第18話 白灰通りの母子
翌朝、ユナはいつもより早く目を覚ました。
窓の外は薄く明るい。聖名庁の中庭には、朝の光がまだ届ききっていなかった。白い石畳は夜の冷えを残し、遠くの聖名大聖堂の塔だけが、空の色を受けて淡く浮かんでいる。
今日は、聖都十二結界を巡る日だった。
その言葉を思うだけで、胸の奥が静かに強ばった。
聖都を守る十二の結界。
その一つ、聖名水庭では、池底の聖句が欠けた。
聖女の祝福が拒まれた。
けれど今日向かうのは、そこではない。
第一結界、聖都正門。
ユナは着替えを整え、まだ寝息を立てているリゼの寝台を見た。起こしてはいけないと思いながら、ほんの少しだけ足を止める。
行ってきます。
声にはしなかった。
ただ、胸の内でそう言って、部屋を出た。
聖女執務棟の前には、すでに巡祈隊の者たちが集まっていた。
シャルロッテは淡い白の巡祈衣をまとい、薄青の祝祷帯を肩から斜めに掛けている。朝の光を受けた白金の髪は、静かに輝いていた。
その背後にはロランが立っている。白銀の鎧に身を包み、周囲へ鋭く目を配っていた。クラウディアは聖具の入った小箱と記録板を確認している。マティアスは門へ向かう順路を短く告げ、隊列を整えていた。
「ユナ」
シャルロッテが気づいて、名前を呼んだ。
それだけで、浮いていた心が少しだけこちらへ戻る。
「おはようございます、シャルロッテ様」
「おはようございます。無理はしないでくださいね」
「はい」
答えながら、ユナは少しだけ視線を落とした。
無理をしないとは、どういうことなのだろう。
見えてしまうものを、見ないようにすることなのか。
それとも、見えた時に黙らないことなのか。
答えはまだ分からなかった。
第一結界のある聖都正門へ向かう道は、聖名庁の敷地を出てからすぐに人通りが増えた。
ユナは、聖都アステルをほとんど知らない。
聖名庁の中で育ち、聖名庁の仕事を覚え、たまにリゼと街へ出るくらいだった。聖都は守られた街だと何度も聞いてきたのに、自分の足でその広さを確かめたことは、ほとんどない。
だから、正門が見えてきた時、ユナは思わず足を緩めた。
白い石で築かれた大きな門だった。
門柱には古い聖句が刻まれ、その上には淡い光を宿す聖名標がある。朝の門前には、旅人や商人、巡礼者が行き交っていた。街へ入ってくる者は門をくぐる前に短く頭を垂れ、街を出る者は荷物を背負ったまま、聖名標へ手を合わせている。
「旅の無事を、ありがとうございます」
「どうか、帰り道も守られますように」
声は一つ一つ小さかった。
けれど、その小さな祈りが積もって、正門の結界を支えているように見えた。
シャルロッテが聖名標の前に立つと、人々は自然に道を開けた。
「聖女様だ」
「聖女様、今日もお祈りを」
シャルロッテは一人一人に微笑み、短く頷いた。それから聖名標へ手をかざし、静かに祈りを重ねる。
淡い白い光が、門柱の聖句に溶けていく。
拒まれない。
光は聖句に触れ、石の奥へ沈み、結界の輪郭を静かに満たした。
「第一結界、聖都正門。祝福反応、安定。聖句の欠け、なし」
クラウディアが記録板へ筆を走らせた。
それから、隣に立つユナへ静かに視線を向ける。
「ユナ。巡祈では、異常だけを見るのではありません。異常がないことも、同じように確かめます」
「異常が、ないことも」
「はい。何も起きなかった場所を知らなければ、何かが起きた場所の重さも分かりません」
ユナは小さく頷いた。
何も起きなかった場所。
それは、こんなにも人々の祈りに満ちている。
第二結界は、市場の中にあった。
正門よりもずっと賑やかだった。野菜を積んだ籠、焼いたパンの匂い、布地を広げる商人、駆け回る子どもたち。白い石造りの街並みに、色と音があふれている。
シャルロッテが通りへ入ると、ざわめきが一瞬で変わった。
「聖女様!」
「いつも聖都をお守りくださり、ありがとうございます」
「次の祈りの日も、家族で参ります」
あちらこちらから声がかかる。
ユナは思わず足を止めそうになった。
多すぎる。
声も、視線も、祈りも。
こんなにも多くの人が、シャルロッテを知っている。シャルロッテに祈り、シャルロッテを見て、シャルロッテの言葉を待っている。
「ユナ」
横からクラウディアの声がした。
「足を止めないでください。巡祈中です」
「す、すみません」
「謝罪より、呼吸を整えなさい」
厳しい声だった。
けれど、ユナが混乱していることを見抜いている声でもあった。
市場の結界は、広場の中央にある古い聖名標を中心に張られていた。商人たちが朝の商いの前に手を合わせ、買い物に来た市民たちも足を止めて短く祈る場所だった。
