第1話 いつもの朝?
天原暁継は自宅のベッドでまだ眠っていた。窓から差し込む淡い朝の光が、部屋の中を静かに照らしている。
突然、枕元に置かれていた目覚まし時計が鳴り始めた。時刻はすでに午前七時二十分。
暁継は布団の中から手を伸ばし、何度か目覚まし時計を叩いて、ようやく音を止めた。
もう朝か?
暁継はベッドに体を預けたまま、もう一度眠ろうとする。
疲れたな。あと五分くらいなら、大丈夫かな。
そう思った直後、暁継はハッとした。
遅刻する……それだけはまずい。
布団を払いのける。目の下には薄い隈ができていた。昨夜、あまり眠れていなかったことが見て取れる。
暁継はドアへ向かい、ゆっくりと開けた。
もう一歩踏み出そうとした、そのときだった。妹の天原栞が、ちょうど目の前を通り過ぎていった。
暁継は片手を上げ、小さく笑って声をかける。
「おはよう、栞」
栞は目を細め、横目で暁継を見る。
「おはよう」
けれど、その声にいつものような親しさはなかった。言葉を交わすことすら面倒だと言わんばかりに、栞はそのまま階段へ向かって歩いていく。
暁継は何も言わずに栞の背中を見つめていたが、やがてその笑顔が消え、瞳の奥に隠れていた悲しみが浮かんだ。
やっぱり……今も俺に怒ってるんだ。
そして、暁継も同じ方向へ歩き始める。
この家族の状況は、正直好きじゃない。でも、栞がこうしている理由は分かる。
母の香織は、すでにキッチンで二人の朝食を準備していた。そこへ入ってきた栞をすぐに見つける。
「あら、おはよう、栞」
「おはよう、お母さん」
栞のすぐ後ろから、暁継も目をこすりながら入ってきた。
「おはよう……」
香織は暁継にも挨拶を返そうと振り向いたが、その目の下にある隈に気づいた。
目を見開く。
「暁継? ちゃんと眠れたの? ずいぶん疲れてるように見えるけど」
暁継は首を横に振った。
「はは、大丈夫だよ。昨日の夜、勉強してたんだ。来週には試験があるし、落とすわけにはいかないから」
「無理しすぎちゃだめよ。私にとっては、成績よりあなたの体のほうが大事なんだから」
暁継は小さく頷き、そのまま洗面所へ向かって歩いていく。
けれど今度は、その顔から笑みが消えていた。
自分の体を大事にしてって言うけど、母さんだって同じだろ。俺たちのためにちゃんとした生活をさせようとして、父さんに置いていかれてからずっと無理をして働いてる。
暁継が洗面所へ着くと、栞はすでにそこで歯を磨いていた。だが、暁継の姿を見た瞬間、少しでも一緒にいる時間を減らそうとするかのように、急に歯ブラシを動かす速度を速めた。
「栞、そんなに急いだら口を傷つけるぞ」
栞は暁継を無視し、素早く口をゆすぐと、そのまま洗面所を出ていった。
暁継はそんな栞を見送り、疲れたように小さく息を吐いた。それからゆっくりと自分の顔を見つめ、目を上げて、どれほど疲れた顔をしているのかを確かめる。
十日くらい寝てないみたいな顔してるな。でも、これくらいは俺がやらないと。
暁継はそのまま歯を磨き続けた。
俺が合格した私立の学校に通うために相模原へ引っ越してきて、もう半年になる。その間、家の経済状況はあまり良くならなかった。そのせいで母さんには大きな負担がかかっている。それが理由で、栞は今も俺を避け続けている。栞は、この状況の責任が俺にあると思ってる。
ようやく歯磨きを終え、口をゆすいだ暁継は、鏡を見つめた。
正直、栞を責めるつもりはない。俺が栞の立場だったとしても、きっと同じように思う。だからこそ、俺は責任を取るって決めたんだ。
暁継は制服に着替えると、朝食のためにテーブルへ向かった。そして席に座り、食事を始める。
香織は、二人ではとても食べきれないほどの朝食を用意していた。
「二人とも、冷める前に食べなさい」
暁継は香織のほうを向く。
「でも、これ多すぎるよ。俺たちだけじゃ全部食べられないと思う。こんなに用意しなくてもよかったのに」
香織は微笑んだ。
「最近、二人ともちゃんと食べてないでしょう? だから、もっと食べて元気をつけてもらおうと思ったの」
「でも母さん、まだ体調が悪いんだろ。ちゃんと休まないと。朝食くらい、俺が作ればよかったのに」
「もう、心配しないの。私はそんなに弱くないわよ」
暁継は小さくため息をついた。だが、何か言おうとしたその前に、栞がテーブルから目を離さないまま、苛立ったような声で口を開いた。
「誰かさんがここに連れてきたりしなかったら、お母さんが病気になることもなかったかもしれないのに」
香織はすぐに栞へ振り向いた。
「栞!」
「何? 間違ったこと言った? 私は本当のことを言っただけ」
栞は暁継を指差した。
「お兄ちゃんは、お母さんの体を心配してるみたいな顔してるけど、今お母さんに起きてることの原因は全部お兄ちゃんでしょ! お兄ちゃんのくだらない学校のために、これ以上お母さんを苦しませながらここにいる必要なんてないじゃん。前に住んでたところに戻ればいい。そうすれば、全部元通りになるんだから」
「栞、お願い。もうやめなさい」
栞はとうとう立ち上がった。
「もうお腹いっぱい。行くから」
二人を待つこともなく、栞は鞄を手に取ると、そのまま歩き出した。
