられていた。
昼間の王城ほど華やかではない。
けれど、ここにはここで、静かに整えられた空気があった。
「本日の確認は、第一から第六まで。いずれも祝福反応は安定。聖名標および聖句に損傷なし」
クラウディアが記録板を確認しながら告げた。
マティアスが頷く。
「予定より順調です。ただし、明日は第七結界からになります」
その言葉に、部屋の空気がほんの少し硬くなった。
第七結界。
古鐘門。
「聖名水庭で異常が確認された時、結界図に同時の揺れが出ていた場所ですね」
クラウディアが記録板へ視線を落としたまま言った。
その一言で、ユナの胸の奥に、あの日の水音が戻ってきた。
池底の聖句が欠けたこと。
祝福が、水面に届く前に砕けたこと。
そして、声ではないものが、頭の奥へ落ちてきたこと。
――見つけましたよ。
誰が。
何を。
あれは、自分に向けられた言葉だったのだろうか。
ユナ・リベルという名を持つ自分へ。
それとも、もっと奥にある、自分でも知らない何かへ。
考えようとすると、胸の中に暗い水面が広がる気がした。見えない雫が落ちる。輪が広がる。名の形が、ゆっくりほどけていく。
「ユナ?」
シャルロッテの声で、ユナは顔を上げた。
いつの間にか、手元の結界図を見たまま動けなくなっていたらしい。
「大丈夫ですか」
「……はい。すみません」
「謝ることではありません」
シャルロッテは静かに言った。
その声は、今日一日で何度も聞いた民へ向ける声とは少し違った。柔らかいけれど、遠くない。人々の祈りに応えるための声ではなく、目の前の自分をこちら側へ戻すための声。
なぜ、この人は自分を気にかけてくれるのだろう。
初めて名を呼ばれた時から、不思議だった。
ただの見習い修道女でしかない自分を。
何かが見えるだけの、頼りない自分を。
どうして、こんなふうに見つけてしまうのだろう。
シャルロッテは、卓の上の結界図へ視線を落とした。
「第七結界、古鐘門は、聖名水庭で異常が確認された時、同時に揺れが出た場所です。明日は、今日まで以上に慎重な確認が必要になります」
「古鐘門は、聖都の北西側でしたね」
マティアスが言う。
「はい。古い巡礼路と関わる門です。今は正門ほど使われていませんが、結界としての重要度は低くありません」
クラウディアが記録板に明日の順路を書き加える。
「第七結界の確認を優先し、問題がなければ、そのまま第八結界以降へ進む。そういう予定でよろしいですね」
「ええ」
シャルロッテは頷いた。
「古鐘門に異常があれば、そこで足を止めます。何もなければ、予定通り巡祈を続けましょう」
ロランは黙っていた。
けれど、その目は先ほどから結界図の北西に置かれた印を見ている。マティアスも、いつもの穏やかさを残しながら、どこか警戒を強めているように見えた。
古鐘門。
その名は、鐘の音を連れてくる。
ユナは、まだ聞いてもいない鐘の音が、どこか遠い場所から響いてくるような気がした。
会議は長くは続かなかった。
明日の集合時刻、移動順路、聖具の確認、記録の扱い。クラウディアが必要なことを一つずつまとめ、マティアスが警備上の注意を補う。シャルロッテはそれを静かに聞き、必要なところだけ言葉を添えた。
やがて、マティアスが結界図をたたんだ。
「本日はこれで解散としましょう。明朝、聖女執務棟前に集合」
ロランが短く頷き、クラウディアは記録板を抱えて立ち上がった。
ユナも椅子を引こうとした時、シャルロッテの声がした。
「ユナ」
「はい」
「少しだけ、よろしいですか」
部屋には、もうロランだけが残っていた。彼は扉の近くで控え、こちらを見るでもなく、ただ静かに立っている。
シャルロッテは卓の向こうから、ユナを見た。
「疲れていませんか」
その問いに、ユナはすぐには答えられなかった。
疲れているのだろうか。
今日一日、結界を確認し、街を歩き、人々の声を聞いた。けれど実際に祈りを重ねたのはシャルロッテだ。声をかけられ、感謝を受け取り、子どもに微笑み、商人に言葉を返し、王城では王太子にまで案じられていたのも、シャルロッテだった。
リゼと街へ出た日、初めて見たあの一瞬の疲れ。
あれは、やはり見間違いではなかったのだと思う。
シャルロッテ様こそ、お疲れではないですか。
そう聞きかけて、ユナは唇を閉じた。
昼食の時に、すでに踏み込みすぎた気がしていた。
――シャルロッテ様は、もっと苦しいのではないかと思いました。
言ってしまった直後、胸が冷えた。
あの時、シャルロッテは怒らなかった。否定もしなかった。けれど、それは許されたということとは違う気がした。優しさに甘えて、もう一度同じ場所へ踏み込んでしまっていいのか、ユナには分からなかった。
だから、聞けなかった。
「私は……大丈夫です」
ユナは小さく答えた。
「今日、何も見えなかったので」
言ってから、少し違う気がした。
何も見えなかったから大丈夫なのではない。
何も見えなかった場所を、今日たくさん見た。祈りが届き、祝福が通り、人々が何事もない日々を続けている場所を。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ安心だった。
シャルロッテは、ユナの答えを急かさなかった。
「明日は、古鐘門です」
「はい」
「何か見えたのであれば、思った通りに言ってください。見えたものが分からなければ、分からないままで構いません」
ユナは顔を上げる。
シャルロッテの瞳は、静かだった。
「分からないものを、無理に答えにしようとしなくていいのです。ただ、見えたものをそのまま教えてください」
その言葉が、胸の奥に触れた。
見えたものを、そのまま。
あの日、水面の奥から届いたものも。
欠けた聖句も。
自分に向けられたのか、それとももっと奥へ向けられたのか分からない、あの言葉も。
すぐに意味を決めなくていい。
そう言われた気がした。
「……はい」
ユナは頷いた。
窓の外では、夕暮れの光が白祈会議室の壁を薄く染めている。
明日、古鐘門へ向かう。
異常がなければ、巡祈はそのまま続く。
けれどユナには、まだ鳴っていない鐘の音だけが、胸のどこかで静かに待っている気がした。




