第8話 最凶公爵令嬢は、外から見られる
放課後の訓練場には、独特の熱があった。
授業としての基礎訓練が終わった後も、希望者や所属学科ごとの補助訓練が続いているためだ。木剣の打ち合う乾いた音、号令、足音、時折上がる短い歓声。それらが高い天井に反響し、場の空気を濃くしていた。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、その熱気の中にあっても静かだった。
見学席の一角。壁際寄りの、人の流れがあまり正面を横切らない位置。そこに腰を下ろし、下の訓練場を眺めている。
ただ見ているだけではない。
誰の重心が甘いか。誰が見栄えだけで振っているか。誰が実戦を知らず、誰が知っているか。剣筋と足運び、間合いの取り方を見れば、その程度はだいたい分かる。
「お嬢様」
「何かしら」
少し後ろに控えたルークが声を落とす。
「本日は、見学だけでお戻りになりますか」
「そのつもりよ」
「実際に混ざられた方が、早いのではと存じますが」
「混ざれば余計なものも寄ってくるわ」
「すでに十分寄ってきているようにも見えます」
「だからこそよ」
セレスティアは視線を下の訓練場へ向けたまま答える。
「今はまだ、見る方が価値があるわ」
ルークはそれ以上言わなかった。
主の判断は正しい。訓練場は剣を学ぶ場所であると同時に、人間関係が最も露骨に出る場所でもある。誰が誰を見ているか。誰が誰と組みたがるか。誰が避けられているか。そういうものが剥き出しになる。
セレスティアにとっては、剣技の観察と同じくらい、人間の観察にも価値があった。
その時だった。
「隣、よろしいでしょうか」
男の声がした。
低く、落ち着いている。必要以上に馴れ馴れしくはないが、遠慮だけでもない声音。
セレスティアが視線を上げると、そこに立っていたのは見知らぬ男子生徒だった。
年齢は一つか二つ上。濃い紺色の上着は一年のものより仕立てがわずかに違い、胸元には銀糸で二本線の学年章が入っている。上級生だ。
黒に近い茶髪を後ろへ流し、灰色の瞳は静かだがよく見ている。整った顔立ちだが、華やかというよりは研ぎ澄まされている印象の方が強い。
剣を扱う人間の立ち方だった。
ルークが一歩だけ前へ出る気配を見せる。
だが、相手はそれ以上近づかず、適切な距離で止まった。
「お嬢様」
「ええ」
セレスティアはルークを制し、相手を見る。
「お名前は」
「失礼しました」
男子生徒は軽く一礼した。
「レオン・ハルヴェイン。二年騎士科です」
ハルヴェイン。
どこかで聞いた家名だと、セレスティアは即座に記憶を探る。王都近辺ではなく、西方の辺境伯家に連なる名だったはずだ。軍務寄りで、騎士団にも人を多く出している家系。
「何か用かしら、ハルヴェイン先輩」
「用、というほどでは」
レオンはわずかに口元を緩めた。
「ただ、興味がありまして」
「私に?」
「ええ」
率直だった。
だが不快ではない。探るというより、最初からそれを認めている言い方だからだ。
「昨日と今日、少し拝見していました」
「見られるのは慣れているわ」
「そうでしょうね」
レオンは視線を訓練場へ流す。
「バーミリオン子爵令息との打ち合いも」
「それで?」
「なるほど、と思いました」
「何が」
「噂だけではなかったことと、噂よりずっと静かだったことです」
セレスティアはほんの少しだけ目を細めた。
面白い言い方をする男だ。
多くは“強かった”とか“容赦がなかった”とか、そういう単純な言葉で済ませる。だがこの男は、強さそのものより質を見ている。
「静か、ね」
「ええ。力でねじ伏せるのではなく、最初から終わりが見えている人の剣でした」
ルークの視線がわずかに鋭くなる。
見ている。
この男は、ちゃんと見ている。
「褒め言葉かしら」
「事実を述べているだけです」
その返しに、セレスティアはごく僅かに口元を上げた。
「そう。なら、こちらも事実を言うわ」
「どうぞ」
