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第17話 変わるもの、変わらないもの


 結界管理棟の青い光は、昼の中にあっても夜のようだった。


 窓は高く、外の光はほとんど届かない。石壁に刻まれた魔術線だけが、細い血管のように淡く脈打っている。聖都を守るための光のはずなのに、ここでは祈りよりも、記録や測定の匂いが強かった。


 聖務会議室を一足先に出たグレゴリオ大司教と結界管理官たちは、言葉少なに回廊を進んだ。


 誰も、聖名水庭で見たものを口にしなかった。


 聖句が欠けたことも。

 聖女の祝福が拒まれたことも。

 測定具が読めない値を示したことも。


 過去に前例がない出来事に対して誰も、それを何と記録すべきか分からなかった。


 結界管理棟の奥、管理室の扉が重く開いた。


 中では、一人の老聖職者が待っていた。


 ベルトラン・グライス。


 深く暗い灰色の法衣をまとい、円卓に沿って並べられた椅子に座っている。柔らかな顔つきで人を安心させるための笑みを浮かべている。


 けれど、その笑みには温度がなかった。


「お戻りでしたか、グレゴリオ大司教」


「枢機卿猊下。こちらまでお越しとは」

 

 グレゴリオは深く頭を下げた。


「年寄りは、足より耳が早くなりましてな」


 ベルトランは穏やかに微笑んだ。


「聖名水庭で、興味深いことが起きたと聞きました」


 結界管理官たちは自然と目を伏せた。怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。ただ、その場にいるだけで、自分たちの報告書が誰かの手で別の形へ整えられていくような気がした。


「聖名水庭の件は、記録を整える必要がございますな」


 ベルトランは、円卓の上に置かれた結界図へ視線を落とした。


 十二の印が青白く灯っている。


 そのうちの一つ、聖名水庭の印だけが、他よりもわずかに暗く見えた。


「聖女殿下の祝福が拒まれた、などという言葉が不用意に外へ出れば、信仰の足元が揺らぎます」


「そのために、聖名祝祷は予定通り執り行いました」


 グレゴリオの声は静かだった。


「民に不安は広げない。今はそれが最優先です」


「ええ。民に必要なのは、受け取れる形の事実です」


 ベルトランはゆっくり頷いた。


 受け取れる形。


 それは、教義に収まらない形を削る、という意味にも聞こえた。


 「では、教会としての見解は」


 ベルトランが尋ねた。


 問い、というよりも答えを促す声だった。


 グレゴリオは少し黙った。


 二人の間にある結界図の中で、聖名水庭の印と、遠く北西に置かれた古鐘門結界の印が、かすかに青く明滅している。


「悪魔性存在による結界干渉の疑い」


 その言葉が、室内へ静かに落ちた。


 管理官の一人が、わずかに肩を揺らした。


 ベルトランは、満足したようにも、残念がったようにも見えない顔で微笑んだ。


「妥当でしょう。聖女殿下の祝福が及ばぬものがあるのなら、それは聖女殿下の弱さではなく、悪魔の干渉として扱うべきです」


「聖女殿下の力を疑う声は抑えます」


 グレゴリオが言った。


「ただし、完全には避けられない」


「もちろんです。疑いは、正面から否定するより、別の言葉で覆う方がよい」


 ベルトランは結界管理官たちへ視線を向けた。


「記録には、祝福拒絶とは書かぬように。聖句に重ねられた祝福反応の乱れ。外的干渉の可能性。悪魔性因子の疑い。このあたりがよろしいでしょう」


 管理官たちは、そろって頷いた。


 誰も、それが本当に起きたことと同じなのかを問わなかった。


 問う必要がないのではない。


 問えば、自分の名もまた別の記録へ移されると知っている者の沈黙だった。


 その時、扉の影から黒い法衣の若い聖職者が一人、音もなく入ってきた。


 枢機卿付きの者だった。


 結界管理官ではない。書記官にも見える。記録庫の番人にも見える。けれど、どの役職名も、その男には少しだけ足りなかった。


 目立たないことに慣れすぎている立ち方だった。


 ベルトランは振り返らずに言った。


「ユナ・リベル殿の記録を洗い直しなさい」


 若い聖職者は、短く頭を下げた。


「聖名帳、入庁記録、保護時の証言、名付けに関わった者。とくに地方巡教の記録は、古いものまで確認を」


「承知しました」


「記録に空白があれば、その空白も写しなさい。消されたものがあるなら、消された形ごと見ます」


 ベルトランの声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさは、刃を布で包んだ時の静けさに似ていた。


