第16話 私にできること
翌朝、食堂の窓には薄い雨の跡が残っていた。
雨はもう止んでいる。けれど、窓についた雨の跡は朝の光を受けて、水面のように淡く光っていた。
ユナはその光を見ないように、器の中の麦粥へと視線を落とした。
匙を動かす。湯気が頬に触れる。けれど味は、どこかに置き忘れてきたようだった。
昨日の講義で聞いた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
祝福とは、名と務めを神の秩序へ結びなおすこと。
なら、自分の名をまだ受け取り切れていない者は、何へ結び直されるのだろう。
「ユナ」
隣からリゼが声をかけた。
「また考えごと?」
「……少しだけ」
「少しだけって顔じゃないよ。今日のユナ、どこかに遠くに行っちゃいそうな顔してる」
「……そんなふうに見えますか」
リゼに心の内を覗かれた気がした。夢の中でユナはずっと、自分が誰なのか、本当にここにいてもいいのか、なぜそんなことを思うのか分からないまま、答えのない問いに思考を巡らせていた。
「ここ最近は、そんな顔ばかりしてる」
「そうですか……」
「ユナが何を考えてて、どうしてそんな顔をするのかは分からないけどさ」
リゼはそう言うと、ユナの肩へ頭を寄せた。
「どうしても耐えられなくなったら、私を頼ってね」
そう言って、リゼは優しく微笑んだ。
「…ありがとうございます。どうにもならない時は、頼らせていただきます」
「あっ、別に何もなくても頼っていいんだからね。ほんとに。」
そう言うと、リゼは肩から離れ、ユナの目を見て笑った。
ユナも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、食堂の入り口からセシリアが現れた。
白い修道服を整え、静かな足取りでこちらへ向かってくる。その表情はいつも通り穏やかだったが、ユナには、彼女が昨夜は深く眠れていないことが分かった。
「ユナ」
「はい」
「今日の午後は、講義ではなく聖務会議室へ向かってください」
匙を持つ手が止まった。
「聖務会議室、ですか」
「ええ。大司教猊下より、説明があります」
リゼがちらりとユナを見る。
聞きたいことがある顔だった。けれど、やはり聞かなかった。
「午後ってことは、午前はいつも通り?」
「はい。午前の仕事は通常通りです」
セシリアが答えると、リゼはわざと軽く頷いた。
「じゃあ、ユナ。午前中は考え事禁止ね」
「分かってます」
「ほんとに? 呼び出しのことばっかり考えちゃダメだよ」
リゼはそう言って、自分の黒パンを少しだけユナの皿へ寄せた。
「食べて。呼び出しに勝つため」
「勝ち負けではないと思います」
「負けるよりいいでしょ」
その明るさが、暗くなっていた胸の奥を優しく照らした。
午前の写し取りは、いつもより長く感じられた。
筆を持ち、名を写す。生まれた者の名。洗礼を受けた者の名。聖名庁に入った者の名。文字は同じように並んでいくのに、今日はその一つ一つが、少しだけ重く見えた。
名は、そこにいる証。
でも、自分の名はまだ遠い。
ユナ・リベル。
そう記された文字を思い浮かべると、夢の水面に浮かんでいた「ユナ」という名が浮かんでくる。水の上で揺れて、ほどけそうになっていた名。
呼ばれたのは誰だったのか。
その問いは、まだ消えない。
◇
午後、ユナは聖務会議室へ向かった。
修道院区画から中央通りを抜けて、東側の聖務区域へ入る。渡り回廊の屋根から落ちた雨の雫が、石畳の端で小さく跳ねていた。
聖務会議室の扉は、思っていたよりずっと重く見えた。
白い扉に、聖印と細い蔦模様が刻まれている。普段の講義室や写字室とは違う。ここは、人の言葉を聞き、記録し、判断する場所なのだと、扉の前に立っただけで分かった。
中へ通されると、空気がひんやりと肌に触れた。
長い会議卓の奥に、グレゴリオ大司教が座っていた。そばには結界管理官が数名、記録書類と測定具を抱えて立っている。
そして、シャルロッテがいた。
金の刺繡がされた純白の衣装をまとい、静かに席についている。その後ろにはロランが立っていた。白銀の鎧は光を受けずとも冷たく見える。
さらに、見慣れない二人がいた。
一人は、黒に近い濃紺の侍女服をまとった女性だった。背筋がまっすぐで、表情に無駄がない。ユナを一目見ただけで、服の皺も、立ち方も、呼吸の乱れも見られた気がした。
もう一人は、灰色がかった髪の男性聖騎士だった。ロランよりも一回り以上は年上に見える。体格がよく、落ち着いた目をしていた。
ユナは入り口で足を止めかけた。
「ユナ」
シャルロッテが呼んだ。
その声で呼ばれた名前が、ふわりと浮いていた心に重さをくれる。
「こちらへ」
「……はい」
ユナは小さく頭を下げ、示された席のそばへ進んだ。
椅子は用意されていたが、腰を下ろすことが正しいのか分からない。迷っていると、侍女服の女性が静かに言った。
「座って構いません」
「は、はい」
ユナは慌てて腰を下ろした。
グレゴリオが口を開く。
「聖名祝祷は予定通り執り行われました。聖名庁の者たちに不安を広げずに済んだことは、まず幸いです」
幸い。
