表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/36

第19話 遠い人の昼食


 白灰通りを離れるころ、時刻は昼前になっていた。


 住居区画の家々から、食事の匂いが流れてくる。焼いた小麦の香ばしさ。煮込んだ豆の匂い。香草を混ぜた肉か野菜の温かな匂い。どれも聖名庁の食堂で嗅ぐものとは少し違っていて、ユナは思わず通りの窓辺へ視線を向けた。


 窓の奥には、人の暮らしがある。


 誰かが鍋をかき混ぜ、誰かが子どもを呼び、誰かが食卓に器を並べているのだろう。


 聖都アステルは、結界に守られた街。


 そう教えられてきた。


 けれど今日、その言葉は少し違って聞こえた。守られているのは石の街だけではない。門をくぐる旅人、市場で声を張る商人、白灰通りで赤子を抱く母親、昼食の匂いが漂う家々。


 そういうもの全部が、この十二結界の内側にある。


「予定通り、一度聖名庁へ戻る」


 マティアスが先頭で言った。


「食事を取って、午後からも巡祈だ。午前は三か所、異常なし。順調と言っていい」


「はい」


 ユナは小さく頷いた。


 異常なし。


 クラウディアが記録板へ書き記した言葉を思い出す。


 聖句の欠け、なし。

 祝福反応、安定。

 祈祷継続。


 何も起きなかった場所を知らなければ、何かが起きた場所の重さも分からない。


 その言葉が、まだ胸に残っていた。


 聖名庁へ戻る道でも、シャルロッテに声をかける人は絶えなかった。


「聖女様、ありがとうございます」


「今日もお祈りを」


「どうかお体を大切に」


 シャルロッテはその一つ一つへ、微笑みを返した。足を止められない時は会釈だけで、近くの子どもには少しかがみ、年配の女性には丁寧に言葉を返す。


 聖女として、やるべきことをしている。


 その姿は美しかった。


 けれどユナは、朝よりも少しだけ深く、あの微笑みを見てしまう。


 市場で見た時も、白灰通りで子どもたちへ笑った時も、シャルロッテの表情は乱れなかった。誰もが安心できるように、祈りを返し、感謝を受け取り、静かに立っていた。


 だからこそ分かった。


 あの日、街で初めて見た一瞬の疲れは、見間違いではなかったのだ。


 こんなにも多くの声を受け取っている。


 感謝も、願いも、期待も、祈りも。


 それらは優しいもののはずなのに、降り積もれば重さになる。


 ユナは数歩後ろから、シャルロッテの背を見た。


 白い巡祈衣。薄青の祝祷帯。白金の髪。


 実際には、手を伸ばせば届く距離にいる。


 それなのに、やはり遠い人に見えた。


     ◇


 昼食は、聖女執務区画にある小さな食堂で用意されていた。


 小さな食堂とはいえ、見習いたちが使う食堂とはまるで違う。白い壁には細い金の装飾が入り、窓辺には淡い花が飾られている。卓には清潔な白布がかけられ、器も薄手の、滑らかな陶器だった。


 ユナは席の前で、ほんの少し固まった。


 いつもの食堂なら、長机に木の器が並び、麦粥や豆の煮込みが湯気を立てている。黒パンは硬く、チーズは塩気が強い。誰かが匙を落とし、リゼが小声で笑う。


 ここは違った。


 温かな白パン。香草を散らした野菜のスープ。薄く切った鶏肉に淡いソースがかかっている。小皿には果物まで添えられていた。


「……これを、いただくのですか」


 思わず呟くと、近くにいたクラウディアが振り向いた。


「昼食ですから」


「はい。ですが」


「ユナ」


 クラウディアは静かに言った。


「驚くのはかまいません。ですが、席につく前に固まらないこと」


「す、すみません」


「謝罪より着席を」


 ユナは慌てて席についた。


 ロランは入口に近い席を選び、食事中でも扉と窓から目を離さない。マティアスは席につく前に、午後の予定表を卓の端へ広げていた。


「午前は順調だった」


 マティアスが言った。


「第一、第二、第三結界、異常なし。移動も予定より少し早い。午後は第四、第五、余裕があれば第六まで確認する」


 クラウディアが記録板を開き、午前の記録と照らし合わせる。


「殿下のお身体も考慮してください」


「もちろんだ。無理に進めるつもりはない」


 マティアスはシャルロッテへ視線を向けた。


「殿下、午後は途中で休憩を挟みます」


「分かりました」


 シャルロッテは穏やかに頷いた。


「確認を急ぐ必要があることは理解しています。ですが、巡祈は急ぐほど雑になりますね」


「その通りです」


 クラウディアが短く答えた。


 食事が始まると、ユナは少し緊張しながら匙を取った。


 スープは、驚くほどやさしい味がした。


 塩気は強すぎず、香草の匂いがふわりと残る。パンも柔らかく、指で割ると湯気が立った。


 こんな昼食を、毎日食べているのだろうか。


 そう考えかけて、すぐに違うと思った。シャルロッテの日々は、きっと食事が豪華かどうかでは測れない。どれだけ整えられた場所にいても、どれだけ美しい器を使っても、受け取る祈りの重さは消えない。


