第7話 最凶公爵令嬢は、招かれても従わない
翌日の昼前、一年一組の空気はどこか不自然に整っていた。
誰かが露骨に騒いでいるわけではない。だが、あちこちの視線の流れが妙に揃っている。話しかける者、話しかけない者、距離を測る者、興味を隠さない者。そのすべてが、ある一点を意識して動いているようだった。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、そのことに気づいていた。
気づいた上で、気にしていなかった。
朝の講義は王国史だった。建国王と建国功臣、大貴族の成立過程、地方統治の変遷。多くの生徒にとっては眠気を誘う内容だったが、セレスティアにはそれなりに価値があった。
歴史は、今の権力構造を正当化するための物語でもある。
どの家がどう飾られ、どの家がどう書かれないか。その偏りを見るだけでも講義を聞く意味はあった。
そして今は、二限と三限の間の短い休憩時間。
教室内には軽いざわめきがある。だがそのざわめきの中心には、いつもどおりイザベラ・フォン・クロイツがいた。
蜂蜜色の髪を美しく整え、柔らかな笑みを浮かべながら、数人の令嬢たちと穏やかに言葉を交わしている。誰かが話題を出し、誰かが笑い、イザベラが場を整える。その流れは自然だが、自然に見せるために相応の技術がある。
セレスティアは窓際の席に座り、その様子を視界の端で捉えながら、本を閉じた。
「お嬢様」
教室外の廊下で待機していたルークが、扉の外から控えめに声をかける。
「何かしら」
「昼食の件でございます」
「ええ」
「本日は中庭の東屋ではなく、本棟北側の温室前を押さえております」
「随分と先回りがいいのね」
「昨日の東屋は、少々人目が集まりすぎました」
「それもそうね」
ルークの配慮は正しい。
昨日の接触で、東屋は“セレスティアが昼を取る場所”として一部に認識されてしまった可能性が高い。ならば場所を変えるのは合理的だ。
セレスティアが立ち上がろうとした、その時だった。
「グランフェル様」
柔らかな声がかかる。
振り返ると、イザベラがこちらへ歩いてきていた。今日は取り巻きを引き連れていない。だが、だからこそ周囲の目が集まる。
教室内の会話が不自然に薄くなる。
また何かが起きる、と誰もが察しているのだ。
「何かしら、クロイツ嬢」
「少しだけ、お時間をいただけます?」
「内容によるわ」
「その返答も、もう慣れてしまいそうですわ」
イザベラは微笑む。
だが今日は、笑みの奥にいつも以上の慎重さが見えた。前回までのように空気で包み込むのではなく、最初から距離を測った上で踏み込んできている。
「率直に申し上げますわ」
「どうぞ」
「本日のお昼、よろしければご一緒しませんこと?」
教室の空気がぴたりと止まった。
数人の令嬢が、思わず視線を上げる。令息たちも露骨に耳をそばだてるほどではないが、明らかに意識をこちらへ向けていた。
またしても招待。
だが前回とは形が違う。
取り巻きの前での包囲ではなく、まずは本人が直接来た。そして場所は教室内。周囲の目がある。断れば目立つ。受ければ場ができる。
つまりこれは、より洗練されたやり方だった。
セレスティアはそれを理解した上で、淡々と尋ねる。
「どなたと?」
「わたくしと、それから数名ほどですわ」
「数名」
「ええ。同じ学級の方々ですの。皆、グランフェル様ときちんとお話ししてみたいと仰っていて」
「それはずいぶん便利な言い方ね」
「便利、ですか?」
「あなたが主催しているのに、“皆が望んでいる”形にするのだから」
イザベラの笑みが、ほんの僅かに薄くなる。
だが、すぐに元へ戻した。
「完全には否定できませんわね」
「でしょうね」
「ですが、意図があることと悪意があることは別ですわ」
「たしかに」
セレスティアはそこで少しだけ首を傾げた。
「それで。私が応じると、本気で思ったの?」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「断られるなら断られるで、それもまた一つの答えですもの」
