表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/36

第13話 古い眼差し


 ――見つけましたよ。


 その言葉は、声ではなかった。


 耳に残っているのではない。胸の奥、もっと深いところに、冷たい指先で触れられたように残っていた。


 聖名水庭の池は、もう静かだった。


 池底の聖句は読める形に戻り、水面には木漏れ日が揺れている。さっきまで欠けていた文字も、水のものではない波紋も、そこにはない。


 けれどユナには、まだ見えている気がした。


 黒く滲んだ聖句。

 水面いっぱいに広がった輪。

 そして、その奥からこちらを見ていた何か。


 それは顔ではなかった。


 目も、口も、声もない。人の形をしていたかどうかさえ分からない。


 ただ、眼差しだけがあった。


 責めるものではなかった。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。けれど、優しさとも違う。


 人が人を見る目ではない。


 名を確かめるように。

 そこに在るものを、名前よりも前の場所から見定めるように。

 ユナの輪郭の奥まで、静かに見ていた。


「ユナ」


 シャルロッテの声で、ユナは瞬きをした。


 水庭の池が、目の前に戻ってくる。古い樹木。白い石畳。低木に残る葉影。青ざめた顔のセシリア。剣の柄に手をかけたままのロラン。


 そして、自分の名を呼んだシャルロッテ。


「歩けますか」


 問われて、ユナは自分の膝に力が入っていないことに気づいた。


「……はい」


 答えた声は、細かった。


 シャルロッテはそれ以上近づかなかった。ただ、こちらを見ていた。近づけば崩れてしまうものを、手で支えるのではなく、名で留めようとしているようだった。


 グレゴリオ大司教が、管理官へ短く命じる。


「測定具の記録を封じて持ち帰りなさい。ここで解析しようとせず、結界管理室へ戻ります」


「は、はい」


 管理官の声は震えていた。


 さっきまで安定していたはずの測定具は、もう鳴っていない。だが、銀枠の中の青い針は細かく震えたままだった。まるで、水の中から戻りきれていない魚のように。


 聖名水庭を出る時、ユナは一度だけ振り返った。


 池は澄んでいる。


 木漏れ日は美しい。


 その美しさが、かえって怖かった。


 何事もなかった顔で、古い聖句は水底に沈んでいる。


 でも、ユナは知ってしまった。


 そこに刻まれていた言葉は、揺らされる。


 聖女の祝福さえ、拒まれる。


 結界管理室へ戻る道は、誰も多くを話さなかった。


 ロランは前を歩き、時折、シャルロッテを確認する。シャルロッテの歩みは乱れていなかった。けれど、祝福を拒まれた手を、ずっと胸元に引き寄せている。


 ユナはその手から目を離せなかった。


 あの白い光が、触れる前に砕けた瞬間。

 シャルロッテの顔から血の気が引いた瞬間。


 あれは、自分だけの恐怖ではなかった。


 聖名水庭で起きたことは、ユナだけの夢でも、見間違いでもない。


 そのことが、かえって怖かった。


 結界管理室へ戻ると、青い光が変わっていた。


 いや、部屋そのものは同じだった。石壁の魔術線も、円卓の結界図も、十二の印も変わらない。


 けれど、空気が違う。


 円卓の上で、十二の印のうち二つが、かすかに揺れていた。


 一つは聖名水庭。


 もう一つは、聖都の北西を受け持つ結界印だった。


「これは」


 管理官のひとりが声を漏らした。


「先ほどまでは、通常範囲内でした」


 別の管理官が、慌てて記録板をめくる。


「聖名水庭の反応低下と同時刻に、北西の第七結界――古鐘門結界にも微弱な揺れが出ています。今はまだ浅いものですが……祝福反応が、周期的に落ちています」


 北西。


 その言葉が落ちた瞬間、セシリアの息が止まった。


 ほんのわずかだった。


 ユナでなければ、気づかなかったかもしれない。


 けれど、見えてしまった。


 セシリアの指が、袖の内側で強く握られる。顔色は変えない。けれど、その目だけが一瞬、遠い場所を見た。


「古鐘門結界か」


 グレゴリオが静かに言った。


「はい。大聖堂裏手の聖名水庭とは、通常は直接干渉しないはずです」


「通常は、ですか」


 シャルロッテが静かに言った。


 管理官は口を噤む。


 グレゴリオは結界図を見下ろしたままだった。


「聖名水庭と古鐘門。二箇所の揺れを記録しなさい。ただし、聖名水庭での証言と混同しないように」


 記録。


 その言葉に、ユナは胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 記録されることは、残されることだと思っていた。


 けれど今は、違うようにも思える。


 何を記録するのか。

 何を分けるのか。

 何を、混同しないと決めるのか。


 池底の聖句が欠けたこと。

 祝福が拒まれたこと。

 測定具が読めない値を示したこと。

 ユナだけが、あの奥から触れられたこと。


 それらは、本当に別々のことなのだろうか。


「聖女殿下。明日の聖名祝祷は、予定通り執り行います。聖名庁の者たちの前で、不安を広げるわけにはいきません」


 そう言うと、グレゴリオは結界図へ視線を落とした。


「ただし、聖名祝祷の後、聖都十二結界を順に再確認します。聖名水庭と古鐘門結界だけの異常か、それとも他にも揺れがあるのかを確かめる必要がある」


 シャルロッテは少しも驚かなかった。


 まるで、そうなることをもう受け止めていたようだった。


「分かりました」


「巡祈隊を組みます。聖名水庭だけではなく、十二の結界を順に確認する必要がある」


 十二の結界。


 聖都を守る、見えない輪。


 その一つが欠けた。もう一つが揺れている。


 ユナには、聖都そのものの足元に、水面が張ったように思えた。


 白い石の下に、静かな水がある。


 誰も知らないところで、輪が広がっている。


「ユナ」


 シャルロッテが呼んだ。


 名を呼ばれると、胸の奥が少しだけ戻る。


「結界を確認する時、あなたの目が必要になるかもしれません。けれど、役目として命じたいのではありません」


 ユナは息を呑んだ。


 シャルロッテは、静かに続けた。


「怖いままで構いません。もしまた何かが見えたら、私に教えてください」


 ユナは、自分の手を見つめた。


 まだ指先は冷えている。

 池底で欠けた聖句も、胸の奥に触れた言葉も、消えてはいない。


 私に、出来ることがあるのなら。


 そう思ってから、ユナは小さく頷いた。


「分かりました。私でよければ」


 シャルロッテの瞳が、少しだけ和らいだ。


「ありがとう、ユナ」


 その名を呼ばれた時、結界図の北西の印が、かすかに明滅した。


 誰かが気づいたかは、分からない。


 ユナだけが、それを見ていた。


 青い光の奥で、遠い水面に落ちる雫のように、輪がひとつ広がった気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