その言葉を、ユナは静かに受け取った。
確かに大聖堂では何も起きなかった。祝福は届いた。人々は頭を垂れ、静かに祈った。
けれど、あの水庭の池底では聖句が欠けた。
祝福は拒まれた。
それも同じ聖都、聖名庁の中で起きたことだった。
「しかし、聖名水庭における異常、ならびに古鐘門結界の揺れは看過できません」
グレゴリオは続けた。
「明日より、聖都十二結界を順に確認します。聖女殿下を中心とする巡祈隊を編成し、各結界の聖句、祝福反応、聖名標、周辺状況を確認することになります」
巡祈隊。
その言葉が、ユナの胸で重く響いた。
聖女が結界を巡り、祈り、張りなおすための公務。
あの日リゼと見た時は、自分とは遠いものだと感じていた。
けれど、グレゴリオの視線はユナへ向いた。
「ユナ・リベル。あなたには、異常を視認した証人として同行してもらいます。」
見えるもの。
見習い修道女ではなく。
写字室で名を写す者でもなく。
何かを見てしまった者として。
ユナは膝の上で手を握った。
「あなたが見たものを、結界管理官も聖女殿下も軽んじないと判断された」
グレゴリオの声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものは読めない。
シャルロッテが静かに言った。
「ユナ。役目として押し付けたいのではありません。けれど、もしまた何かが見えたなら、教えてほしいのです」
その声は、広い会議室の中でも近く聞こえた。
「あの日、私にできることがあればと仰っていただきました。貴方のその力をお貸しいただけますか」
私にできること。
「……わかりました。私でよければ」
そういってユナは小さく頷いた。
シャルロッテの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
グレゴリオは記録官へ視線を向けた。
「今回の巡祈隊は、聖女殿下シャルロッテ・アステリア、護衛騎士ロラン・シュタール、侍女長クラウディア・ローゼンハイム、聖騎士副官マティアス・ハルトマン。そしてユナ・リベル。」
名前が一つずつ置かれていく。
その中に、自分の名があった。
ユナ・リベル。
会議室の中で告げられると、やはり少し遠い。けれど、今日は完全に他人の名のようには聞こえなかった。
「出発は明朝。まずは第一結界から順に、一日ですべてを確認することはできないので、数日に分けて確認していただきます」
必要なことを告げ終えると、グレゴリオは立ち上がった
結界管理官たちも記録書類を抱え直す。
「聖女殿下、後ほど結界管理棟へお越しください」
「分かりました」
シャルロッテが頷く。
扉が開き、グレゴリオ達は静かに出ていった。
足音が遠ざかる。
会議室に残された空気は、少しだけ柔らかくなった。
それでもユナは、どうしていいか分からず、背筋を伸ばしたままだった。
「では、改めて」
最初に口を開いたのは、侍女服の女性だった。
「クラウディア・ローゼンハイムです。殿下付きの侍女長を務めています。巡祈中、あなたの身支度と基本所作についても確認します」
「は、はい。よろしくお願いします」
「返事は結構です。時間があまりありませんので、この後必要最低限を覚えていただきます」
厳しい。
けれど、冷たいわけではなかった。
クラウディアの視線は鋭いが、人を突き放すためのものではなかった。
次に、灰色がかった髪の男性聖騎士が軽く頭を下げる。
「マティアス・ハルトマン。巡祈隊の現場管理を任される。隊列や移動中の指示は私から出すことが多い」
彼はユナを見て、少しだけ声を柔らかくした
「何か見えたときは早めに行ってくれ。まあ、何も見えずに終わることが一番だがな」
安心させるためなのか、冗談なのか。しかしその一言で、胸の奥がわずかに緩んだ。
ロランは短く言った。
「ロラン・シュタール。殿下の護衛だ。危ないと思ったら、すぐに下がれ」
「……はい」
「ただし、見えるなら言え。黙るな」
ぶっきらぼうだった。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
最後に、シャルロッテがユナを見た。
「シャルロッテ・アステリアです。聖女として、明日から十二結界を巡ります」
そんなことは、知っている。
聖名庁にいる者なら。いえ、アステリア聖王国にいる者であれば誰もが知っている。
聖女として遠くに立つのではなく、同じ目的のために行動を共にする者として。
ユナは慌てて頭を下げる。
「ユナ・リベルです。修道女見習いで……その、私は何ができるのか、まだ分かりません」
声が小さくなる
「でも、見えたことは、言います。出来るだけ」
頼りない言葉だった。
それでも、嘘ではなかった。
シャルロッテは静かに微笑んだ。
「それで十分です」
十分。
その言葉を、ユナは胸の奥でそっと受け取った。
まだ、自分のものにはならない。
けれど、名前のように、いつか奥まで届くかもしれないと思った。
窓の外では、午後の光が白い石畳に落ちている。
明日から、聖都十二結界を巡る。
そのどこかでまた、波紋が広がるかもしれない。
それでも今、ユナは一人ではなかった。