なるほど、とセレスティアは内心でだけ思う。
ここで断られれば、“グランフェル公爵令嬢は学級との交流を拒んだ”という事実が残る。受ければ受けたで、イザベラが用意した場に乗ることになる。
どちらに転んでも、向こうには収穫がある。
よく考えている。
「悪くないわね」
セレスティアがそう言うと、イザベラの瞳に一瞬だけ色が灯った。
「では――」
「でも、断るわ」
即断だった。
教室のあちこちで、息を呑む音がする。
イザベラでさえ、今度は本当に一拍遅れた。
「……理由を伺っても?」
「あなたが作った場だから」
「それだけで?」
「十分でしょう」
セレスティアはまっすぐにイザベラを見る。
「私は、最初から座る席も、流れる話題も、周囲の反応も、だいたい見えている場へわざわざ行く趣味はないの」
「わたくしが何か企んでいると?」
「企みがあるかどうかは別にしても、主導権はあなたにあるでしょう」
「それは、招いた側なのですから当然ではなくて?」
「ええ。だから行かないの」
理屈が通りすぎていて、反論の糸口がない。
周囲の生徒たちも、そのやり取りを固唾を呑んで見守っていた。ここで感情的になった方が負ける。そういう空気がすでに出来上がっている。
イザベラは少しだけ視線を伏せ、また持ち上げた。
「では、もし場所を変えれば応じてくださるの?」
「内容によるわ」
「厳しいのですね」
「当然でしょう」
セレスティアの声は静かだ。
「私は、誰かの好意らしきものに乗るために生きているわけではないもの」
「……ずいぶんと、人を信用なさらないのですね」
「信用はするわ」
「本当に?」
「価値があるなら」
その言葉に、周囲の空気がまたひりつく。
信用しないのではない。価値があるなら信用する。つまり今の時点で、まだそこに達していないと言われているのと同じだった。
イザベラはじっとセレスティアを見つめる。
その目にはもう、単なる社交の笑顔だけではないものが混じっていた。苛立ち、というほど露骨ではない。だが、確実に「思いどおりにならない相手」への認識が深まっている。
「グランフェル様」
「何かしら」
「一つだけ申し上げても?」
「どうぞ」
「わたくし、あなたのことを排除したいわけではありませんの」
「でしょうね」
「なら、なぜいつもそのように突き放されるのか、少しだけ不思議ですわ」
その言葉は、一見すると随分柔らかい。
だが実際には巧妙だった。
“こちらは歩み寄っているのに、あなたが拒絶している”
という構図を、この場で作ろうとしている。
善意の顔をした圧力。
セルウィンが言っていた通りだと、セレスティアは思った。
「別に、突き放してはいないわ」
「では?」
「選んでいるだけよ」
一言で空気が変わる。
「私が誰と話すか。誰の場に入るか。誰の作った流れに乗るか。それを私が選んでいるだけ」
セレスティアは一歩だけイザベラに近づいた。
「それを拒絶だと感じるなら、あなたはきっと、自分の差し出すものは受け取られて当然だと思っているのね」
教室の空気が凍りつく。
あまりにも静かで、あまりにも正確な刺し方だった。
イザベラの笑みが、その瞬間だけ消える。
ほんの一瞬だが、消えた。
それを見逃した者は少ない。
「……手厳しいですわね」
「率直なだけよ」
「そうですわね」
イザベラは小さく息をついた。
しかし、それでも崩れない。さすがに強い。
「では今日は諦めますわ」
「賢明ね」
「ですが、いつか必ずご一緒していただきます」
「その自信はどこから?」
「そうしたくなる理由を、わたくしがご用意すればよろしいのでしょう?」
少しだけ、色が変わった。
これは空気で包む誘いではない。
明確な宣言だ。
イザベラもまた、方法を修正してきている。
セレスティアはそれを受けて、初めてごく僅かに口元を上げた。
「面白いことを言うのね」
「光栄ですわ」
