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第55話 次の夜が来る前に

 次の広域魔力低下が来る可能性がある。


 そう言うだけなら簡単だった。


 問題は、「いつ来るのか」「本当に来るのか」「どの程度の規模なのか」という、誰もが一番知りたい部分に、まだ確かな答えがなかったことだった。


「三日以内」


 国立魔導研究院の臨時観測室で、ノアが黒板へ数字を書いた。


「幅を取るなら、二日から五日です」


「かなり広いですね」


 リナが言う。


「狭く言って外すよりましです」


 ノアは振り返らずに答えた。


 壁一面には、帝国、カルディア、エルグラン、それ以外の国々から届いた観測曲線が貼られている。


 大気魔力。


 地下魔力井戸。


 山岳観測所。


 平地。


 都市。


 農村。


 今のところ、どこも大きな異常は起きていない。


 街灯は普通に灯っている。


 水道も動いている。


 治療院も。


 畑も。


 表面上は、平穏だった。


 それなのに。


 細かく見れば。


 魔力濃度が小さく下がる。


 戻る。


 また下がる。


 その周期が。


 前回の大規模低下前に残されていた変動と、よく似ている。


「完全一致ではないんですよね」


 エレナは念を押した。


「はい」


「周期は?」


「前回より平均で六分長いです」


「振幅」


「今のほうが小さい」


「国ごとの差」


「あります」


「なら」


 エレナは黒板を見る。


「『三日後に必ず来る』とは言えません」


「言いません」


 ノアも頷く。


「でも、偶然で片づけるには」


「複数国で同期しすぎている」


「はい」


 エレナは腕を組んだ。


 予測。


 その言葉が。


 怖かった。


 起きたあとなら。


 数字を見て。


 対応できる。


 でも。


 起きる前に。


「来るかもしれない」と言えば。


 人を動かすことになる。


 魔石を運ぶ。


 治癒瓶を移す。


 畑を守る。


 水道を点検する。


 軍の輸送計画を変える。


 商人の在庫も。


 市場価格も。


 人々の不安も。


 全部。


 動く。


 そして。


 外れたら。


「技師長」


 オルディスが静かに呼んだ。


「はい」


「また全部自分の責任にしようとしていますね」


 エレナは少し驚いた。


「顔に出ていました?」


「かなり」


「皆さん、その言い方好きですね」


「便利ですので」


 ミレイアが書類を閉じる。


「そもそも、これはエレナ一人の予測じゃないでしょう」


「はい」


「ノアの解析」


「はい」


「各国観測網」


「はい」


「地下魔力井戸」


「はい」


「百五十年前の記録」


「はい」


「それ全部を合わせた結果」


「……はい」


「なら、一人で外したことにもならない」


 言い方は少し乱暴だが。


 正しい。


「ただ」


 ミレイアは続ける。


「外れたときに『何を無駄にしたか』は考えなさい」


「はい」


「当たったときに『何を守れたか』も」


 そこ。


 エレナは。


 少し考えた。


「比較する?」


「そういうこと」


 技術者らしい。


 いや。


 行政らしい。


 外れるのが恥ずかしいから。


 備えない。


 ではない。


 備える費用。


 備えなかった被害。


 比べる。


「分かりました」


 エレナは。


 新しい紙を取り出した。


「準備を段階に分けましょう」


「段階?」


 ノアが聞く。


「確実性が低いうちから全部動かすのではなく」


 第一段階。


 点検。


 第二段階。


 配置変更。


 第三段階。


 警戒運用。


「今は?」


「第一から第二へ上げる判断をするところです」


 その日の午前。


 国家横断会議が開かれた。


 出席。


 医療。


 農業。


 公共設備。


 通信。


 軍。


 交通。


 物流。


 財政。


 外務。


 そして。


 国家魔導技師長。


「まず」


 エレナは。


 机の中央へ一枚の紙を置いた。


『広域魔力低下 事前警戒準備案』


 バルクが。


 いきなり言った。


「いつ来る」


「分かりません」


「来るのか」


「それも確定ではありません」


「……それで物を動かせと?」


 当然の反応。


 エレナは頷く。


「はい」


「何を根拠に」


「複数国の周期変動です」


「確率は」


「数字として出せません」


「困るな」


 バルクは頭を掻いた。


「物流屋は『たぶん』で馬車を百台動かすと、その百台分、別の仕事が止まる」


「分かっています」


「本当に?」


「だから」