「あなたも、それなりにできるのでしょう」
レオンの眉がわずかに動く。
「立ち方で分かるわ」
「光栄です」
「喜ぶのね」
「見る目のある方に言われるのは、悪い気がしませんので」
言い方に嫌味がない。
社交の磨かれた柔らかさとは違うが、荒くもない。必要な分だけ言葉を選び、余計な飾りを乗せないタイプだ。
イザベラとは真逆だと、セレスティアは思った。
「それで、先輩は何を知りたいのかしら」
遠回りは不要だと示すように言うと、レオンは頷いた。
「二つあります」
「どうぞ」
「一つ。あなたは本当に、誰の後ろ盾も当てにせず動いているのか」
ルークの空気が少しだけ冷える。
無礼とまでは言えないが、踏み込んだ問いではある。
だがセレスティアは動じなかった。
「当てにしていないわ」
「グランフェル公爵家の名も?」
「家名は私の一部よ。でも、寄りかかるための杖ではない」
レオンは黙ってその言葉を受け取る。
試すようでも、値踏みするようでもない。ただ、答えをどう咀嚼するか考えている沈黙だった。
「もう一つは?」
「あなたは敵を作るのを恐れていないのか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
視線を再び訓練場へ落とす。下では二年の生徒同士が木剣を打ち合わせていた。片方は力みすぎていて、片方は受けに回りすぎている。
「恐れていない、というより」
数秒後、セレスティアは口を開く。
「必要なら受けるだけよ」
「嫌われることも?」
「ええ」
「孤立も?」
「場合によるけれど、困らないわ」
「不利益も?」
「もちろん」
レオンはそこで小さく息を吐いた。
「なるほど」
「納得した?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「本当にそういう人間がいるのか、まだ判断しきれていません」
正直な男だ。
気に入るかどうかは別として、その率直さ自体は悪くない。
「では、見ていればいいわ」
セレスティアは淡々と言う。
「そのうち嫌でも分かるでしょう」
レオンは数秒、セレスティアを見つめ、それから笑った。
声を立てずに笑う顔だった。
「たしかに」
「それだけ?」
「いえ、もう一つだけ」
「まだあるの」
「ええ」
彼は少しだけ真面目な顔に戻った。
「忠告です」
その言葉に、セレスティアではなくルークの方が先に反応した。
「内容によります」
静かな声だったが、間違いなく護衛の声だ。
レオンはルークへ一度だけ視線を向け、それからすぐセレスティアに戻す。
「この訓練場は、実力を見る場所でもありますが、それ以上に“誰が誰を見るか”の場所です」
「知っているわ」
「あなたは今、学級の中だけではなく、上級生からも見られ始めている」
「そうでしょうね」
「良くも悪くも」
「続けて」
レオンは頷いた。
「下手に敵を作ると面倒なのは一年の中だけでは済みません。とくに騎士科や武門の家の人間は、言葉より先に別の形で測りたがる」
「模擬戦?」
「それもあります」
「面白いわね」
「面白がっている場合ではないかもしれません」
そう言いながらも、レオンの顔にはどこか苦笑めいたものがある。たぶん彼自身、その手の人間をよく知っているのだろう。
「私に怯えて忠告しているのかしら」
「まさか」
即答だった。
「むしろ逆です」
「逆?」
「あなたはたぶん、そういうものを苦にしない」
「ええ」
「だから厄介なんです」
セレスティアは少しだけ笑った。
それは愉快そうというより、納得した時の笑みだった。
「あなた、少し面白いわね」
「それは光栄です」
「口癖?」
「便利な言葉ですので」
イザベラならもっと滑らかに言うだろう。アルフレッドなら皮肉の温度を上げるだろう。だがこのレオンという男は、本当に必要な範囲でしか整えない。
その雑味のなさは、むしろ剣士らしかった。
「先輩」
「はい」
「あなたは敵ではなさそうだけれど、味方でもなさそうね」
