第19話 遠い人の昼食
白灰通りを離れるころ、時刻は昼前になっていた。
住居区画の家々から、食事の匂いが流れてくる。焼いた小麦の香ばしさ。煮込んだ豆の匂い。香草を混ぜた肉か野菜の温かな匂い。どれも聖名庁の食堂で嗅ぐものとは少し違っていて、ユナは思わず通りの窓辺へ視線を向けた。
窓の奥には、人の暮らしがある。
誰かが鍋をかき混ぜ、誰かが子どもを呼び、誰かが食卓に器を並べているのだろう。
聖都アステルは、結界に守られた街。
そう教えられてきた。
けれど今日、その言葉は少し違って聞こえた。守られているのは石の街だけではない。門をくぐる旅人、市場で声を張る商人、白灰通りで赤子を抱く母親、昼食の匂いが漂う家々。
そういうもの全部が、この十二結界の内側にある。
「予定通り、一度聖名庁へ戻る」
マティアスが先頭で言った。
「食事を取って、午後からも巡祈だ。午前は三か所、異常なし。順調と言っていい」
「はい」
ユナは小さく頷いた。
異常なし。
クラウディアが記録板へ書き記した言葉を思い出す。
聖句の欠け、なし。
祝福反応、安定。
祈祷継続。
何も起きなかった場所を知らなければ、何かが起きた場所の重さも分からない。
その言葉が、まだ胸に残っていた。
聖名庁へ戻る道でも、シャルロッテに声をかける人は絶えなかった。
「聖女様、ありがとうございます」
「今日もお祈りを」
「どうかお体を大切に」
シャルロッテはその一つ一つへ、微笑みを返した。足を止められない時は会釈だけで、近くの子どもには少しかがみ、年配の女性には丁寧に言葉を返す。
聖女として、やるべきことをしている。
その姿は美しかった。
けれどユナは、朝よりも少しだけ深く、あの微笑みを見てしまう。
市場で見た時も、白灰通りで子どもたちへ笑った時も、シャルロッテの表情は乱れなかった。誰もが安心できるように、祈りを返し、感謝を受け取り、静かに立っていた。
だからこそ分かった。
あの日、街で初めて見た一瞬の疲れは、見間違いではなかったのだ。
こんなにも多くの声を受け取っている。
感謝も、願いも、期待も、祈りも。
それらは優しいもののはずなのに、降り積もれば重さになる。
ユナは数歩後ろから、シャルロッテの背を見た。
白い巡祈衣。薄青の祝祷帯。白金の髪。
実際には、手を伸ばせば届く距離にいる。
それなのに、やはり遠い人に見えた。
◇
昼食は、聖女執務区画にある小さな食堂で用意されていた。
小さな食堂とはいえ、見習いたちが使う食堂とはまるで違う。白い壁には細い金の装飾が入り、窓辺には淡い花が飾られている。卓には清潔な白布がかけられ、器も薄手の、滑らかな陶器だった。
ユナは席の前で、ほんの少し固まった。
いつもの食堂なら、長机に木の器が並び、麦粥や豆の煮込みが湯気を立てている。黒パンは硬く、チーズは塩気が強い。誰かが匙を落とし、リゼが小声で笑う。
ここは違った。
温かな白パン。香草を散らした野菜のスープ。薄く切った鶏肉に淡いソースがかかっている。小皿には果物まで添えられていた。
「……これを、いただくのですか」
思わず呟くと、近くにいたクラウディアが振り向いた。
「昼食ですから」
「はい。ですが」
「ユナ」
クラウディアは静かに言った。
「驚くのはかまいません。ですが、席につく前に固まらないこと」
「す、すみません」
「謝罪より着席を」
ユナは慌てて席についた。
ロランは入口に近い席を選び、食事中でも扉と窓から目を離さない。マティアスは席につく前に、午後の予定表を卓の端へ広げていた。
「午前は順調だった」
マティアスが言った。
「第一、第二、第三結界、異常なし。移動も予定より少し早い。午後は第四、第五、余裕があれば第六まで確認する」
クラウディアが記録板を開き、午前の記録と照らし合わせる。
「殿下のお身体も考慮してください」
「もちろんだ。無理に進めるつもりはない」
マティアスはシャルロッテへ視線を向けた。
「殿下、午後は途中で休憩を挟みます」
「分かりました」
シャルロッテは穏やかに頷いた。
「確認を急ぐ必要があることは理解しています。ですが、巡祈は急ぐほど雑になりますね」
「その通りです」
クラウディアが短く答えた。
食事が始まると、ユナは少し緊張しながら匙を取った。
スープは、驚くほどやさしい味がした。
塩気は強すぎず、香草の匂いがふわりと残る。パンも柔らかく、指で割ると湯気が立った。
こんな昼食を、毎日食べているのだろうか。
そう考えかけて、すぐに違うと思った。シャルロッテの日々は、きっと食事が豪華かどうかでは測れない。どれだけ整えられた場所にいても、どれだけ美しい器を使っても、受け取る祈りの重さは消えない。