「期待はしないでおくわ」
「なさってくださらなくて結構です」
そこまで言って、イザベラは優雅に一礼した。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「ええ」
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう」
イザベラは踵を返す。
その背を見送りながら、教室のあちこちで抑えたざわめきが戻り始めた。
「今の聞いた……?」
「クロイツ様が、あんなふうに言い負かされるなんて」
「でも最後、完全に退いたわけじゃなかった」
「どっちも怖いのよ……」
セレスティアはそれらを聞き流し、鞄を持った。
扉の外へ出ると、ルークが静かに歩調を合わせる。
「お嬢様」
「何」
「随分と分かりやすいお誘いでございました」
「ええ」
「お断りになることは予想しておりましたが」
「当然でしょう」
「ただ」
ルークは少しだけ声を落とした。
「先方も、少しずつ変えてこられております」
「ええ。ようやく、空気だけでは無理だと理解し始めたのよ」
「次は条件を変え、理由を変え、別の札を切るかと」
「でしょうね」
セレスティアは廊下を進みながら、淡々と続ける。
「でも悪くないわ」
「と申しますと」
「最初から思考を放棄して、取り巻きだけで押してくる相手より、ちゃんと手を変えてくる方が面白いもの」
ルークは少しだけ目を細めた。
「お嬢様にとっては、でございますね」
「そうよ」
「一般的には、それを厄介と申します」
「知っているわ」
二人はそのまま本棟北側へ向かう。
外へ出ると、温室前の一角は確かに人通りが少なかった。ガラス張りの温室の中では色とりどりの花が咲き、柔らかな光が芝へ落ちている。昨日の東屋よりは視線も切れる。
ルークが手早く昼食の用意を整える。
白布、小さな籠、果実水、焼いたパン、薄切り肉と野菜。今日も無駄がない。
「有能ね」
「恐れ入ります」
セレスティアは椅子に腰を下ろし、果実水を一口だけ飲んだ。
頭の中では、先ほどのやり取りをすでに整理し終えている。
イザベラは退かない。
むしろ、断られることまで計算に入れ始めた。
つまり次は、もっと直接的な利か、あるいはもっと断りにくい名分を用意してくる。
例えば教師、例えば王子、例えば学級全体の名目。
どれもあり得る。
「お嬢様」
「何」
「本日の件、どのようにご覧になりますか」
ルークの問いに、セレスティアは少しだけ空を見た。
「そうね」
春の光は穏やかだ。
温室のガラスに反射した光が揺れ、その向こうで花々が揺らいでいる。
「ようやく、“私を動かす側”に回ろうとしてきたわね」
「ええ」
「昨日までは、私を囲って、空気で押して、枠に収めようとしていた。でも今日は違った。私が何で動くかを探りに来た」
「より厄介になった、と」
「ええ」
セレスティアはパンを一口ちぎる。
「だから少しだけ、面白くなったわ」
その返答に、ルークは静かに一礼した。
「では、引き続き警戒を」
「お願い」
遠くで鐘が鳴る。昼休みの残り時間を告げる音だ。
王立アルディオン学園の空気は、今日も穏やかそうな顔をしている。だが、その穏やかさの内側で、確実に線は引き直されていた。
イザベラは、セレスティアを排除できないと理解し始めた。
セレスティアは、イザベラが方法を変え始めたと見ている。
周囲の生徒たちは、その応酬をただ見ているだけではいられなくなりつつある。
最凶公爵令嬢は、招かれても従わない。
だが、それは孤立を意味しない。
誰の場にも乗らない代わりに、
誰かが自分を動かしたいなら、それに足る理由を持ってこいと突きつけているだけだ。
それは貴族社会ではあまりに不遜で、
同時にあまりに強い態度だった。
そして、その態度に最初に別の意味で興味を持つ者が現れるのは、
そう遠くない。
放課後、訓練場の見学席で、
セレスティアは初めて“学級の外”から声をかけられることになる。