 食事の半ばで、クラウディアは侍女たちに短く指示を出し、午後に使う聖具と記録の確認へ向かった。マティアスも、午後の巡祈予定を結界管理官とすり合わせるため、席を外した。


 小さな食堂には、ユナとシャルロッテ、そしてロランが残った。


 ロランは壁際に近い席で、短く食事を済ませている。会話に入る気はなさそうだったが、聞いていないわけではない。その静けさが、逆に少し安心できた。


 シャルロッテがユナへ視線を向けた。


「ユナ」


「はい」


「初めての巡祈は、どうでしたか」


 どうでしたか。


 簡単な問いのはずだった。


 けれどユナは、すぐに答えられなかった。


 正門の祈り。

 市場の声。

 白灰通りの母子。

 誰もがシャルロッテを知っていて、誰もが祈りを向ける光景。


 どれも、まだ胸の中で形を持ちきれていない。


「結界の確認については……クラウディアさんに教えていただいて、少しだけ分かりました」


 ユナはゆっくり言った。


「異常がないことも、確かめる必要があるのだと」


「ええ」


 シャルロッテは静かに頷いた。


「何も起きていない場所を知ることも、守ることの一部です」


「はい」


 ユナは膝の上で手を握った。


「でも、それとは別に……街の中で、少し混乱しました」


「混乱?」


「私は、聖女ではありません。誰かに祈られることも、感謝されることもありません」


 声に出してから、自分の言葉が少し幼く聞こえた。


 けれど、止められなかった。


「それなのに、あれだけの声がシャルロッテ様へ向けられているのを見て、どう受け止めればいいのか分からなくなりました。市場でも、白灰通りでも、皆さんがシャルロッテ様を見ていて……私は、ただ後ろにいただけなのに、息が少し苦しくなって」


 シャルロッテは黙って聞いていた。


 ユナは視線を落とす。


「だから、シャルロッテ様は、もっと苦しいのではないかと思いました」


 言ってしまってから、胸が冷えた。


 踏み込みすぎたのではないか。


 聖女に向かって、そんなことを言ってよかったのか。


 ユナが唇を閉じると、ロランの手がほんの少し止まった。けれど何も言わない。


 シャルロッテは、少しだけ目を伏せた。


 その沈黙は、否定ではなかった。


「苦しい時もあります」


 やがて、シャルロッテは静かに言った。


 ユナは顔を上げた。


「ですが、嫌なのではありません。あの方たちの祈りは、私を縛るものでもありますが、同時に、私が立つ理由でもあります」


「立つ、理由」


「はい。私が聖女であることを、私一人では忘れそうになる日があります。けれど、祈る人々を見ると、思い出します。私は、あの方たちの前に立つ者なのだと」


 その声は穏やかだった。


 けれど、少し遠かった。


 ユナは、何も返せなかった。


 聖女として立つ理由。


 自分には、まだ立つ理由が分からない。


 呼ばれれば振り向ける。

 けれど、自分の名はまだ遠い。

 自分がここにいる意味も、まだ分からない。


 シャルロッテは、そんなユナを責めなかった。


「ユナが混乱したのは、きっときちんと見ていたからです」


「見ていたから、ですか」


「ええ。ただ人の波として見るのではなく、一人一人の声として聞いたから」


 そう言って、シャルロッテは少しだけ微笑んだ。


「それは、巡祈に必要な目です」


 ユナはすぐに返事ができなかった。


 自分が混乱していたことを、叱られるのではなく、必要な目だと言われた。その意味を、すぐには受け止めきれなかった。


「……そう、なのでしょうか」


「はい」


 シャルロッテは静かに頷いた。


「ただ結界を見るだけなら、記録板と聖具だけで足ります。でも、そこにいる人たちの声まで聞こうとするなら、別の目が必要です」


 ユナは膝の上で手を握った。


 別の目。


 それが自分にあるのかは、まだ分からない。


 その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


 クラウディアが記録板を抱えて戻り、その後ろからマティアスも姿を見せる。


「午後の巡祈予定を確認しました」


 食堂へ戻ってきたマティアスが言った。


「第四結界の商館街、第五結界の白翼橋を確認したのち、問題がなければ第六結界へ向かいます」


「第六結界は」


 ユナが思わず尋ねる。


「王城にある聖冠広場です」


 王城。


 その言葉を聞いて、ユナはシャルロッテの横顔を見た。


 聖女として祈りを受ける人。

 けれど同時に、王家の名を持つ人。


 普段は聖名庁で過ごしている彼女にも、戻るべき場所がある。

 それが、ユナには少し不思議に思えた。


「準備ができ次第、出発しましょう」


 クラウディアが記録板を閉じる。


 午後の巡祈が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