「セシリア・エーレンフェルトの過去の巡教記録もですか」


 若い聖職者が尋ねる。


「当然です」


 ベルトランは微笑んだ。


「あの者が名付けに関わっている。ならば、ユナ・リベル殿の過去を調べることは、セシリアの記録を辿ることでもあります」


 グレゴリオが、わずかに目を細めた。


「枢機卿猊下。今は巡祈隊を動かす方が先です」


「ええ。表ではそういたしましょう」


 ベルトランは丁寧に頷いた。


「ですが、見える娘を証人として扱うなら、その証人が何者であるかは知らねばなりません。名の由来も、保護された経緯も、誰が何を伏せたのかも」


「言葉が過ぎます」


「失礼いたしました」


 ベルトランは少しも失礼とは思っていない顔で、深く頭を下げた。


「ただ、記録を整えるためでございます」


 結界管理棟の青い光が、ふっと弱まった。


 誰も、それを異常とは言わなかった。


 ただ、円卓の上の聖名水庭の印だけが、しばらく暗く沈んで見えた。


     ◇


 夕食の食堂は、いつも通りの匂いがした。


 豆の煮込み。硬い黒パン。薄い麦粥。誰かが匙を落として、小さく笑いが起きる。長机の端では、見習いたちが明日の掃除当番について話している。


 何も変わっていないように見えた。


 けれど、ユナの隣に座るリゼは、いつもより少しだけ静かだった。


「明日から、午前の仕事は別になるんだよね」


 リゼが匙を動かしながら言った。


 声は明るかった。


 けれど、その明るさが、少しだけ丁寧に作られていることを、ユナは感じた。


「はい。巡祈隊の予定に合わせることになると思います」


「午後の講義も?」


「出られない日が増えるかもしれません」


「そっか」


 リゼは頷いた。


「でも、夜は戻ってくるんでしょ?」


「はい。聖都内の結界を確認するだけなら、宿舎には戻れるはずです」


「じゃあ、夕飯は時間が合えば一緒に食べられるね」


 リゼは少しだけ笑った。


「よかった。ユナがちゃんと食べてるか、見張れなくなるところだった」


「見張るんですか」


「見守るの」


「前にも聞きました」


「大事なことは何回でも言うんです」


 いつものリゼだった。


 そのはずなのに、ユナの胸の奥は少し痛んだ。


 朝に同じ廊下を歩くこと。写字室で隣に座ること。講義の途中で、リゼが紙片に変なことを書いて寄こすこと。食堂で「ちゃんと食べて」と言われること。


 全部がなくなるわけではない。


 夜には戻る。

 時間が合えば、こうして隣に座れる。


 それでも、日中の当たり前が少しずつほどけていく気がした。


「リゼ」


「うん?」


 ユナは少し迷った。


 言葉は出てこなかった。


 だから、代わりに、そっとリゼの肩に額を寄せた。


 リゼの身体が、一瞬だけ固まった。


 それから、すぐに力が抜ける。


「……珍しいね」


 リゼは小さく言った。


「すみません」


「謝らなくていいよ」


 声が、少しだけ柔らかくなる。


「こういうのは、謝るところじゃない」


 食堂のざわめきが遠くなる。


 肩越しに伝わる体温がある。リゼの髪から、石鹸と食堂の湯気が混ざった匂いがした。胸の奥で揺れていた水面が、少しだけ静まる。


 何も言えなかった。


 明日が怖い、とも。

 少し寂しい、とも。

 戻ってきた時、同じ場所に座っていてほしい、とも。


 言えなかったけれど、リゼは分かったように黙っていた。


「帰ってきたら、話聞くから」


 やがてリゼが言った。


「話せるところだけでいいから」


「……はい」


「あと、ご飯も食べて。巡祈隊って、なんか歩き回りそうだし」


「そうですね」


「でしょ。だから戻ってきたら、まず夕飯。難しい顔はその後」


「順番があるんですね」


「あるよ。空腹の考えごとは、だいたい悪い方に行くから」


 リゼは真面目な顔で言った。


 ユナはほんの少しだけ笑った。


 その夜、見習い部屋には小さな魔導灯が灯っていた。


 リゼは椅子に座り、濡れた髪を布で軽く拭いている。ユナは櫛を受け取り、その後ろに立った。


 髪に櫛を入れる。


 絡まったところを、指でそっと分ける。リゼの髪は少し湿っていて、梳くたびに細い音がした。


「痛くありませんか」


「大丈夫。ユナ、こういうのほんと丁寧」


「雑にしたら痛いので」


「そういうところ、ユナだよね」


 その言葉に、ユナの手がほんの少し止まった。


 ユナだよね。


 何気ない言葉。


 けれど、胸の奥に落ちる。


 リゼは振り返らなかった。気づいているのか、気づいていないのか分からない。ただ、鏡越しに少し笑っていた。


「ねえ」


「はい」


「また、あの喫茶店行こう」


 ユナは櫛を動かしながら、瞬きをした。


「あの、蜂蜜の焼き菓子の」


「そう。悩みにはおいしいもの。考えごとには紅茶も必要、ってやつ」


「買い物も足す、でしたね」


「覚えてるじゃん」


 リゼは嬉しそうに言った。


「巡祈隊のことが落ち着いたら。早くても遅くてもいいから。ユナが行ける日に、また行こう」


 早くても、遅くてもいい。


 その言い方が、約束を急がせないように聞こえた。


 ユナはゆっくり頷く。


「はい。また、行きたいです」


「うん。決まり」


 リゼは鏡の中で笑った。


 ユナも、ほんの少しだけ笑った。


 櫛が髪を通る。


 夜の静けさの中で、その音だけが小さく続いていた。


 明日から日中の過ごし方が変わっていくとしても、夜にはこの部屋へ戻ってくる。


 リゼの髪を梳くこの時間だけは、まだユナの日常の中に残っていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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