第13話 古い眼差し
――見つけましたよ。
その言葉は、声ではなかった。
耳に残っているのではない。胸の奥、もっと深いところに、冷たい指先で触れられたように残っていた。
聖名水庭の池は、もう静かだった。
池底の聖句は読める形に戻り、水面には木漏れ日が揺れている。さっきまで欠けていた文字も、水のものではない波紋も、そこにはない。
けれどユナには、まだ見えている気がした。
黒く滲んだ聖句。
水面いっぱいに広がった輪。
そして、その奥からこちらを見ていた何か。
それは顔ではなかった。
目も、口も、声もない。人の形をしていたかどうかさえ分からない。
ただ、眼差しだけがあった。
責めるものではなかった。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。けれど、優しさとも違う。
人が人を見る目ではない。
名を確かめるように。
そこに在るものを、名前よりも前の場所から見定めるように。
ユナの輪郭の奥まで、静かに見ていた。
「ユナ」
シャルロッテの声で、ユナは瞬きをした。
水庭の池が、目の前に戻ってくる。古い樹木。白い石畳。低木に残る葉影。青ざめた顔のセシリア。剣の柄に手をかけたままのロラン。
そして、自分の名を呼んだシャルロッテ。
「歩けますか」
問われて、ユナは自分の膝に力が入っていないことに気づいた。
「……はい」
答えた声は、細かった。
シャルロッテはそれ以上近づかなかった。ただ、こちらを見ていた。近づけば崩れてしまうものを、手で支えるのではなく、名で留めようとしているようだった。
グレゴリオ大司教が、管理官へ短く命じる。
「測定具の記録を封じて持ち帰りなさい。ここで解析しようとせず、結界管理室へ戻ります」
「は、はい」
管理官の声は震えていた。
さっきまで安定していたはずの測定具は、もう鳴っていない。だが、銀枠の中の青い針は細かく震えたままだった。まるで、水の中から戻りきれていない魚のように。
聖名水庭を出る時、ユナは一度だけ振り返った。
池は澄んでいる。
木漏れ日は美しい。
その美しさが、かえって怖かった。
何事もなかった顔で、古い聖句は水底に沈んでいる。
でも、ユナは知ってしまった。
そこに刻まれていた言葉は、揺らされる。
聖女の祝福さえ、拒まれる。
結界管理室へ戻る道は、誰も多くを話さなかった。
ロランは前を歩き、時折、シャルロッテを確認する。シャルロッテの歩みは乱れていなかった。けれど、祝福を拒まれた手を、ずっと胸元に引き寄せている。
ユナはその手から目を離せなかった。
あの白い光が、触れる前に砕けた瞬間。
シャルロッテの顔から血の気が引いた瞬間。
あれは、自分だけの恐怖ではなかった。
聖名水庭で起きたことは、ユナだけの夢でも、見間違いでもない。
そのことが、かえって怖かった。
結界管理室へ戻ると、青い光が変わっていた。
いや、部屋そのものは同じだった。石壁の魔術線も、円卓の結界図も、十二の印も変わらない。
けれど、空気が違う。
円卓の上で、十二の印のうち二つが、かすかに揺れていた。
一つは聖名水庭。
もう一つは、聖都の北西を受け持つ結界印だった。
「これは」
管理官のひとりが声を漏らした。
「先ほどまでは、通常範囲内でした」
別の管理官が、慌てて記録板をめくる。
「聖名水庭の反応低下と同時刻に、北西の第七結界――古鐘門結界にも微弱な揺れが出ています。今はまだ浅いものですが……祝福反応が、周期的に落ちています」
北西。
その言葉が落ちた瞬間、セシリアの息が止まった。
ほんのわずかだった。
ユナでなければ、気づかなかったかもしれない。
けれど、見えてしまった。
セシリアの指が、袖の内側で強く握られる。顔色は変えない。けれど、その目だけが一瞬、遠い場所を見た。
「古鐘門結界か」
グレゴリオが静かに言った。
「はい。大聖堂裏手の聖名水庭とは、通常は直接干渉しないはずです」
「通常は、ですか」
シャルロッテが静かに言った。
管理官は口を噤む。
グレゴリオは結界図を見下ろしたままだった。
「聖名水庭と古鐘門。二箇所の揺れを記録しなさい。ただし、聖名水庭での証言と混同しないように」
記録。
その言葉に、ユナは胸の奥が少し冷えるのを感じた。
記録されることは、残されることだと思っていた。
けれど今は、違うようにも思える。
何を記録するのか。
何を分けるのか。
何を、混同しないと決めるのか。
池底の聖句が欠けたこと。
祝福が拒まれたこと。
測定具が読めない値を示したこと。
ユナだけが、あの奥から触れられたこと。
それらは、本当に別々のことなのだろうか。
「聖女殿下。明日の聖名祝祷は、予定通り執り行います。聖名庁の者たちの前で、不安を広げるわけにはいきません」
そう言うと、グレゴリオは結界図へ視線を落とした。
「ただし、聖名祝祷の後、聖都十二結界を順に再確認します。聖名水庭と古鐘門結界だけの異常か、それとも他にも揺れがあるのかを確かめる必要がある」
シャルロッテは少しも驚かなかった。
まるで、そうなることをもう受け止めていたようだった。
「分かりました」
「巡祈隊を組みます。聖名水庭だけではなく、十二の結界を順に確認する必要がある」
十二の結界。
聖都を守る、見えない輪。
その一つが欠けた。もう一つが揺れている。
ユナには、聖都そのものの足元に、水面が張ったように思えた。
白い石の下に、静かな水がある。
誰も知らないところで、輪が広がっている。
「ユナ」
シャルロッテが呼んだ。
名を呼ばれると、胸の奥が少しだけ戻る。
「結界を確認する時、あなたの目が必要になるかもしれません。けれど、役目として命じたいのではありません」
ユナは息を呑んだ。
シャルロッテは、静かに続けた。
「怖いままで構いません。もしまた何かが見えたら、私に教えてください」
ユナは、自分の手を見つめた。
まだ指先は冷えている。
池底で欠けた聖句も、胸の奥に触れた言葉も、消えてはいない。
私に、出来ることがあるのなら。
そう思ってから、ユナは小さく頷いた。
「分かりました。私でよければ」
シャルロッテの瞳が、少しだけ和らいだ。
「ありがとう、ユナ」
その名を呼ばれた時、結界図の北西の印が、かすかに明滅した。
誰かが気づいたかは、分からない。
ユナだけが、それを見ていた。
青い光の奥で、遠い水面に落ちる雫のように、輪がひとつ広がった気がした。




