熟練の操艦技術、ただし画面の九割は猫①
「おい相棒! 最後の認証コードの、この妙にうねった文字は何だ!? 大文字のアイか、それとも小文字のエルか!いや、俺の知らんマイナー言語か!?」
「艦長、落ち着いてください。それは単なる記号です。全銀河の知的生命体に等しく精神的苦痛を与えるために開発された、悪名高き画像認証システムです。残り時間、あと一分を切りました」
「おのれ運営、戦闘配信の前にこんな罠を仕掛けておきやがって……!」
旧式小型駆逐艦《コタツ丸》の艦橋には、退役軍人のおっさんが上げる悲鳴と、緊急事態を告げる警告音がけたたましく響き渡っていた。
ガイウスは灰色の髪をかきむしり、無精ひげの浮いた顔に冷や汗をにじませながら、コンソールへと猛烈な勢いで指を走らせていた。歴戦の傷跡が残る強面が、今は締切間際のペナルティという見えない敵を前に、かつてないほど引きつっている。
彼がここまで必死になる理由は、銀河最大級の公式戦闘イベント『ギャラクシー・コロシアム』の無断キャンセルペナルティにあった。
「一ヶ月間の配信権限完全凍結」および「物質変換システム強制ロック」。
これが発動すれば、量子決済で得たスパチャをナノマテリアルに変換し、艦内の設備を維持することが不可能になる。つまり、五匹の愛猫たちの現在の主食である『銀河の咆哮・マグロ仕立て』の配給が止まり、あの極上の眠りを提供するホログラム温熱ベッドの電源が落ちることを意味していた。
それだけは、何としてでも阻止せねばならない。
「ラムダ、次の画面に移った! 次はなんだ!」
青白いホログラムとして投影された中性的な人工知能ラムダが、淡々とした、しかし平時よりわずかに早口の音声でナビゲートする。
「次は『私はロボットではありません』のチェックボックスです。艦長、合理的に考えてあなたは生身の退役軍人ですので、自信を持って叩いてください。残り二十秒」
「これだな! よし、パスワード入力画面が出た! ええい、大文字小文字の混在が面倒くさい!」
「残り十秒。九、八、七……」
「打った! エンターキーを、全力を込めて装甲ごと叩き割る勢いで押したぞ!」
画面に『エントリー完了。健闘を祈る』という、緊張感のまるでないファンファーレの音とともに緑色の文字が躍り出た。
ガイウスは机に両手をつき、肺の空気をすべて吐き出すように盛大なため息をついた。
「間に、合ったか……」
「お見事です、艦長。残り時間は数秒でした。戦場での精密射撃を思わせる、見事な滑り込みです。これで猫たちの高級キャットフードの供給ラインは死守されました」
ラムダもまた、ホログラムの胸元を撫で下ろすような仕草を見せる。二人の間に、極限の修羅場を潜り抜けた者同士にしか分からない、奇妙な連帯感と達成感が漂った。
だが、銀河最大級の公式イベントは、参加者に息をつく暇など一切与えてはくれなかった。
『――エントリーを確認。これより予選第壱ブロックへ強制転送を開始します――』
「待て、今なんと言っ――」
ガイウスの言葉が途切れるよりも早く、コンソールの全画面が真っ赤に染まった。
《コタツ丸》の艦体が、空間ごと激しく歪むような感覚に包まれる。直後、網膜を焼き尽くさんばかりの純白の光線が艦橋を支配した。次元跳躍とも異なる、空間そのものを無理やり書き換えるような圧倒的な質量移動。
光が収まったとき、フロントモニターに映し出されていたのは、先ほどまでの穏やかな中継星系の景色ではなかった。
不気味に赤黒く輝く巨星の周囲を、無数の小惑星や巨大な戦艦の残骸が埋め尽くす、禍々しいデブリ帯。そして、その遙か彼方まで、同じように強制転送されてきたであろう数千、数万の戦闘艦の光点が、星の数ほどひしめき合っている。
さらに、艦橋の自動配信システムが、主人の意思を完全に無視して高らかにチャイムを鳴らした。
『配信開始。LIVE中継中』
「うそだろおい。エントリーした瞬間、心の準備もなしに開幕かよ」
ガイウスは呆然とモニターを見つめ、完全に置いてきぼりにされた表情で呟いた。退役軍人としての警戒心よりも、おっさんとしての疲労感と諦めが勝った瞬間だった。
「仕様です、艦長」
ラムダが、いつも通りの乾いたトーンで告げる。
「ギャラクシー・コロシアムの予選は、エントリー締め切りと同時に全自動で開始されるシステムとなっております。そして、すでに当チャンネルの配信がスタートした模様です。大手企業とのタイアップでサーバーを物理爆破した直後ということもあり、待機していた視聴者が一気になだれ込んできています」
コンソールの片隅に表示された同時接続者数のカウンターが、まるで見当違いの数値を叩き出すメーターのように、恐ろしい速度で跳ね上がり始めていた。
『@古参勢:おい始まったぞ! 画面がまだ真っ暗だと思ったらもう戦場かよ!』
『@戦術ニキ:これがギャラクシー・コロシアムの予選空間か。背景のデブリの密度が狂ってるな』
『@猫博士:それより画面の端! 画面の端を見てください! 猫ちゃんたちがまだ寝てます!』
『@アンチ:おいおっさん、今回はガチの大会だぞ! いつものゆるい配信じゃねえんだから気合入れろ!』
コメント欄の濁流を横目に、ガイウスはシートに深く腰掛け、首の骨をポキリと鳴らした。
「気合を入れろと言われてもな。俺はただ、ペナルティを避けたかっただけなんだが……」
「諦めてください、艦長。すでに数億人の目が、このオンボロ駆逐艦……失礼、魔改造された超弩級スペックの猫専用リノベーション済み戦艦に注がれています。猫たちの安眠のためにも、派手に生き残りましょう」
「……分かったよ、相棒。いつも通り、安全第一でいくぞ」
ガイウスは操縦桿を握り直し、苦笑いを浮かべながら、目の前に広がる混沌たる銀河の戦場へと視線を向けた。




