第6章 真実の男
朝。
女性刑務所。
点呼。
食事。
作業。
休憩。
また作業。
規則正しい一日。
トシアキは。
一般区画へ戻ってから。
以前ほど問題を起こさなくなっていた。
怒鳴らない。
物を奪わない。
身体に触れない。
刑務官の指示にも従う。
少なくとも。
表面上は。
模範的とまでは言えない。
だが。
処分されるような行動は。
ほとんどなくなった。
理由は。
反省したからではない。
必要がなくなったからだった。
---
廊下。
トシアキが歩く。
向こうから。
三人の女性受刑者。
トシアキに気づく。
会話が止まる。
一人が。
小さく何かを言う。
三人は。
別の廊下へ曲がる。
トシアキは。
その後ろ姿を見る。
笑う。
――避けた。
以前なら。
追いかけていた。
「逃げるな」
そう言って。
相手に自分を見させようとしていた。
今は。
追わない。
逃げる。
それでいい。
自分が来れば。
道が空く。
自分が座れば。
席が空く。
自分が話せば。
皆が黙る。
トシアキには。
それで十分だった。
それを。
支配と呼んだ。
---
食堂。
トシアキが入る。
以前のように。
会話が完全に止まることはない。
ただ。
少しだけ。
空気が変わる。
視線が動く。
一人が椅子を引く。
別の一人がトレイを持つ。
トシアキが。
いつもの席へ向かう。
その周囲。
四つの席。
誰も座っていない。
トシアキは。
当然のように。
中央に座る。
「……」
食べ始める。
遠く。
別のテーブルでは。
女性たちが話している。
笑い声。
小さな冗談。
日常。
トシアキは。
それを聞く。
以前なら。
自分を笑っていると思った。
今は。
違う。
――好きにしろ。
そう思う。
――どうせ。
――ここで一番自由なのは俺だ。
刑務所なのに。
奇妙な考えだった。
だが。
トシアキの中では。
完全に成立していた。
誰にも近づかれない。
誰にも口を出されない。
誰も逆らわない。
だから。
自分が一番強い。
---
弁護士との面会。
久しぶりだった。
弁護士は。
いつものように。
書類を持っている。
トシアキは。
座るなり聞いた。
「外は?」
弁護士が。
少し嫌そうな顔をする。
「何がです」
「分かってんだろ」
「団体ですか」
トシアキが笑う。
「そう」
弁護士は。
書類を置く。
「新しい声明が出ています」
トシアキの目が。
明るくなる。
「まだ俺のこと言ってるのか」
「あなた個人についてだけではありません」
「でも俺の件だろ」
「きっかけの一つではあります」
「読めよ」
弁護士が。
短く息を吐く。
「概要だけです」
紙を見る。
「収容施設における安全確保と、個人の権利保障を両立するための制度改善を求める」
トシアキが笑う。
「ほら」
「何がです」
「まだ困ってる」
「そういう意味ではありません」
「俺一人のせいで」
「違います」
弁護士が。
少し強く言う。
「あなたの事件をきっかけに、制度全体の運用について議論しているんです」
「同じだろ」
「違います」
「俺が動かした」
弁護士が止まる。
「何をです」
トシアキは。
当然のように答えた。
「社会を」
弁護士は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
静かに聞いた。
「本当にそう思っていますか」
「思う?」
トシアキが笑う。
「事実だろ」
「あなた以外にも」
弁護士は言う。
「様々な事件や議論があります」
「でも」
「あなたの名前を出していない声明もあります」
トシアキの笑みが。
一瞬。
止まる。
「……何?」
「今回の声明には」
紙を見る。
「あなたの名前はありません」
沈黙。
トシアキが。
弁護士を見る。
「嘘つけ」
「なぜ嘘をつく必要があるんです」
「俺の件だろ」
「きっかけの一つです」
「だったら名前出せよ」
弁護士は。
答えない。
トシアキの顔が。
少しずつ。
硬くなる。
「俺の件なのに」
「トシアキさん」
「俺が原因なのに」
「社会の問題は」
弁護士が。
言葉を選ぶ。
「あなた一人を中心に回っているわけではありません」
その一言。
トシアキは。
黙る。
弁護士は。
さらに言う。
「あなたが何をしたか」
「それによって何が起きたか」
「それは記録されます」
「でも」
「それと」
「世界があなたを中心に動いているという話は」
「別です」
沈黙。
トシアキは。
笑おうとする。
「説教か?」
「いいえ」
弁護士は。
静かだった。
「説明です」
面会終了の合図。
弁護士が。
書類をまとめる。
トシアキは。
何も言わない。
弁護士が立つ。
最後に。
一度だけ。
トシアキを見る。
「では」
扉が閉まる。
トシアキは。
一人。
残る。
---
独房ではない。
普通の部屋。
それなのに。
以前より。
静かに感じる。
トシアキは。
ベッドに座る。
――名前がない?