 エレナは。


 すぐ次の資料を出した。


「優先度をつけました」


 医療。


 独立魔石。


 治癒瓶。


 水道。


 通信。


 種苗。


 主要作物。


 冷蔵。


「全部ではありません」


「どのくらい?」


「医療備蓄は地方拠点へ二割前倒し」


「二割」


「水道用予備魔石は不足都市だけ」


「農業」


「マティアスさん」


 そこで。


 エレナは。


 自分で答えなかった。


 マティアスが引き取る。


「全農地は守らん」


「どこを」


 バルク。


「種苗区画。収量上位。凍結耐性の弱い作物。地域ごとに三段階」


「輸送量は」


「農業側で算出済み」


 紙。


 出る。


 バルク。


 目を通す。


「……これなら馬車十八台」


「はい」


「百よりましだ」


 少し。


 会議の空気が。


 進む。


「医療」


 アメリアが言う。


「治癒瓶を全部地方へ回すのはしない。大都市でも事故は起こるから」


「では?」


「中央備蓄の三割を、高危険地域へ分散」


「高危険?」


「自然魔力依存の治療設備が多い地方」


「なるほど」


「それと」


 アメリアは少し険しい顔をする。


「治癒魔導師の勤務表を変える」


「勤務表?」


 エレナ。


「前にも言ったでしょう。瓶があっても、充填する人が潰れたら終わり」


「はい」


「今のうちに休ませる」


 それ。


 エレナは。


 少し。


 胸に刺さる。


「今のうちに休ませる」


 大事。


 災害が来てから。


 休め。


 では遅い。


「通信」


 ノア。


「全中継所、予備周波数確認。最低限警報モードへの切替訓練を今夜実施します」


「回線停止?」


「一部、五分ずつ」


「民間影響」


「事前告知」


「了解」


「公共設備」


 グレゴールが言う。


「古い揚水場から順に、手動切替をもう一度やらせる」


「前回やったのでは?」


 財政官。


「一度やったから二度目はいらん、で事故が減るなら楽だ」


「人件費が」


「水が止まるより安い」


「数字を」


「出す」


 グレゴールは。


 エレナより。


 財政官との交渉に慣れてきている。


「軍」


 ハロルド。


「輸送支援部隊を待機。出動はまだしない」


「国防は?」


「削らん」


「当然」


「ただし、災害輸送へ回せる馬車と飛行騎獣を事前指定する」


「人員は」


「休ませる」


 また。


 それ。


 エレナは。


 小さく。


 頷いた。


「交通」


 ユルゲン。


 腕を組んだまま。


「こっちは少し面白い話がある」


「面白い?」


 エレナが聞く。


「魔導軌道の実証線」


「まだ完成してませんよね」


「全線はな」


 首都郊外から。


 北方物流拠点へ向けて。


 二十キロ。


 実証路線。


「今」


 ユルゲンが図面を広げる。


「十一キロまで敷設済み」


「十一?」


「貨物なら」


 少し。


 口元が上がる。


「使える」


 バルクが身を乗り出す。


「どのくらい運べる」


「安全確認済み区間だけ。一往復二十トン前後」


「馬車何台分だ」


「積み方によるが、十数台」


「今使える?」


「工事車両としてなら」


「正式営業前だぞ」


 財政官。


「だから営業じゃない」


「事故が」


「試験速度で走らせる」


「誰が責任を」


「俺だ」


 ユルゲン。


 即答。


「ただし」


 続ける。


「人は乗せん。物だけだ」


 バルクが。


 少し考える。


「魔石」


「運べる」


「治癒瓶」


「割れ物だから専用箱」


「食料」


「冷蔵車はまだない」


「なら乾物」


「いける」


 エレナは。


 少し。


 胸が熱くなった。


 魔導列車。


 まだ。


 完成していない。


 でも。


 今。


 少し。


 役に立てる。


「動力核は?」


 ユルゲンがエレナを見る。


「前回の三段制御」


「はい」


「試験車一両なら問題ない」


「高魔力対策」


 そこ。


 エレナの顔が変わる。


「過剰魔力遮断核」


「間に合う?」


「第一型なら」


「積める?」


「載せられます」


「じゃあ載せる」


「ただ」


 エレナ。


「走行中の誤作動は」


「試験する」


「今日?」


「今日」


 ユルゲンが。


 少し笑う。


「こういうときのために試験線がある」


 午後。


 最初の災害対応貨物試験。


 十一キロ。


 貨物。


 予備魔石。


 空の治癒瓶容器。


 乾燥食料の重量代替箱。


 人は。


 運転要員と安全技師だけ。


 速度。


 通常想定の半分。


 エレナは。