食事の半ばで、クラウディアは侍女たちに短く指示を出し、午後に使う聖具と記録の確認へ向かった。マティアスも、午後の巡祈予定を結界管理官とすり合わせるため、席を外した。
小さな食堂には、ユナとシャルロッテ、そしてロランが残った。
ロランは壁際に近い席で、短く食事を済ませている。会話に入る気はなさそうだったが、聞いていないわけではない。その静けさが、逆に少し安心できた。
シャルロッテがユナへ視線を向けた。
「ユナ」
「はい」
「初めての巡祈は、どうでしたか」
どうでしたか。
簡単な問いのはずだった。
けれどユナは、すぐに答えられなかった。
正門の祈り。
市場の声。
白灰通りの母子。
誰もがシャルロッテを知っていて、誰もが祈りを向ける光景。
どれも、まだ胸の中で形を持ちきれていない。
「結界の確認については……クラウディアさんに教えていただいて、少しだけ分かりました」
ユナはゆっくり言った。
「異常がないことも、確かめる必要があるのだと」
「ええ」
シャルロッテは静かに頷いた。
「何も起きていない場所を知ることも、守ることの一部です」
「はい」
ユナは膝の上で手を握った。
「でも、それとは別に……街の中で、少し混乱しました」
「混乱?」
「私は、聖女ではありません。誰かに祈られることも、感謝されることもありません」
声に出してから、自分の言葉が少し幼く聞こえた。
けれど、止められなかった。
「それなのに、あれだけの声がシャルロッテ様へ向けられているのを見て、どう受け止めればいいのか分からなくなりました。市場でも、白灰通りでも、皆さんがシャルロッテ様を見ていて……私は、ただ後ろにいただけなのに、息が少し苦しくなって」
シャルロッテは黙って聞いていた。
ユナは視線を落とす。
「だから、シャルロッテ様は、もっと苦しいのではないかと思いました」
言ってしまってから、胸が冷えた。
踏み込みすぎたのではないか。
聖女に向かって、そんなことを言ってよかったのか。
ユナが唇を閉じると、ロランの手がほんの少し止まった。けれど何も言わない。
シャルロッテは、少しだけ目を伏せた。
その沈黙は、否定ではなかった。
「苦しい時もあります」
やがて、シャルロッテは静かに言った。
ユナは顔を上げた。
「ですが、嫌なのではありません。あの方たちの祈りは、私を縛るものでもありますが、同時に、私が立つ理由でもあります」
「立つ、理由」
「はい。私が聖女であることを、私一人では忘れそうになる日があります。けれど、祈る人々を見ると、思い出します。私は、あの方たちの前に立つ者なのだと」
その声は穏やかだった。
けれど、少し遠かった。
ユナは、何も返せなかった。
聖女として立つ理由。
自分には、まだ立つ理由が分からない。
呼ばれれば振り向ける。
けれど、自分の名はまだ遠い。
自分がここにいる意味も、まだ分からない。
シャルロッテは、そんなユナを責めなかった。
「ユナが混乱したのは、きっときちんと見ていたからです」
「見ていたから、ですか」
「ええ。ただ人の波として見るのではなく、一人一人の声として聞いたから」
そう言って、シャルロッテは少しだけ微笑んだ。
「それは、巡祈に必要な目です」
ユナはすぐに返事ができなかった。
自分が混乱していたことを、叱られるのではなく、必要な目だと言われた。その意味を、すぐには受け止めきれなかった。
「……そう、なのでしょうか」
「はい」
シャルロッテは静かに頷いた。
「ただ結界を見るだけなら、記録板と聖具だけで足ります。でも、そこにいる人たちの声まで聞こうとするなら、別の目が必要です」
ユナは膝の上で手を握った。
別の目。
それが自分にあるのかは、まだ分からない。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
クラウディアが記録板を抱えて戻り、その後ろからマティアスも姿を見せる。
「午後の巡祈予定を確認しました」
食堂へ戻ってきたマティアスが言った。
「第四結界の商館街、第五結界の白翼橋を確認したのち、問題がなければ第六結界へ向かいます」
「第六結界は」
ユナが思わず尋ねる。
「王城にある聖冠広場です」
王城。
その言葉を聞いて、ユナはシャルロッテの横顔を見た。
聖女として祈りを受ける人。
けれど同時に、王家の名を持つ人。
普段は聖名庁で過ごしている彼女にも、戻るべき場所がある。
それが、ユナには少し不思議に思えた。
「準備ができ次第、出発しましょう」
クラウディアが記録板を閉じる。
午後の巡祈が始まる。