意味が分からない。
自分のせいで。
声明が出た。
自分のせいで。
デモが起きた。
自分のせいで。
制度が揺れた。
そのはずだった。
なのに。
名前がない。
「……」
トシアキは。
首を振る。
「関係ねえ」
小さく言う。
「名前なんか」
また。
言う。
「関係ねえ」
誰に聞かせるでもなく。
「俺がやったことは消えねえ」
その通りだった。
暴力も。
威圧も。
恐怖も。
消えない。
だが。
トシアキが欲しいものは。
それだけではなかった。
自分が。
敵にとって。
特別な存在であること。
恐れられていること。
無視できないこと。
それが。
必要だった。
---
数日後。
運動時間。
女性受刑者たちが。
数人で話している。
トシアキが。
近くを通る。
以前なら。
会話が止まった。
今日は。
止まらない。
トシアキの足が。
少し。
遅くなる。
女たちは。
普通に話している。
一人が。
笑う。
別の一人が。
笑い返す。
トシアキを。
見ていない。
トシアキは。
通り過ぎる。
――気づいてないのか?
少し先で。
立ち止まりそうになる。
だが。
そのまま歩く。
背中に。
何の視線も感じない。
それが。
妙に。
腹立たしかった。
---
食堂。
いつもの席。
誰もいない。
トシアキが座る。
周囲は。
遠い。
以前なら。
この空白が。
王座に見えた。
今日も。
そう見ようとする。
「……」
トレイ。
味の薄い食事。
一口。
二口。
遠くから。
笑い声。
トシアキが。
顔を上げる。
女性たち。
話している。
自分とは。
関係のない話。
トシアキは。
じっと見る。
一人が。
気づく。
目が合う。
以前なら。
すぐに逸らした。
今日は。
一瞬だけ。
トシアキを見る。
そして。
特に何もなかったように。
話へ戻る。
それだけ。
トシアキの箸が。
止まる。
――なんだよ。
目を逸らす。
――怖がれよ。
そう思った瞬間。
自分でも。
気づく。
怖がってほしい。
自分を見てほしい。
反応してほしい。
それが。
ずっと。
欲しかった。
---
夜。
洗面所。
鏡。
トシアキが。
自分を見る。
女性用の囚服。
太い首。
筋肉質な肩。
右頬。
かつてあった痣は。
もう消えている。
鏡の中。
昔と。
同じ顔。
そのはずだった。
「……」
トシアキは。
鏡に近づく。
「俺は女だ」
言う。
何も起きない。
「俺は男だ」
何も起きない。
「俺は弱者だ」
何も起きない。
「俺は被害者だ」
何も起きない。
「俺は」
止まる。
昔なら。
続く言葉があった。
真実の男。
トシアキは。
鏡を見る。
「……俺は」
言えない。
ほんの数秒。
沈黙。
そのとき。
代々木公園。
最初の日。
スマートフォン。
SNS。
プロフィール。
一行。
「真実の男」
思い出す。
トシアキの表情が。
ゆっくり変わる。
「……そうだ」
鏡へ向かって。
言う。
「そうだよ」
口元が上がる。
「それでいい」
自分に。
言い聞かせる。
「俺は」
少し大きな声。
「真実の男だ」
鏡は。
何も返さない。
「俺は負けてない」
声が大きくなる。
「裁判でも」
「ここでも」
「最後には俺が勝った」
笑う。
「お前らの法で」
「お前らの理念で」
「お前らの言葉で」
声が。
洗面所に響く。
「全部」
「俺が使ってやった」
笑い声。
「ハハ」
「ハハハ」
誰もいない。
---
翌日。
弁護士から。
最後の報告が届く。
施設前の抗議活動。
規模は。
以前より小さくなっていた。
報道も。
減っていた。
世間の関心は。