 現地へ行かなかった。


 研究院。


 動力核監視だけ。


「本当に行かないんですね」


 リナが言う。


「行きたいです」


「でしょうね」


「でもユルゲンさんの仕事です」


「偉い」


「もうそれ慣れました」


 通信。


 開始。


『出発』


 五分。


『速度安定』


 八分。


『動力核正常』


 十二分。


『遮断核異常なし』


 十八分。


『中間地点通過』


 二十七分。


『終点到着』


 バルクから。


 すぐ。


『荷崩れなし』


 エレナは。


 小さく。


 拳を握った。


「使える」


 十一キロ。


 だけ。


 世界規模の問題から見れば。


 小さい。


 でも。


 馬車十数台分。


 それを。


 一度に。


「これは」


 エレナが言う。


「かなり大きいですね」


 リナ。


 笑う。


「十一キロですけど?」


「今は」


「はい」


「十一キロあれば十分です」


 完全でなくても。


 途中でも。


 使える。


 昔のエレナなら。


 完成してから。


 と思ったかもしれない。


 でも。


 今は。


 役に立つところから。


 使う。


 夕方。


 第一段階の準備。


 始動。


 地方治療院へ。


 治癒瓶。


 独立魔石。


 農村へ。


 蓄熱材。


 予備石。


 都市揚水場へ。


 切替訓練。


 通信塔へ。


 予備核。


 軍。


 輸送指定。


 魔導軌道。


 限定運用。


 そして。


 帝都では。


 一般市民へ。


 短い告知。


『広域魔力変動の前兆とみられる観測値を確認しています』


『大規模異常が発生することは確定していません』


『生活必需品・魔石の過剰購入は避けてください』


『各家庭は照明用魔石、飲料水、常備薬など、通常の数日分を確認してください』


 それだけ。


 煽らない。


 隠さない。


 夜。


 当然。


 新聞は騒いだ。


『三日以内に魔力消失?』


『政府、非常備蓄移送開始』


『百五十年前の再来か』


 エレナは。


 一枚目で。


 新聞を閉じた。


「見ないんですか?」


 リナ。


「内容が増えてません」


「賢明です」


「でも」


 少し。


 不安。


「外れたら」


 口に出る。


 リナ。


 エレナを見る。


「怒られます?」


「たぶん」


「誰に?」


「新聞」


「それはいつもでは?」


「……そうですね」


「魔石を少し早く運んだ」


「はい」


「訓練した」


「はい」


「治癒瓶を地方へ置いた」


「はい」


「人を休ませた」


「はい」


「それで異常が来なかったら」


 リナ。


 少し笑う。


「よかった、では?」


 エレナは。


 その言葉を。


 少し。


 考える。


「そうですね」


「もちろんお金はかかりますけど」


「そこは財政官に怒られます」


「怒られてください」


「簡単に言いますね」


「技師長なので」


「便利に使わないでください」


 笑えた。


 少し。


 その夜。


 宮殿。


 国家警戒会議。


 クロムウェル。


「予測」


 紙。


 見る。


「二日から五日」


「はい」


「一番可能性が高いのは」


「三日前後」


「確率」


「出せません」


「外れる可能性」


「十分あります」


「それでも」


「第二段階準備まで進めたいです」


 クロムウェル。


 少し。


 沈黙。


「費用は」


 財政官が答える。


「初期配置だけなら、国家予備費で対応可能。ただし全土警戒運用を数日続けると負担が大きい」


「経済」


「一部物流遅延。市場魔石価格、すでに上昇傾向」


「買い占め」


「抑制命令準備中」


 クロムウェルは。


 エレナを見る。


「技術的には?」


「何もしない選択もあります」


「うん」


「でも」


 エレナは。


 自分の前の資料を。


 見ずに。


 言う。


「外れた場合の損失は、主に輸送・点検・人員配置です」


「はい」


「当たって準備しなかった場合」


 水。


 医療。


 畑。


 通信。


「失うものが大きすぎます」


 クロムウェル。


 静か。


「なら」


「はい」


「備える」


 決定。


「ただし」


 続く。


「国民には」


「はい」


「『必ず来る』とは言わない」


「もちろんです」


「外れても」


 クロムウェル。


 少し。


 目を細める。


「責任逃れの言い訳はするな」


「しません」


「逆に」


「はい」


「外れたからといって」


 視線。


 まっすぐ。


「準備したことを恥じるな」