レオンはわずかに目を見開き、それから静かに笑う。
「今のところは、その認識で間違っていません」
「そう」
「ただ」
「何かしら」
「面白いものは見ていたい性分でして」
その言葉に、ルークの視線がわずかに細くなる。
面白いもの。つまり観察対象と言っているようなものだ。無礼ではないが、警戒すべき言い回しではある。
だがセレスティアは気にしない。
「好きにすればいいわ」
「そうさせていただきます」
レオンは一礼した。
「長居をしました。失礼します」
「ええ」
「またお話しする機会があれば」
「必要があればね」
「厳しい」
「今さらでしょう」
レオンは口元にわずかな笑みを残したまま、見学席の通路を去っていく。
足音は軽く、しかし乱れがない。ああいう歩き方をする人間は、総じて間合い感覚がいい。
セレスティアがその背を見送っていると、ルークが低く口を開いた。
「お嬢様」
「何」
「上級生でございますね」
「見れば分かるわ」
「かなり見ている方かと」
「ええ」
「いかがご覧になりますか」
セレスティアは少しだけ考えた。
「悪くないわね」
「と申しますと」
「少なくとも、空気で押す人間ではないわ」
「クロイツ嬢とは別種、と」
「ええ。あちらは場を整えて相手を動かすタイプ。こちらは見て、測って、自分の基準で判断するタイプ」
「どちらがお嫌いではありませんか」
「今のところは、どちらも嫌いではないわ」
ルークが少しだけ意外そうな沈黙を挟む。
「珍しいですね」
「そう?」
「お嬢様が初対面の相手を、そのように保留なさるのは」
「だって、まだ何もしていないもの」
セレスティアは訓練場へ視線を戻した。
「本当に見るべきは、その先でしょう」
「たしかに」
下の訓練場では、今度は二年騎士科の上級生同士が模擬戦めいた打ち合いを始めていた。先ほどより速度も重さもある。見学席のあちこちで、小さなどよめきが起きる。
レオンの姿はすでに別の場所へ移っていたが、彼がただの見物人ではないことは明らかだった。
学級の外。
学年の外。
そうしたところからも、セレスティア・ヴァン・グランフェルという存在は見られ始めている。
それは、ただ噂になっているというだけではない。
値踏みされ、興味を持たれ、必要なら近づかれ、あるいは試されるということだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「先ほどの忠告、どうなさいますか」
「別に何もしないわ」
「さようでございますか」
「でも」
セレスティアはゆっくり立ち上がった。
「学級の中だけで完結しないのは都合がいいわね」
「都合がよろしいのですか?」
「ええ。中だけの話だと、どうしても見える世界が狭いもの」
彼女は見学席の手すりに軽く手を置く。
「外から来る人間の方が、時々まともな目をしていることがあるでしょう」
その言葉に、ルークは静かに一礼した。
「承知いたしました」
訓練場の空気は熱い。
だがその熱の中で、セレスティアは妙に冷静だった。
イザベラのように学級の空気を操る者。
アルフレッドのように秩序を背負う者。
セルウィンのように全体を見て測る者。
そしてレオンのように、外から見て判断する者。
少しずつ駒が増えていく。
誰が味方になるか。
誰が敵になるか。
あるいは、どちらにもならないまま関わってくるか。
それはまだ分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
最凶公爵令嬢は、もう学級の中だけに収まる存在ではなくなりつつある。
彼女が何かを求めて動いているわけではない。
それでも周囲が勝手に見て、勝手に寄ってくる。
それは災厄と呼ばれる者の宿命に近かった。
そして翌日。
その“外からの視線”が、初めて別の形でセレスティアの前に現れる。
今度は見学席ではなく、
正式な名目を持った、
王族からの呼び出しという形で。




