鼻血
今日も遅刻です。すみません
それからすぐにニック・ドロワ男爵とバックス商会については疑いが濃厚になったので、殿下は陛下に言上して、正式に捜査に当たることになった。
現在は共犯者がいる可能性を考えて、秘密裡に捜査をすすめているらしい。
そちらの方は一歩進んだが、ルシアーナさまのほうはといえば、まだ頑なに殿下との面会を拒んでいるようだ。
私は言えば、ここ数日、例のオブラートの改良にいそしんでいるせいで、ちょっと困ったことになっている。
魔法陣を描き、魔術を発動したまでは良かったのだけれど。
鼻からぽたりと何かが落ちる感触に慌てて、ハンカチをあてた。
「先生、すみません。出血したので保健室に行ってもよろしいですか」
「大丈夫ですか? アルマクさん。このところ毎日ですが?」
「だいひょうぶです」
上を見ながら、私は答える。
ここ数日、魔術の授業で少し体内で魔力を巡らせると、すぐ鼻血がでてしまう。原因はわかっている。ゴルを飲んだからだ。
これでも一日、ひとかけら以上は飲まないようにしたのだけれど。
少しのぼせたような感覚で、頭がぼうっとしてきた。
よくわからないけれど熱まで出てきたみたいだ。
保健室にたどり着いた私は、そのままベッドに横になった。
椿宮の庭園は、荒れ放題になっていた。
橋は壊れ、流れていた水路は既に止まって久しい。
世界のすべてが色を失ったというのにぽたりぽたりと大地に落ちた椿の花だけが赤い。
高等部の制服を着たリオンは、動かないアルキオーネを見下ろしていた。
「そう、それでいいのですよ、殿下。あなたに手に入らないものはないのです」
そう囁いたのは誰だろう。
「いやだ、私は……こんなことがしたかったわけでは」
ぽとりと涙をこぼしながら、リオンは手にした刃を振り上げる。
白銀が向かうその先は、アルキオーネ……の胸元。
「やめて!」
思わず、私は叫び声をあげた。
「おい、アルキオーネ! しっかりしろ!」
「おにい……さま」
目を開くと、兄とリオン殿下がいた。
一瞬、先程の続きかと体が固まる。
「アルマク嬢」
優しい声だ。先程とは違う。
先程見た光景は夢だったのだろう。なんて、リアルで怖い夢。
白黒だった世界は、色鮮やかなものに戻っている。殿下の着ている制服は中等部のものだし、その表情も私を本当に心配している顔だ。
「殿下……」
どうして、と言いかけた私に兄が説明を始めた。
なんと私は高熱を出してずっと眠ってしまったらしい。鼻に違和感があるところ見ると、詰め物をしたままだ。とりあえず、ハンカチを取り出して、鼻から下をそれで覆った。
どうやら保健室の先生が、兄を呼んでくれたらしい。聞けばもう放課後だそうだ。
けれど兄はともかく、鼻に詰め物をした状態を、他人しかも皇子殿下にみられるのは、かなり恥ずかしい。
「熱はだいぶ下がったみたいだけれど、大丈夫か?」
「すっきりした気がします。のぼせたのかもしれません」
鼻血と熱に因果関係があるのかどうかわからないけれど。
「ひょっとして、ゴルを飲んだせいでは?」
殿下が眉間にしわを寄せる。
「ええと」
そうですというのもなんだけれど、違いますというのも違う気がする。
「昨日は一かけらだけにとどめてますよ?」
「昨日は?」
「用量は守っておりますよ?」
多かった日でも医師に言われた上限は守っている。
「君の気持ちは嬉しいが無理をしたらダメだ」
「無理はしていないです」
もちろん、ルシアーナさまの命がかかっているから、それなりに頑張ってはいるけれど、自分を犠牲にしてというほどではない。
「とりあえず、ガデリのおっちゃんとは話ができたから、お前がそんなに気張らなくてもいいって、昨日言ったろ?」