 エレナは。


 少しだけ。


 息を止める。


「……はい」


 それ。


 必要だった。


「予測は」


 クロムウェル。


「未来を当てる遊びではない」


「はい」


「次の判断を早くするために使う」


 エレナ。


 頷く。


「覚えておきます」


 翌日。


 一日目。


 何も起きない。


 周期変動。


 継続。


 小さい。


 二日目。


 まだ。


 大きな低下なし。


 新聞。


 少し。


 論調。


『空振りか』


『政府過剰反応?』


 財政官。


 眉間。


 深い。


「まだ二日です」


 エレナが言う。


「分かってます」


「怒ってます?」


「新聞に」


「よかった」


「あなたにも少し」


「どうして?」


「追加予算表が増えた」


「すみません」


「謝るくらいなら次は書式を揃えてください」


 そこ。


 エレナは。


 本気で反省。


「はい」


 二日目夕方。


 治癒瓶。


 地方配置完了率。


 八七パーセント。


 農業。


 種苗保護。


 九一。


 水道。


 高危険都市。


 切替訓練。


 完了。


 通信。


 全中継所。


 予備周波数。


 確認。


 軌道。


 物資輸送。


 二往復。


 三日目。


 朝。


 普通。


 昼。


 普通。


 エレナは。


 少し。


 肩の力を抜きかけた。


「外れますかね」


 リナ。


「それなら」


「いい?」


「はい」


「財政官には怒られる」


「それは別」


 二人。


 少し笑う。


 午後四時。


 ノア。


 通信室から。


 呼ぶ。


「主任」


 声。


 違う。


 エレナ。


 すぐ。


 立つ。


「何です?」


「帝国北部」


 紙。


 受け取る。


 平常比。


 マイナス三。


「注意域未満」


「はい」


「でも」


 次。


 カルディア。


 マイナス二・八。


 エルグラン。


 地下井戸。


 マイナス三・一。


「同期」


「ほぼ」


 エレナの胸。


 早くなる。


「時刻差」


「最大十一分」


「続けて」


「もう観測強化」


 午後五時。


 帝国北部。


 マイナス四・七。


 カルディア。


 マイナス四・三。


 エルグラン。


 マイナス四・九。


 午後五時二十八分。


 帝国。


 マイナス五・二。


 注意域。


 国際共通符号。


『大気魔力低下』


 一斉。


 各国。


 発信。


 エレナは。


 通信室の窓を見る。


 帝都。


 まだ。


 明るい。


 街灯は。


 これから。


 点く時間。


 水も。


 出る。


 病院も。


 動く。


 畑も。


 まだ。


 凍っていない。


 でも。


 今度は。


 誰も。


 何も知らずに。


 夜を迎えるわけではない。


「医療」


「準備済み」


 リナ。


「農業」


「準備済み」


「水道」


「準備済み」


「通信」


 ノア。


「最低限モード移行待機」


「軍」


「輸送待機」


「軌道」


「物資列車、積載済み」


 エレナは。


 数字を見る。


 怖い。


 もちろん。


 でも。


 前回とは。


 違う。


「六時」


 ノア。


「北部、マイナス七・一」


 落ち始めている。


 本当に。


 予測が。


 当たった。


 その事実を。


 喜ぶ気には。


 なれなかった。


 でも。


 備えたことだけは。


 よかった。


 エレナは。


 国際通信卓の前へ立つ。


「第二段階から第三段階へ」


「警戒運用?」


「はい」


「全参加国?」


「共通基準到達国から」


「了解」


 符号。


 送る。


『広域魔力低下を確認』


『事前警戒計画を発動』


 そして。


 各国から。


 一つずつ。


 受信確認。


 カルディア。


 エルグラン。


 故国。


 ローディア。


 東方諸国。


 続く。


 百五十年前。


 人々は。


 暗くなってから。


 何が起きたのかを考えた。


 今は。


 違う。


 魔石は。


 すでに運ばれている。


 治癒瓶は。


 地方にある。


 水道技師は。


 切替場所を知っている。


 農家は。


 守る畑を決めている。


 通信員は。


 最低限符号を覚えている。


 そして。


 魔力が。


 さらに下がる前に。


 世界中の技師たちが。


 もう。


 仕事を始めていた。

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