第9話 最凶公爵令嬢は、呼び出されても屈しない
翌朝、王立アルディオン学園の空気はいつも以上にざわついていた。
理由は明白だった。
前日、訓練場の見学席でセレスティア・ヴァン・グランフェルへ声をかけた上級生の存在が、一部で早くも話題になっていたのだ。二年騎士科のレオン・ハルヴェイン。実力者として知られる上級生が、わざわざ一年の、それも入学したばかりの公爵令嬢に接触した。
それだけで噂には十分だった。
もっとも、セレスティア本人にとってはどうでもよかった。
朝の回廊を歩きながら、彼女の意識はすでに今日の講義予定へ向いている。午前は政治学と貴族法制論、その後に魔術理論。午後は学科別の自由選択補講だ。
「お嬢様」
「何かしら」
後ろに控えるルークが、いつも通り静かな声で告げる。
「本日は朝から視線が多うございます」
「増えたわね」
「昨日の件が広がったものかと」
「そうでしょうね」
「お気になさいますか」
「まさか」
セレスティアは廊下の先を見たまま答える。
「勝手に見ているだけでしょう」
「左様でございます」
教室に入ると、その視線の意味はより露骨だった。
話し声は途切れない。だが、セレスティアが入った瞬間に一度だけ揺れる。見ているのに、見ていないふりをする空気。昨日までの警戒に、別種の興味が混ざり始めていた。
イザベラ・フォン・クロイツは、すでに自席で令嬢たちと話していた。
笑顔は相変わらず美しい。だが、その視線が一度だけこちらを掠めた時、そこにあったのは単なる敵意ではなかった。
観察。
そして計算。
学級の外からもセレスティアが見られ始めていることを、彼女もまた理解しているのだ。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
短い挨拶だけを交わす。
それ以上は何もない。だが、それだけで十分だった。
講義が始まる前、担任のセルウィンが教室に入ってくる。いつもどおり穏やかな顔で名簿を机に置き、一通りの連絡を済ませる。
そして最後に、何でもないことのように言った。
「なお、グランフェル嬢」
「何でしょう」
「二限終了後、第一応接室へ来なさい。王族補佐官より話が通っている」
教室の空気が止まった。
一瞬、本当に音が消えたようだった。
セレスティアは表情を変えない。
「王族補佐官から?」
「そうだ」
「理由は」
「聞いていない。少なくとも私はな」
セルウィンは淡々としていた。だが、それがかえって事実の重さを際立たせる。
王族補佐官。つまりこれは私的な呼び出しではない。王族側の正式な意思が、学園側を通じて伝えられたということだ。
ざわめきが遅れて戻ってくる。
「王族から……?」
「まさか、殿下が……」
「昨日までの件よね、やっぱり」
「何を言われるのかしら……」
イザベラは何も言わない。
ただ静かに、前を向いていた。
だがその横顔には、ごく僅かな緊張があった。呼び出しの中身までは分からない。だが、これでまた一つ、セレスティアが学級の外へ引き上げられることになる。それを良しと見るか、危険と見るか、彼女もまだ判断していないのだろう。
「以上だ」
セルウィンはそれ以上触れず、講義を始めた。
政治学の内容自体はいつもどおりだった。王権と大貴族の均衡、中央集権と地方統治の摩擦、軍権と財政の相互依存。だが、今日の教室では誰も講義だけに集中していない。
セレスティアだけが、ほとんど普段どおりだった。
彼女にとって重要なのは、呼び出されたという事実ではなく、そこで何を言われるかだ。理由の分からない段階で無駄に揺れるほど暇ではない。
やがて一限が終わり、二限も終わる。
休憩に入った瞬間、教室内の視線が一斉にセレスティアへ向いた。
露骨で、そして少し息を潜めている。誰もがその後を見たいのだ。何が起きるのか。どこへ行くのか。誰が出てくるのか。
セレスティアは鞄を持たずに立ち上がった。
「ルーク」
「はい、お嬢様」
「第一応接室は」
「本棟一階、中央階段西側でございます」
「案内は不要よ」
「承知しております」
ルークはすでに分かっていたように一礼した。
「ですが、同行は」
「当然でしょう」
その一言で、周囲の何人かがまた息を呑む。
護衛騎士を連れて行くつもりなのか。あるいは王族側がそれを許すのか。そうした戸惑いが空気に出ていた。
セレスティアは気にせず教室を出る。
廊下へ出ると、ルークが半歩後ろに付いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「先方が単独を求める可能性もございます」
「その時に判断するわ」
「かしこまりました」