香織は栞の後を追い、玄関へ向かって引き止めようとする。
「栞、待って!」
けれど、栞はすでに家を出てしまっていた。
香織は閉じられた玄関のドアを悲しそうに見つめた。両手を強く握りしめ、その顔には深い悲しみと悔しさが浮かんでいる。けれど、それは栞に向けたものではなかった。家族を一つに保つことができない自分自身への悲しみだった。
香織は小さく息を吐くと、無理に笑顔を作り、振り返ってテーブルへ戻っていった。
暁継はまだ席に座っていた。さっきの出来事があってから、食事には一切手をつけず、ただテーブルを見つめている。
香織はすぐにその様子に気づき、暁継のそばへ近づいた。
「やっぱり、まだ怒ってるのね。でも、もうこんなことが起きないように、私も頑張るから」
香織は暁継の肩に手を置いた。
「そんなに気にしなくていいのよ。私から栞と話しておくから。ほら、今はちゃんと食べなさい」
そう言って香織は振り返り、数歩離れていく。
そのとき、突然、暁継の顎が強く引き締まった。
「いや、母さん」
「え?」
「栞の言う通りだよ。俺に怒るのは当然だと思う」
香織は暁継のほうへ振り返り、安心させるように微笑んだ。
「そんなこと言わないの。きっと栞も――」
しかし、香織が言い終える前に、暁継は立ち上がり、彼女のほうを向いた。
「母さん、またそうやってる。全部一人で抱え込んで、何もなかったみたいにしようとしてる。こんなことを続けてたら、いつまで経っても何も変わらないよ」
暁継はさらに一歩前へ出て、拳を握りしめた。
「母さん、この半年ずっと休みなく働いてるだろ。体調が悪くても、怪我をしてても。一日だって仕事を休んでない。俺たちが必要だけど買えないものがあったら、無理してでも買って、その分もっと働いて、俺たちの生活を維持しようとしてる」
香織は手を上げ、止めようとする。
「暁継、お願い。もうやめて」
けれど、暁継は止まらなかった。
「止められないよ。母さんだって分かってるだろ。この半年だけで、仕事中に疲労で倒れたのが四回もある。それに今日だって、俺たちが何度も頼んで休んでって言わなかったら、仕事に行ってたんだろ」
暁継は悲しそうな目で香織を見つめた。
「俺たちの健康が大事だって言うけど、母さんだって同じくらい大事だよ。栞が母さんのことで部屋で泣いてるところ、俺は何度も見てる。それに昨日、母さんが病院で寝てたときだって、栞は何も言わなかった。母さんに心配をかけたくなかったんだと思う。だからお願いだから、もうそんなに無理しないでよ。俺たちにも、たまには頼ってよ。俺たちだって手伝える――」
突然、暁継が気づくよりも早く、香織はすでに彼の身体を両腕で包み込んでいた。強く抱きしめる。
「暁継……ごめんなさい。二人にこんなに心配をかけてたのね。私が考えていたのは、あなたたちに普通の子供時代を過ごしてほしいってことだけだったの。ほかの子たちと同じような生活をして、何かが足りないなんて思わずに済むようにしてあげたかったのよ」
香織は暁継の頭に手を置き、優しく微笑んだ。
「でも、もう大丈夫。これからは、あなたたち二人を泣かせたり、私のことで心配させたりなんてしないから。だから、安心してね?」
暁継は目を見開いた。香織の言葉が、心の奥深くに何かを響かせたようだった。これまで抱えていた心配も、悲しみも、罪悪感も、その瞬間だけはすべて消えていくように感じられた。
暁継も香織を強く抱きしめ返した。
「ありがとう……」
「二人が帰ってきたら、私から栞と話しておくわ。それから、二人の好きな料理を作ってあげる」
そう言って、香織は笑顔を浮かべたまま暁継から離れた。
「それじゃあ、今はちゃんと食べなさい。学校で頑張るには、ちゃんと元気をつけないとね」
「うん、分かった」
家の中には、再びいつもの空気が戻り、暁継は朝食を食べ始めた。
それからしばらくして、鞄を持った暁継は玄関の前に立った。
「行ってくる」
「うん。気をつけてね」
暁継は玄関のドアを開けて外へ出た。だが、先ほどまで晴れていた空に、突然、黒い雲が集まり始めた。
「ん? 雨、降るのかな?」
暁継がそう言った直後、雨が降り始めた。最初は弱かったが、次第に勢いを増していく。
暁継は家の中へ戻り、香織も外の天気を見ながら後ろからやってきた。
「雨が降ってるの? 変ね。今日は晴れるって天気予報では言ってたのに」
「うん。でも、天気予報だってたまには外れるんじゃないかな」
香織は傘を持って戻ってくると、暁継に手渡した。
「はい、これ持っていきなさい。気をつけてね」
「うん、ありがとう」
突然、家の外から声が聞こえてきた。
「暁継!」
暁継が声のしたほうを振り向くと、そこには傘を手にしたクラスメイトで友人の海斗が立っていた。
「ああ、海斗か。今行く」
「早く来いよ。めちゃくちゃ面白いもの見せたいんだ」
しかし、出ていこうとした暁継は、もう一度母親のほうを振り返った。
「母さん、医者から言われた薬、ちゃんと忘れずに飲んでよ」
「分かってるわ。心配しないで。ほら、早く行きなさい。友達が待ってるんでしょう?」
暁継は小さく笑って頷くと、傘を開き、海斗のもとへ向かって歩き始めた。
もしかしたら、これで全部元通りになるのかもしれない。