「飲んだのは、聞く前だったので」
もっとも聞いた後でもやっただろうけれど。
「一応、実用範囲のところまで来ているし、そもそもおっちゃんがルシアーナさまの見舞いをしてくれるってとこまで話を持っていったから、そもそもいらなくなる可能性だってあるのだから」
「それはそうですが、うまくいったら、商品化したいんです」
「正気か?」
兄はあれが売れるとは少しも考えていないのだろう。
「コストの問題があって現段階では売れないかもしれませんが、子供にお薬を飲ませる場合なんかは、需要があると思うのです」
苦いのを我慢できない幼児には、救世主のようなオブラート。お薬ゼリーでもいいんだけれど。
「それに、お菓子にも使えるかもしれないですし」
和菓子系のゼリーとか、オブラートで包んだものがあった。手にくっつかなくて、何よりそのまま食べられる。
「あれ、無味じゃん」
「まあ、そうなんですけれど」
現段階では、理想とするオブラートには程遠いから、薬はギリ飲めるかもしれないけれど、さすがにお菓子を包んだりするアレにはならない。
「だいたい、大人だって、苦い薬は飲みたくないものです。価格を抑えることさえ可能なら、それなりに売れるはずです」
大人なら苦い薬が飲めるというのであれば。
なぜ、日本にあれほど糖衣錠やカプセルのお薬があったのか。もちろん製造上の理由や保存の問題もあると思うけれど、誰だって苦い薬は嫌だと思う。
『良薬口苦し』なんていうけれど。そうでも思わなければ飲みたくないだけだ。
「それはアルマク嬢の言う通りかもしれない」
リオン殿下は頷く。
「私も苦い薬を飲みたいかと聞かれたら、飲みたくないから」
「まあ、それはそうかもしれないけれど」
兄は頭を掻く。
その時がらりと保健室のドアが開く音がした。
「アルが流血したってきいたけれど?」
「アルキオーネさん、大丈夫ですか?」
「あ、あの、ご無事ですか」
なるほど。今日は領地経営研究同好会の日だから、兄と殿下が保健室に来た地点でほかのメンバーにも私が鼻血を出したことが伝わってしまったのだろう。みんなでお見舞いに来てくれたのは嬉しい。嬉しいけれど。
「大丈夫です。ちょっと大事を取って寝ているだけなので」
正直、鼻に栓をしている状態であまり顔を見られたくない。私も一応は乙女なのだし。
「みなさま、ご心配なのはわかりますけれど、病気の乙女の顔をあまり殿方が見られるのはどうかと思いますわ」
「ああ、そうか、すまない」
殿下は慌てて一歩下がる。
「ありがとうございます。エミリアさま」
とりあえず、みんなに覗き込まれるという事態は避けられて、ちょっとほっとする。
「本当に大丈夫ですの?」
「はい。皆様にはご心配をおかけしました。もう少ししたら領地経営研究同好会の方には顔を出しますので」
「ダビー、荷物を取ってきて、ジュテスト医師に診てもらった方がいい」
「そうですね」
リオン殿下に言われて、兄も頷く。
「え? でも」
「しばらく実験も禁止。体調を崩してからでは遅い」
「でも、この程度のことで……」
最初からその程度の副作用があることは聞いていたことだ。
「ここのところ魔力の授業のたびに鼻血が出ていると聞いた。ひょっとしたら学院以外でも、あるのでは?」
「ええと」
まあ、確かにちょっと何かすると出る傾向はある。ただ、鼻血って多かれ少なかれそういうものではないだろうか。粘膜に傷がついていると出血しやすい的な。
「少なくとも熱が出たのはあまりよろしくない。さっきは相当うなされていたし、大事をとったほうがいい」
殿下の圧がすごい。でも、その目は私をとても心配しているようだった。
「わかりました」
私は素直に頷くことにした。