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第14話 呼ばれたのは誰


 修道院宿舎へ戻るころには、空は薄い藍色に沈み始めていた。


 聖名庁の敷地には、明日の聖名祝祷に向けた慌ただしさがまだ残っている。白布を抱えたシスター、聖具庫へ向かう司祭、渡り回廊を急ぐ見習いたち。けれどユナの耳には、そのどれもが少し遠かった。


 ――見つけましたよ。


 声ではなかったはずなのに、消えない。


 胸の奥に残ったその言葉は、息をするたび、静かに水を揺らす。誰も触れていないのに波紋が広がる。池底の聖句が欠ける。聖女の祝福が、水面へ届く前に砕ける。


 そして、古鐘門結界。


 その名が告げられた時、セシリアの指がわずかに強く握られた。顔色は変わらなかった。けれどユナには、セシリアの目が一瞬だけ遠い場所を見たように思えた。


 何かを知っている。


 でも、まだ聞けない。


 聞けば、自分の足元まで欠けてしまいそうだった。


 見習い部屋の扉を開けると、リゼが寝台の上から顔を上げた。


「ユナ」


 その声を聞いた瞬間、ユナは少しだけ息が戻るのを感じた。


 リゼは立ち上がり、すぐにこちらへ歩いてきた。けれど、抱きつくことも、肩をつかむこともしなかった。手を伸ばしかけて、途中で止める。その距離が、リゼらしかった。


「あの後、どうだった?」


 ユナは答えようとして、言葉を失った。


 聖句が欠けた。

 聖女様の祝福が拒まれた。

 古鐘門結界にも揺れが出た。

 あの奥から、何かに見つけられた。


 どれも言えなかった。


 不安を広げるわけにはいきません。


 グレゴリオの声が、結界管理室の青い光と一緒に蘇る。


 リゼに隠したいわけではない。


 けれど、言葉にした瞬間、この部屋の日常まで水面の下へ沈んでしまう気がした。


「……詳しくは、まだ」


 ユナは小さく言った。


「言えないんだ?」


 責める声ではなかった。


 ユナは頷く。


「すみません」


「謝るところじゃないよ」


 リゼは軽く眉を寄せたあと、わざとらしくユナの顔を覗き込んだ。


「でも、またこの世の終わりみたいな顔してる」


「……そんな顔、していますか」


「してる。かなり。明日の朝、鏡に映したら鏡の方が心配するくらい」


 その言い方があまりにリゼらしくて、ユナはほんの少しだけ口元を動かした。


 リゼはそれを見逃さなかった。


「あ、戻った。今ちょっと戻った」


「私は、どこにも」


「行ってないって言うんでしょ。でもね、ユナはたまに、立ってるのに半分どこか行ってる顔する」


 ユナは返せなかった。


 言葉が、思ったより深く胸に落ちた。


 半分どこかへ行っている。


 それは、今日の水面の奥に引かれかけた感覚と少し似ていた。自分の輪郭が揺れて、手の先が自分のものではなくなり、こちら側に立っているはずなのに、どこにも立っていないような感覚。


 リゼは小さく息を吐いた。


「言えないなら、今は聞かない」


「リゼ」


「でも、帰ってきたら顔は見せて。ちゃんと。無事かどうかくらいは、私にも見せて」


 明るい声だった。


 でも、明るくするために少し力を入れている声だった。


「……はい」


「よし」


 リゼは満足したように頷き、それから机の上の小さな包みを指した。


「あと、これ。食堂でもらった干し果物。甘いやつ」


「私に、ですか」


「うん。考えごとには紅茶って言ったけど、夜だから紅茶はなし。眠れなくなるから。代わりに甘いもの」


「……薬ではないんですよね」


「薬みたいなもの」


 リゼは真面目な顔で言った。


 ユナは今度こそ、少しだけ笑った。


     ◇


 その夜、ユナは夢を見た。


 白い布が揺れている。


 灯りはないのに、その布だけが暗がりの中でぼんやりと浮かんでいた。布の向こう側で、赤子の泣き声がする。


 ひとつ。


 いいえ、ふたつ。


 近くで泣いている声と、遠くへ運ばれていく声。どちらも細く、まだ名を呼ばれたことのない声だった。


 ユナはそこにいた。


 けれど、自分がどちら側にいるのか分からなかった。


 白い布のこちら側なのか。


 向こう側なのか。


 残されたのか。


 連れて行かれたのか。


 足元には水面があった。


 池ではない。井戸でもない。ただ、暗がりの中に水だけが広がっている。水の底には、古い聖句のようなものが沈んでいた。読もうとすると、そこだけ黒く滲み、文字の形を失っていく。


 見えない雫が落ちた。


 輪が広がる。


 その輪の中で、ひとつの名が揺れていた。


 ユナ。


 それは、目覚めた後に与えられた名のはずだった。


 白い布の向こうで泣いていた時には、まだ誰もその名を呼んでいなかったはずなのに。


 けれど夢の中では、その名だけが水面に浮かんでいる。


 誰が、その名を受け取ったのだろう。


 そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。


 いいえ。


 名を受け取ったのは、自分のはずだった。


 それなのに、どうしてこんなに遠いのだろう。


 ユナは口を開こうとした。


 けれど、声は出なかった。


 自分の名さえ、喉の奥でほどけてしまいそうだった。


 その時、遠くで鐘が鳴った。


「ユナ、朝だよ」


 目を開けると、リゼが寝台のそばにいた。


 薄い朝の光が、窓のカーテンを白くしている。聖名庁の鐘が、遠くからゆっくり響いていた。


「……リゼ」


「うん。リゼ。ちゃんといるよ」


 昨日と同じような言葉だった。


 けれど、それだけで胸の奥の水面が少し静まった。


 呼ばれたのは誰だったのか。


 問いはまだ、消えない。


 それでも今、ここで「ユナ」と呼んだのは、リゼだった。


 聖名祝祷の朝、聖名大聖堂へ向かう道は人で満ちていた。


 白い修道服の見習い、聖職者、管理官、聖騎士、厨房や救護棟で働く者たち。聖名庁の中で日々働く人々が、皆、大聖堂へ向かっている。


 リゼはユナの隣を歩きながら、小声で言った。


「人、多いね」


「はい」


「はぐれたら大変だから、ちゃんと隣にいてね」


「リゼこそ」


「私は大丈夫。たぶん」


「また、たぶんですか」


「そこは信じて」


 昨日と同じやり取りなのに、今日は少し違って聞こえた。


 大聖堂の扉が開かれている。


 高い天井。白い柱。朝の光を受けて淡く輝く聖印。奥の祭壇には、薄青の布がかけられていた。


 人々のざわめきが、祈りに変わる前の静けさへ少しずつ沈んでいく。


 ユナはリゼの隣で、列の端に立った。


 こんなに多くの人の中にいれば、自分など見つかるはずがない。


 そう思った。


 けれど、祭壇の前に現れたシャルロッテは、静かに周囲へ視線を巡らせたあと、ふとこちらを見た。


 白金の絹糸のような髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。


 昨日、祝福を拒まれた手。


 その手は今、聖女として祈りを授けるために、胸の前で静かに組まれていた。


 シャルロッテは、たくさんの人々の中からユナを見つけた。


 そして、ほんのわずかに微笑んだ。


 民に向ける整った微笑みではなかった。


 誰かを安心させるためだけの笑みでもない。


 そこにいることを、確かめるような微笑みだった。


 ユナは息を吸った。


 名前を呼ばれたわけではない。


 けれど、その一瞬、ほどけかけていた名が、胸の奥でかすかに形を取り戻した気がした。


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