第12話 祝福の届かぬ水面
聖名水庭へ戻る道は、先ほど来た時よりも長く感じられた。
前を歩くのはロランだった。白銀の鎧が、渡り回廊に差し込む光を受けて静かに光っている。その少し後ろを、シャルロッテが歩いていた。白金の絹糸のような髪が揺れるたび、淡い光がほどける。
グレゴリオ大司教と管理官たちが続き、セシリアはユナの隣を歩いている。
聖名大聖堂の裏手へ向かう道は、人の声が少なかった。明日の聖名祝祷のために、表側では多くの者が清掃や準備に動いているはずなのに、こちら側へ回るほど、音は白い石壁と古い木々に吸われていく。
聖名水庭。
聖都十二結界の一つ。
池底や縁石に刻まれた古い聖句に、聖女の祝福と祈りを重ねることで保たれている場所。
朝、リゼたちと手入れをしていた時は、ただ静かな聖域に見えた。池の縁を拭い、石畳の落ち葉を集め、古い白石に積もった薄い埃を払うだけの仕事だった。
けれど、あの時。
池底の聖句が、黒い水に滲むように読めなくなった。
その上に、何も落ちていないのに波紋が生まれた。
水が揺れていたのではない。
刻まれていた言葉が、揺らされていた。
「ユナ」
前を歩いていたシャルロッテが振り返った。
名を呼ばれただけで、胸の奥が一瞬こちら側へ引き戻される。
「場所は、この先ですか」
「……はい。池の、奥の方です。縁石の近くから見える、底の聖句のところに」
「分かりました」
シャルロッテは頷いた。
その声は落ち着いていた。けれど、ただ平気だから落ち着いているのではないと分かった。怖くないからではなく、怖くても立っていられる人の声だった。
聖名水庭は、古い樹木に囲まれて静かに広がっていた。
白い石畳の道は木々の間をゆるく曲がり、その奥に澄んだ池がある。水面には昼の光と葉影が重なり、風が吹くたび、木漏れ日だけが細かく揺れていた。
朝と同じ場所のはずだった。
けれど、同じには見えなかった。
ロランが先に足を踏み入れる。
彼女は池、石畳、低木、古い縁石へ視線を走らせた。剣の柄には触れない。けれど、いつでも動ける距離を保っている。
「目視できる異常はありません」
ロランが言った。
管理官のひとりが、銀枠の測定具を掲げる。硝子の中の青い針が、細かく震えていた。
「数値上の大きな乱れはありません。聖句に重ねた祝福反応も、現在は安定しています」
安定。
その言葉が、乾いた布のように胸へ触れた。
ユナが見たものは、そんな言葉で消えてしまうものなのだろうか。
それとも、測れないだけなのだろうか。
「ユナ」
シャルロッテがもう一度呼んだ。
「あなたが見た場所を、示してもらえますか」
ユナは頷いた。
足が少し重かった。けれど進むしかなかった。
朝、リゼが落ち葉を集めていた場所を通り過ぎる。籠も箒も、もうない。水庭は、何も起きなかったような顔をしている。
それが、少し怖かった。
何もなかったように見える場所ほど、本当は何かを隠しているのではないか。そんなことを考えてしまう。
ユナは池の縁で立ち止まった。
古い白石の縁。澄んだ水。池底に沈む、長い年月で薄れた聖句。
「ここです」
声が小さくなる。
みなが池を見た。
ロランも、管理官も、グレゴリオも、セシリアも。シャルロッテも目を凝らす。
けれど、そこには何もなかった。
水面は静かだった。葉影と木漏れ日だけが細かく揺れている。池底の聖句も、薄れてはいるが、欠けているようには見えない。
ユナの胸が、少し沈む。
消えている。
さっきまで、確かにここにあったのに。
「池の底の聖句が、そこだけ……読めなくなっていました」
言葉にした途端だった。
池底の古い文字の一部が、ふいに歪んだ。
水面ではない。
水そのものでもない。
底に刻まれた聖句の一部だけが、黒い水に滲むように読めなくなる。
その上に、遅れて輪が生まれた。
雫が落ちた時のような波紋だった。けれど、何も落ちていない。輪は水面を広がりながら、池底の欠けた文字の上だけを覆っていく。
ユナは息を止めた。
出た。
今、また。
声が喉の奥で凍りつく。
「ユナ?」
セシリアが呼んだ。
けれどユナは答えられなかった。
みなが同じ池を見ている。
それでも、誰の表情も動かない。
見えていない。
今も、見えているのは自分だけだった。
「今も、見えています」
ようやく出た声は、ひどく細かった。
「池底の聖句が、一部だけ欠けています。その上に、波紋が……たった今、また」
シャルロッテは静かに膝を折った。
「聖女殿下」
ロランが低く呼ぶ。
「大丈夫です。池には触れません」
シャルロッテはそう答え、ユナが示した場所へ向かって、少し離れた位置から手をかざした。
その指先から、淡い白い光がこぼれた。
祈りの言葉は小さかった。けれど、水庭の空気が一瞬で変わる。冷たい水の上に、柔らかな祝福が降りる。聖都を守る結界を張り、保つ聖女の祈り。
それは本来なら、池底の聖句へ静かに重なるはずだった。
ユナはそう思った。
けれど次の瞬間、白い光が弾かれた。
音はなかった。
ただ、シャルロッテの手元で祝福の光が砕けるように散り、水面へ触れる前に消えた。
その場にいた全員の息が止まる。
シャルロッテの顔から、血の気が引いた。
「……拒まれた」
誰かが呟いた。
管理官の声かもしれなかった。ユナには分からなかった。
ロランが一歩前に出る。