シャルロッテが祈りを重ねると、聖名標は明るく応えた。
ここも、拒まれない。
「第二結界、市場聖名標。祝福反応、安定。祈願多数、継続」
クラウディアはそう記し、ユナへ見せるように記録板を少し傾けた。
「祈りが多い場所ほど、記録は簡潔に。感情を書きすぎると、あとで読めなくなります」
「感情を、書きすぎると」
「記録は祈りではありません。ですが、祈りがそこにあったことは残します」
その言葉は、少しだけ胸に残った。
祈りではない記録。
記録に残される祈り。
そこへ、地方から来たらしい商人が、帽子を胸に当てて頭を下げた。
「聖女殿下。街道の結界のおかげで、今回も無事に荷を運べました。心より感謝いたします」
シャルロッテは穏やかに微笑んだ。
「あなたの旅路が守られたこと、私も嬉しく思います。どうか帰りもお気をつけて」
商人は深く頭を下げた。
ユナはその横顔を見ていた。
誰もが知っている人。
誰もが祈りを向け、感謝を伝える人。
聖名庁の中で見た時よりも、シャルロッテはずっと遠くにいた。実際には数歩先に立っているだけなのに、民の祈りの向こう側にいるように見える。
遠い人。
なのに、その遠い人は、自分の名を呼んだ。
ユナ。
その声だけが、胸の奥にまだ残っている。
本日最後の確認は、第三結界だった。
白灰通り。
住居区画の中央をゆるやかに通る、白い石と灰色の敷石が混じった静かな通りだった。市場ほどの騒がしさはない。窓辺には洗濯物が揺れ、家々の前には小さな花鉢が置かれている。
ここでは、人々が日々の平和を祈っていた。
大きな願いではない。
今日も火事が起きませんように。
子どもが熱を出しませんように。
明日のパンが焼けますように。
そういう小さな祈りが、白灰通りの結界に重なっている。
「あ、聖女様だ!」
子どもたちが駆け寄ってきた。
「聖女様、いつもありがとう!」
「うちのおばあちゃん、前の祈りの日からずっと元気だよ!」
「次の祈りの日も、また来てね!」
ロランが一歩前に出かけたが、シャルロッテは小さく首を振った。
そして、子どもたちへ柔らかく微笑む。
「皆さんが元気でいてくれることが、私には何より嬉しいです」
子どもたちは顔を輝かせた。
その少し後ろに、赤子を抱えた若い母親が立っていた。母親は片腕で赤子を支えながら、もう片方の手で深く頭を下げた。
赤子は眠っていた。
頬がやわらかく、指は小さく握られている。
ユナは、その子から目が離せなかった。
胸の奥に、古い記憶が沈んでくる。
セシリアに育てられた日々。
幼い頃のユナにとって、セシリアは母のような人だった。熱を出せば額に手を当て、怖い夢を見れば名前を呼び、眠るまで隣にいてくれた。
だから、ずっとそうなのだと思っていた。
自分には、セシリアがいる。
セシリアが自分の名を呼ぶ。
それだけで十分なのだと。
けれど十二歳の時、ユナは聞いてしまった。
修道院区画の奥、半分開いた扉の向こう。セシリアと年配のシスターが、自分のこれからについて話していた。
――あの子には、いつか話さなければなりません。
――あなたが母ではないことも?
その言葉の後、何を聞いたのかは覚えていない。
ただ、腕に抱えていた白布が床に落ちたことだけを覚えている。
小さな音だった。
けれど扉の向こうの声は、ぴたりと止まった。
――ユナ?
セシリアの声だった。
優しい声。
いつも、自分の名を呼んでくれる声。
けれどその時だけ、返事ができなかった。
拾わなければと思った。
謝らなければと思った。
でも、足が先に動いた。
ユナは白布を床に残したまま、廊下を走った。
その日の夕方、セシリアは何も聞かなかった。
ただ、いつもより少しだけ長く、ユナの名を呼んだ。
ユナ。
優しい声だった。
けれど、その優しさの奥に、初めて別のものが混じっていると分かった。
悲しみなのか。
後悔なのか。
それとも、言えないまま抱えてきた何かなのか。
ユナには分からなかった。
「ユナ」
シャルロッテの声がした。
気づけば、白灰通りの聖名標の前に立っていた。
「大丈夫ですか」
「……はい」
答える。
けれど、目の端にはまだ、赤子を抱く母親の姿が残っていた。
第三結界の聖名標に、シャルロッテの祝福が重なる。
光は静かに通った。
白灰通りの家々へ、窓辺の花へ、眠る赤子の小さな指へ、やわらかく広がっていく。
「第三結界、白灰通り。祝福反応、安定。聖名標、損傷なし」
クラウディアの筆が記録板を滑る。
何も欠けない。
誰も拒まない。
それなのにユナの胸の奥では、十二歳の日に聞いた言葉が、まだ淡く沈んでいた。
母ではない。
では、私の名を最初に呼んだのは、誰だったのだろう。




