表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/36

第16話 私にできること


 翌朝、食堂の窓には薄い雨の跡が残っていた。


 雨はもう止んでいる。けれど、窓についた雨の跡は朝の光を受けて、水面のように淡く光っていた。


 ユナはその光を見ないように、器の中の麦粥へと視線を落とした。

 

 匙を動かす。湯気が頬に触れる。けれど味は、どこかに置き忘れてきたようだった。


 昨日の講義で聞いた言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 祝福とは、名と務めを神の秩序へ結びなおすこと。


 なら、自分の名をまだ受け取り切れていない者は、何へ結び直されるのだろう。


「ユナ」


 隣からリゼが声をかけた。


「また考えごと?」


「……少しだけ」


「少しだけって顔じゃないよ。今日のユナ、どこかに遠くに行っちゃいそうな顔してる」


「……そんなふうに見えますか」


 リゼに心の内を覗かれた気がした。夢の中でユナはずっと、自分が誰なのか、本当にここにいてもいいのか、なぜそんなことを思うのか分からないまま、答えのない問いに思考を巡らせていた。


「ここ最近は、そんな顔ばかりしてる」


「そうですか……」


「ユナが何を考えてて、どうしてそんな顔をするのかは分からないけどさ」


 リゼはそう言うと、ユナの肩へ頭を寄せた。


「どうしても耐えられなくなったら、私を頼ってね」


 そう言って、リゼは優しく微笑んだ。


「…ありがとうございます。どうにもならない時は、頼らせていただきます」


「あっ、別に何もなくても頼っていいんだからね。ほんとに。」


 そう言うと、リゼは肩から離れ、ユナの目を見て笑った。


 ユナも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その時、食堂の入り口からセシリアが現れた。


 白い修道服を整え、静かな足取りでこちらへ向かってくる。その表情はいつも通り穏やかだったが、ユナには、彼女が昨夜は深く眠れていないことが分かった。


「ユナ」


「はい」


「今日の午後は、講義ではなく聖務会議室へ向かってください」


 匙を持つ手が止まった。


「聖務会議室、ですか」


「ええ。大司教猊下より、説明があります」


 リゼがちらりとユナを見る。

 