別のニュースへ移っている。
トシアキは。
その話を聞く。
「……減った?」
「はい」
弁護士が答える。
「報道も?」
「以前ほどではありません」
「団体は?」
「活動自体は続いています」
「俺について?」
「あなた個人についての発信は」
少し間。
「ほとんどありません」
トシアキは。
黙る。
「……」
弁護士は。
何も付け足さない。
トシアキが。
ゆっくり笑う。
「分かった」
「何がです?」
「逃げたんだ」
「……」
「俺に勝てないから」
弁護士の顔に。
何かが浮かぶ。
疲労。
諦め。
それとも。
哀れみ。
トシアキには。
分からない。
「もういいです」
弁護士は言う。
「何が」
「いえ」
立ち上がる。
「また必要があれば」
弁護士が去る。
トシアキは。
一人残る。
「逃げた」
もう一度。
呟く。
それだけで。
世界は。
また。
元に戻った。
---
次の日。
食堂。
昼。
トシアキが入る。
女性受刑者たち。
誰も。
彼を止めない。
誰も。
席を奪わない。
誰も。
文句を言わない。
トシアキが。
いつもの中央の席へ向かう。
周囲。
誰も座っていない。
トシアキが座る。
静か。
遠く。
他の女たちは。
それぞれのテーブルで。
話している。
食べている。
笑っている。
誰も。
トシアキを見ていない。
トシアキは。
ゆっくり。
周囲を見渡す。
完全な孤立。
誰も近づかない。
誰も反抗しない。
誰も彼を必要としない。
誰も。
彼と戦っていない。
だが。
トシアキには。
違って見えた。
道は空いている。
席も空いている。
誰も口を出さない。
外の団体も。
自分の名前を言わなくなった。
つまり。
もう。
何も言えなくなった。
そう。
解釈した。
トシアキの口元が。
ゆっくりと。
上がる。
「……ハ」
一人の女が。
遠くから。
ちらりと見る。
「ハハ」
トシアキの肩が。
震える。
「ハハハ」
笑い声が。
大きくなる。
周囲の女性たちが。
一瞬。
見る。
そして。
また。
食事に戻る。
トシアキは。
さらに笑う。
「ハハハハハ!」
刑務所中に。
響くほど。
「見たか!」
誰に向かっているのか。
分からない。
「これが!」
立ち上がる。
「お前らの作った世界だ!」
刑務官が。
遠くから。
警戒している。
トシアキは。
両腕を広げる。
「俺を入れた!」
「俺を隔離した!」
「俺を戻した!」
「全部!」
「お前らのルールで!」
笑う。
「そして!」
胸を張る。
「最後に残ったのは!」
一拍。
「俺だ!」
静寂。
誰も。
答えない。
トシアキは。
その静寂すら。
歓声に変える。
「俺の勝ちだ!」
笑う。
「俺の勝ちだ!」
さらに。
「ハハハハハハハ!」
---
俺は。
負けなかった。
あの日。
代々木で。
俺を笑った奴ら。
法廷で。
俺が連れていかれるのを見ていた奴ら。
俺を。
ここから追い出そうとした奴ら。
全部。
最後には。
黙った。
俺は。
奴らの法を使った。
奴らの理念を使った。
奴らの言葉を使った。
そして。
奴らに勝った。
俺は。
最初から。
何も変わっていない。
俺は――
真実の男だ。
---
広い食堂。
中央。
トシアキ。
一人。
両腕を広げ。
腹の底から笑っている。
その周囲。
いくつもの空席。
遠くには。
トシアキとは関係なく。
普通に食事を続ける女性受刑者たち。
誰も。
彼を見ていない。
その笑い声だけが。
巨大な空間に。
虚しく反響する。
「ハハハハハハハ!」
そして。
その下。
小さく。
「真実の男」
――完――