「聖女殿下、お下がりください」
「待って」
シャルロッテは池を見つめたまま、かすかに首を振った。
「今のは、結界の反発ではありません」
その声は細く、けれど確かだった。
「私の祝福が、触れることを許されなかった」
あってはならないことが起きた。
その言葉が、誰の口からも出ないまま、水庭全体に満ちていく。
聖女の祝福が届かない場所。
聖都十二結界の一つで。
聖名水庭の聖句の上で。
ユナには、まだ波紋が見えている。
聖句が欠ける。輪が広がる。ほどける。また生まれる。
その欠けた文字の奥が、ほんの一瞬だけ暗くなった。
穴。
その言葉が、胸の奥に浮かんだ。
結界か、境界か、名前の分からない何かに、小さな穴が開いている。
そう思った瞬間だった。
波紋が、大きく広がった。
それまで池の一角だけを覆っていた輪が、水面いっぱいに薄く走る。池全体が、静かな水面ではなく、こちら側ではない何かを映したように震えた。
「聖句が、欠けた」
誰かが息を呑むように言った。
ロランが剣の柄に手をかける。セシリアがユナの名を呼びかけ、管理官のひとりが測定具を取り落としそうになった。
銀枠の測定具が、管理官の手の中で甲高く鳴る。
硝子の中の青い針が激しく震えていた。さっきまで安定していた光が、今は細い悲鳴のような音を立てて、端まで振り切れている。
「聖句の祝福反応、異常低下……いえ、これは」
管理官の声が裏返る。
「記録できません。値が、読めない」
波紋は一度だけ大きく広がり、すぐに縮んだ。
けれど、全員が見た。
見てしまった。
聖名水庭の池底の聖句が、欠けたことを。
その上に、水のものではない波紋が広がったことを。
次の瞬間、ユナの耳から周囲の音が遠ざかった。
ロランの鎧の音も、管理官の震える声も、セシリアが息を呑む気配も、全部が水の向こうへ沈んでいく。
池の波紋だけが、近い。
近すぎる。
欠けた聖句の奥に、白い光が滲んだ。
それは糸ではなかった。
声でもなかった。
ただ、そこに残っている何かの痕のようだった。水面に消えきらず残る、淡い光の痕。こちら側にも、向こう側にも属しきれない光ではない。もっと古く、もっと大きなものの端。
ユナは動けなかった。
波紋の奥から、誰かが見ている。
顔はない。
姿もない。
けれど、そこに意志がある。
とても古い。
聖名庁の白い石よりも、聖都十二結界よりも、聖名帳に記されたどの名よりも、ずっと古い何か。
それが、ユナを見ている。
――見つけましたよ。
声ではなかった。
けれど、胸の奥に直接触れた。
ユナは息を吸おうとした。できなかった。
身体から力が抜けた。
膝が崩れかける。指先が冷たくなる。けれど倒れることもできなかった。何かに引かれている。池の奥へ。波紋の中心へ。水面の向こうへ。
自分の輪郭が、揺れている。
手の先が、自分のものではなくなる。
足元が、石畳ではなくなる。
こちら側に立っているはずなのに、どちら側にも立っていない気がした。
連れて行かれる。
そう思った瞬間、恐怖が遅れてきた。
白い布。
二つの泣き声。
向こう様へ。
夢の中の言葉が、冷たい水のように胸へ流れ込む。
「ユナ!」
誰かが叫んだ。
セシリアの声だったかもしれない。
けれど、届かない。
届いたのは、次の声だった。
「ユナ」
シャルロッテの声。
震えてはいなかった。
けれど、必死だった。
「ユナ、こちらを見て」
名を呼ばれる。
呼ばれれば、戻れる。
リゼの声。セシリアの声。そして今、シャルロッテの声。
ユナは震えながら瞬きをした。
波紋の中心にあった暗さが、ふっと薄れる。輪がほどける。池底の聖句が戻ってくる。
音が戻った。
ロランが剣に手をかける音。管理官の測定具がまだ細く鳴っている音。セシリアが小さく息を吐く音。
シャルロッテは、ユナの少し前に立っていた。
祝福を拒まれた手を胸元に引き寄せたまま、それでもユナから目を逸らしていない。
「ユナ」
もう一度、名を呼ばれる。
ユナはようやく、自分が立っていることを思い出した。
「……はい」
声は、ひどく小さかった。
シャルロッテの顔は青ざめていた。けれど、その瞳は揺れていない。
「今、あの奥に何かありましたか」
ユナの喉が震えた。
あった。
見えたのではない。
聞こえたのでもない。
けれど、何かがこちらを見ていた。
池底の聖句の、さらに向こうから。
胸の奥に、言葉だけが触れた。
――見つけましたよ。
「……見えた、のではないと思います」
ユナは小さく言った。
「でも、何かがいました。あの奥から、こちらを見ていて」
「何かが?」
「声では、ありませんでした。でも、胸の奥に触れました」
「何と?」
「見つけましたよ、と」
水面が、風もないのにかすかに揺れた。
セシリアが息を呑む。
グレゴリオは目を伏せた。
その顔からは、何も読み取れなかった。
シャルロッテだけが、ユナを見ていた。
恐れるでもなく、疑うでもなく。
まるで、呼ばれた名が消えないように、その場に留めようとするように。
ユナは、もう一度池を見た。
波紋は消えていた。
池底の聖句も、読める形に戻っている。
管理官の測定具も、いつの間にか鳴り止んでいる。
けれど澄んだ水の奥に、まだ欠けた文字の影が残っている気がした。
誰にも見えない場所で、静かに輪を広げながら。