 聞きたいことがある顔だった。けれど、やはり聞かなかった。


「午後ってことは、午前はいつも通り?」


「はい。午前の仕事は通常通りです」


 セシリアが答えると、リゼはわざと軽く頷いた。


「じゃあ、ユナ。午前中は考え事禁止ね」


「分かってます」


「ほんとに? 呼び出しのことばっかり考えちゃダメだよ」


 リゼはそう言って、自分の黒パンを少しだけユナの皿へ寄せた。


「食べて。呼び出しに勝つため」


「勝ち負けではないと思います」


「負けるよりいいでしょ」


 その明るさが、暗くなっていた胸の奥を優しく照らした。


 午前の写し取りは、いつもより長く感じられた。


 筆を持ち、名を写す。生まれた者の名。洗礼を受けた者の名。聖名庁に入った者の名。文字は同じように並んでいくのに、今日はその一つ一つが、少しだけ重く見えた。


 名は、そこにいる証。


 でも、自分の名はまだ遠い。


 ユナ・リベル。


 そう記された文字を思い浮かべると、夢の水面に浮かんでいた「ユナ」という名が浮かんでくる。水の上で揺れて、ほどけそうになっていた名。


 呼ばれたのは誰だったのか。


 その問いは、まだ消えない。


     ◇


 午後、ユナは聖務会議室へ向かった。


 修道院区画から中央通りを抜けて、東側の聖務区域へ入る。渡り回廊の屋根から落ちた雨の雫が、石畳の端で小さく跳ねていた。


 聖務会議室の扉は、思っていたよりずっと重く見えた。


 白い扉に、聖印と細い蔦模様が刻まれている。普段の講義室や写字室とは違う。ここは、人の言葉を聞き、記録し、判断する場所なのだと、扉の前に立っただけで分かった。


 中へ通されると、空気がひんやりと肌に触れた。


 長い会議卓の奥に、グレゴリオ大司教が座っていた。そばには結界管理官が数名、記録書類と測定具を抱えて立っている。


 そして、シャルロッテがいた。


 金の刺繡がされた純白の衣装をまとい、静かに席についている。その後ろにはロランが立っていた。白銀の鎧は光を受けずとも冷たく見える。


 さらに、見慣れない二人がいた。


 一人は、黒に近い濃紺の侍女服をまとった女性だった。背筋がまっすぐで、表情に無駄がない。ユナを一目見ただけで、服の皺も、立ち方も、呼吸の乱れも見られた気がした。


 もう一人は、灰色がかった髪の男性聖騎士だった。ロランよりも一回り以上は年上に見える。体格がよく、落ち着いた目をしていた。


 ユナは入り口で足を止めかけた。


「ユナ」


 シャルロッテが呼んだ。


 その声で呼ばれた名前が、ふわりと浮いていた心に重さをくれる。


「こちらへ」


「……はい」


 ユナは小さく頭を下げ、示された席のそばへ進んだ。


 椅子は用意されていたが、腰を下ろすことが正しいのか分からない。迷っていると、侍女服の女性が静かに言った。


「座って構いません」


「は、はい」


 ユナは慌てて腰を下ろした。


 グレゴリオが口を開く。


 「聖名祝祷は予定通り執り行われました。聖名庁の者たちに不安を広げずに済んだことは、まず幸いです」


 幸い。


 その言葉を、ユナは静かに受け取った。


 確かに大聖堂では何も起きなかった。祝福は届いた。人々は頭を垂れ、静かに祈った。


 けれど、あの水庭の池底では聖句が欠けた。


 祝福は拒まれた。


 それも同じ聖都、聖名庁の中で起きたことだった。


 「しかし、聖名水庭における異常、ならびに古鐘門結界の揺れは看過できません」


 グレゴリオは続けた。


 「明日より、聖都十二結界を順に確認します。聖女殿下を中心とする巡祈隊を編成し、各結界の聖句、祝福反応、聖名標、周辺状況を確認することになります」


 巡祈隊。


 その言葉が、ユナの胸で重く響いた。


 聖女が結界を巡り、祈り、張りなおすための公務。


 あの日リゼと見た時は、自分とは遠いものだと感じていた。


 けれど、グレゴリオの視線はユナへ向いた。


「ユナ・リベル。あなたには、異常を視認した証人として同行してもらいます。」


 見えるもの。


 見習い修道女ではなく。


 写字室で名を写す者でもなく。


 何かを見てしまった者として。


 ユナは膝の上で手を握った。


「あなたが見たものを、結界管理官も聖女殿下も軽んじないと判断された」


 グレゴリオの声は穏やかだった。


 けれど、その奥にあるものは読めない。


 シャルロッテが静かに言った。


「ユナ。役目として押し付けたいのではありません。けれど、もしまた何かが見えたなら、教えてほしいのです」


 その声は、広い会議室の中でも近く聞こえた。


 「あの日、私にできることがあればと仰っていただきました。貴方のその力をお貸しいただけますか」


 私にできること。


 「……わかりました。私でよければ」


 そういってユナは小さく頷いた。


 シャルロッテの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


 グレゴリオは記録官へ視線を向けた。


「今回の巡祈隊は、聖女殿下シャルロッテ・アステリア、護衛騎士ロラン・シュタール、侍女長クラウディア・ローゼンハイム、聖騎士副官マティアス・ハルトマン。そしてユナ・リベル。」


 名前が一つずつ置かれていく。


 その中に、自分の名があった。


 ユナ・リベル。


 会議室の中で告げられると、やはり少し遠い。けれど、今日は完全に他人の名のようには聞こえなかった。


「出発は明朝。まずは第一結界から順に、一日ですべてを確認することはできないので、数日に分けて確認していただきます」


 必要なことを告げ終えると、グレゴリオは立ち上がった


 結界管理官たちも記録書類を抱え直す。


「聖女殿下、後ほど結界管理棟へお越しください」


「分かりました」


 シャルロッテが頷く。


 扉が開き、グレゴリオ達は静かに出ていった。


 足音が遠ざかる。


 会議室に残された空気は、少しだけ柔らかくなった。


 それでもユナは、どうしていいか分からず、背筋を伸ばしたままだった。


「では、改めて」


 最初に口を開いたのは、侍女服の女性だった。


「クラウディア・ローゼンハイムです。殿下付きの侍女長を務めています。巡祈中、あなたの身支度と基本所作についても確認します」


「は、はい。よろしくお願いします」


「返事は結構です。時間があまりありませんので、この後必要最低限を覚えていただきます」


 厳しい。


 けれど、冷たいわけではなかった。


 クラウディアの視線は鋭いが、人を突き放すためのものではなかった。


 次に、灰色がかった髪の男性聖騎士が軽く頭を下げる。


「マティアス・ハルトマン。巡祈隊の現場管理を任される。隊列や移動中の指示は私から出すことが多い」


 彼はユナを見て、少しだけ声を柔らかくした


「何か見えたときは早めに行ってくれ。まあ、何も見えずに終わることが一番だがな」


 安心させるためなのか、冗談なのか。しかしその一言で、胸の奥がわずかに緩んだ。


 ロランは短く言った。


「ロラン・シュタール。殿下の護衛だ。危ないと思ったら、すぐに下がれ」


「……はい」


「ただし、見えるなら言え。黙るな」


 ぶっきらぼうだった。


 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


 最後に、シャルロッテがユナを見た。


「シャルロッテ・アステリアです。聖女として、明日から十二結界を巡ります」


 そんなことは、知っている。


 聖名庁にいる者なら。いえ、アステリア聖王国にいる者であれば誰もが知っている。


 聖女として遠くに立つのではなく、同じ目的のために行動を共にする者として。


 ユナは慌てて頭を下げる。


「ユナ・リベルです。修道女見習いで……その、私は何ができるのか、まだ分かりません」


 声が小さくなる


「でも、見えたことは、言います。出来るだけ」


 頼りない言葉だった。


 それでも、嘘ではなかった。


 シャルロッテは静かに微笑んだ。


「それで十分です」


 十分。


 その言葉を、ユナは胸の奥でそっと受け取った。


 まだ、自分のものにはならない。


 けれど、名前のように、いつか奥まで届くかもしれないと思った。


 窓の外では、午後の光が白い石畳に落ちている。


 明日から、聖都十二結界を巡る。


 そのどこかでまた、波紋が広がるかもしれない。


 それでも今、ユナは一人ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