「ただし」
セレスティアは歩きながら続ける。
「王族補佐官からの呼び出しだからといって、最初から条件を呑むつもりはないわ」
「ええ」
「見るべきは、何を求めているかよ」
「左様でございます」
第一応接室は、本棟中央部の目立つ場所にあった。
重厚な扉の前には学園所属ではない侍従風の男が一人立っている。制服の意匠が違う。おそらく王族補佐官付きの人間だろう。
「セレスティア・ヴァン・グランフェル嬢でいらっしゃいますね」
「ええ」
「お待ちしておりました」
男の視線がルークへ流れる。
「そちらの方は」
「護衛騎士よ」
「申し訳ございませんが、中はお一人で」
「断るわ」
即答だった。
男の表情が一瞬だけ固まる。
「……失礼ですが、本日は王族関係者との面談でして」
「存じているわ」
「であれば」
「なおさらよ」
セレスティアは静かに相手を見る。
「内容が不明な呼び出しに、私が単独で応じる合理的理由はないわ」
男は返答に詰まった。
まさか扉の前でそう切り返されるとは思っていなかったのだろう。だが、ここで強く押し返せば騒ぎになる。場所が場所だけに、余計な混乱は避けたいはずだ。
「少々お待ちいただけますか」
「どうぞ」
男は一礼し、扉の内側へ入っていく。
ルークが低く言った。
「お嬢様」
「何」
「少々、強めでいらっしゃいましたね」
「当然でしょう」
「王族側の使者でございます」
「だから何?」
セレスティアは紅の瞳をまっすぐ扉へ向けたまま答える。
「使者だからといって、こちらの条件を最初から下げる理由にはならないわ」
「……さすがでございます」
「褒めていないでしょう」
「畏れながら、半分ほどは」
そのわずかなやり取りの後、扉が再び開いた。
「どうぞ、お二人とも」
男の態度が少しだけ変わっていた。
つまり中の人物が許可したのだ。
室内は上質だった。学園の応接室というより、小さな王宮の接見室に近い。深い青の絨毯、重厚な机、控えめだが高価な調度。窓際には一人の青年が立っていた。
アルフレッド・レオンハルト第一王子。
やはりそうか、とセレスティアは思う。
王族補佐官という言い回しの時点で、候補は限られていた。しかもタイミングを考えれば、入学式で直接言葉を交わした彼以外に考えにくい。
「来てくれて感謝する、セレスティア・ヴァン・グランフェル」
「ごきげんよう、アルフレッド殿下」
セレスティアは礼をする。
必要十分な角度。媚びないが、欠けてもいない。
ルークも騎士礼を取る。
アルフレッドはその一礼を受けてから、視線をルークへ向けた。
「護衛騎士も同席か」
「ご不満かしら」
「いや」
アルフレッドは少しだけ口元を緩めた。
「君がそう出ることは予想していた」
「でしたら話は早いわ」
「そうだな」
彼は椅子を勧めた。
「座ってくれ」
セレスティアは座る。ルークはその斜め後ろへ控えた。応接室内に奇妙な緊張が満ちる。ここは王族の呼び出しの場であるはずなのに、空気の主導権が一方に寄っていない。
アルフレッドは正面に座り、余計な前置きを置かなかった。
「呼んだ理由は二つある」
「どうぞ」
「一つは確認だ。入学式の日、君はあの場で本当に王家の権威そのものを否定したのではないな?」
直球だった。
セレスティアは即答する。
「ええ」
「なら、何を否定した」
「権威を笠に着て、自分の虚栄のために使う愚かさをよ」
アルフレッドの青い瞳が、じっとセレスティアを見つめる。
「王家そのものではなく、王家を私物化するような振る舞いを、か」
「ええ」
「そして王家の品位を汚すとまで言った」
「事実だったもの」
ルークは無言で控えている。
この場で感情的な言葉は一つもない。だが、だからこそ重い。
アルフレッドは一つ息を吐く。
「君は本当に、言葉を飾らないな」
「必要がないもの」
「必要だと考える者もいる」
「存じているわ」
「それでも変えない」
「ええ」
数秒の沈黙。
だがその沈黙は険悪ではなかった。むしろ、互いの輪郭を再確認しているような静けさだ。
「分かった」
アルフレッドはそこで一度頷いた。
「少なくとも、あの日の件について誤解は解けた」
「それは結構」
「ただし」
彼の声が少しだけ低くなる。
「その言い方は今後も波紋を呼ぶ」
「でしょうね」
「分かった上で続けるつもりか」
「必要なら」
やはり即答だった。
アルフレッドは少しだけ目を伏せ、苦笑とも取れる息を漏らした。
「二つ目の理由は、もっと単純だ」
「何かしら」
「君自身に興味がある」
室内の空気がわずかに変わる。
ルークの視線がほんの少しだけ鋭くなったのを、セレスティアは感じた。
「ずいぶん率直なのね、殿下」
「君に回りくどい言い方は無意味だろう」
「そうかもしれないわ」
アルフレッドは真っ直ぐに言う。
「学級内での振る舞いも、魔術も、剣も報告を受けている。噂ではなく事実として、君は規格外だ」
「光栄ですわ」
「褒めているだけではない」
「知っているわ」
「君のような人間が学園にいる以上、いずれ多くの者が君へ接触する。味方にしたい者、試したい者、潰したい者。すでに動き始めている者もいるだろう」
レオンの言葉と似ている、とセレスティアは思った。
ただし、こちらはより大きな立場から見ている。
「それで?」
「君は、その全てを受けるつもりか」
「必要なら」
「孤立する可能性もある」
「構わないわ」
「敵が増える」
「それも承知の上よ」
アルフレッドは黙る。
そして次に口を開いた時、その声音は最初より少しだけ柔らかかった。
「本当に、退かないんだな」
「何度も同じことを言わせるの?」
「確認したいだけだ」
「そう」
セレスティアはわずかに顎を上げる。
「では、こちらも確認するわ」
「何だ」
「殿下は、私を止めるために呼んだの?」
アルフレッドは即答しなかった。
その沈黙自体が答えの一部だった。
「……半分はそうだ」
「正直ね」
「残り半分は、知っておきたかった」
「何を」
「君が、ただの危険人物なのか。それとも」
「それとも?」
「危険だが、筋の通った人間なのかを」
セレスティアはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
悪くない問いだと思った。
「それで、どう判断したのかしら」
「まだ決めていない」
「賢明ね」
「ただ一つだけ分かった」
「何?」
アルフレッドは静かに言った。
「君は、脅しでは動かない」
「当然でしょう」
「交渉なら?」
「内容次第ね」
その返答に、アルフレッドは初めてはっきりと笑った。
声を立てるような笑いではない。だが、それまでの硬さがほんの少し緩んだ。
「そこまで言うなら、いずれまともに話す機会を持ちたい」
「今日では足りないの?」
「今日はまだ、互いに様子見が多い」
「そうかもしれないわ」
「学園内で、王族と公爵令嬢が公に長く話すのは面倒だ。だがいずれ、必要になる」
セレスティアは少しだけ考え、それから頷いた。
「必要があれば応じるわ」
「断らないのか」
「あなたは少なくとも、空気で押してくるタイプではなさそうだもの」
アルフレッドの目がわずかに細くなる。
「比較対象がいるような言い方だな」
「ええ」
「クロイツ嬢か?」
「殿下、ご自身で言うのね」
「君は否定しないだろう」
「しないわ」
数秒の沈黙の後、アルフレッドは席を立った。
「今日はもういい。呼び止めて悪かった」
「いえ」
「一つだけ忠告しておく」
「どうぞ」
「学園は狭い。だが、狭いからこそ噂は武器になる。君はそこを軽く見ない方がいい」
「軽くは見ていないわ」
「ならいい」
セレスティアも立ち上がる。
この面談で得たものは少なくない。少なくともアルフレッドは、ただの秩序主義者ではない。押し込めるだけでなく、見て判断しようとする頭がある。
それだけで、話す価値はあった。
「では、失礼いたしますわ」
「ああ」
ルークも一礼する。
扉の前まで来た時、アルフレッドがふいに言った。
「グランフェル嬢」
セレスティアは振り返る。
「何かしら」
「君は面倒だな」
セレスティアはほんの少しだけ笑った。
「今さらでしょう?」
アルフレッドもまた、わずかに口元を上げた。
「違いない」
応接室を出ると、廊下の空気が妙に軽く感じられた。
ルークが並ぶ。
「お嬢様」
「何」
「殿下は、思ったより理性的でいらっしゃいました」
「ええ」
「そして、お嬢様も思ったより会話なさっておられました」
「失礼ね」
「事実でございます」
セレスティアは前を向いたまま言う。
「価値がある相手なら話すわ」
「では、殿下には」
「今のところは、少しだけ」
その言葉に、ルークは静かに一礼する。
教室へ戻れば、また視線が集まるだろう。何を言われたのか。叱責されたのか。取り込まれたのか。誰もが勝手に想像する。
だが、それはもうどうでもよかった。
最凶公爵令嬢は、呼び出されても屈しない。
王族を前にしても、最初から条件を下げない。
それでも会話は成立する。
その事実は、やがてまた別の波紋を広げるだろう。
イザベラはどう見るか。
セルウィンは何を読むか。
レオンはどう面白がるか。
学園の空気は、また一つ変わる。
そして次に動くのは、
“善意の顔をした包囲”を得意とする者ではなく、
もっと分かりやすく、
もっと若く、
もっと感情で動く相手だった。




