第6話 最凶公爵令嬢は、剣を隠さない
翌朝の王立アルディオン学園は、前日よりもいくぶん早いざわめきに満ちていた。
初日を終えたことで、生徒たちはこの場所の空気を多少なりとも掴み始めている。どの教師が厳しいか。どの令嬢が人脈を持つか。どの令息が虚勢だけで、どの生徒が油断ならないか。
そして何より、グランフェル公爵令嬢が本当に噂どおり危険な存在であることを、ほとんどの者が理解していた。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、そんな視線の変化を気にも留めずに歩いていた。
朝の光が差す回廊。磨かれた石床に、自身の足音だけが静かに返る。今日の講義予定はすでに頭に入っている。座学の後、午後には武芸系統の合同基礎訓練がある。
学科を越えて一年生の一部が集められ、基礎体力、身体操作、木剣での型確認などを行うらしい。
名目は基礎確認。
実態は、どの家の子がどの程度やれるかを見る場でもあるだろう。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日の午後、武芸基礎訓練でございます」
「知っているわ」
「木剣使用とのことですが」
「ええ」
「お加減は、なさいますか」
ルークの問いは短いが意味は明確だった。
本気でやれば目立つ。抑えれば侮られる。その加減をどうするか。
セレスティアは正面を見たまま答える。
「無様は晒さない程度に」
「承知いたしました」
「ただし、舐めた真似をされれば別よ」
「左様でございますね」
ルークはそれ以上言わなかった。
主の基準は分かりやすい。必要以上には見せない。だが、踏み込まれれば容赦しない。
そのまま午前の座学を終え、昼を挟み、午後。
武芸系統の訓練場は本棟から少し離れた場所にあった。屋内の広い木床張りの空間で、壁沿いには木剣や訓練用の槍、体術用の防具まで整然と並べられている。
天井は高く、声がよく響く。すでに何十人もの生徒が集まり、男女混合で整列しつつあった。
貴族子弟にとって武芸は必須ではない。だが、上位貴族や武門の家なら話は別だ。とくに王国北方の防衛を担うような家柄であれば、令嬢であろうと剣の扱いくらい当然に仕込まれる。
セレスティアが訓練場へ入った瞬間、ざわめきが一段だけ静まった。
「グランフェル様……」
「今日は剣だろ」
「魔術だけじゃなく、本当にできるのかしら」
「北方領で実地って言ってたものね……」
囁きは小さい。だが隠す気も薄い。
セレスティアは気にせず、指定された列へ向かう。
そこにはすでにイザベラの姿もあった。彼女は武芸向きという印象ではないが、姿勢は美しく、無駄な緊張も見せていない。剣そのものは不得手でも、立ち振る舞いで劣らないよう整えてきているのが分かる。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
朝と変わらぬ柔らかな挨拶。
だがその間にある空気は、昨日よりはるかに硬い。
今日の訓練を、彼女もまた一つの観測機会と見ているのだろう。
そこへ、訓練担当の教師が現れた。
長身の男で、年齢は三十代後半ほど。日に焼けた肌と短く刈った髪、そして軍人のような癖のない立ち姿。名をガレス・ドレイクという。元騎士団所属だという話が、すでに何人かの口から漏れていた。
「整列」
一声で空気が締まる。
声量はそこまで大きくない。だが逆らえない圧がある。場数を踏んだ人間の声だ。
「本日は基礎確認だ。だが、手を抜くな。ここで見るのは才能ではない。基礎、癖、覚悟、その三つだ」
ガレスの視線が一列ずつ流れる。
「貴族だろうと平民だろうと関係ない。剣を持つ以上、立てない者は立てるようになれ。立てる者は、他人を見下す暇があるならもっと詰めろ」
その言い方に、セレスティアはわずかに目を細めた。
嫌いではない。
少なくとも、家名を過剰に気にする類の教師ではなさそうだった。
訓練は、まず木剣を用いた基礎の型から始まった。
構え、重心移動、踏み込み、打ち込み。単純な動きの反復。だが単純だからこそ、訓練経験の差が露骨に出る。
子爵家の令息が腕力だけで振り回し、伯爵令嬢が型だけ綺麗に見せて重心が死ぬ。別の男爵家の子弟は、逆に粗いが踏み込みは悪くない。
ガレスは淡々と見て回り、ときに短く修正を入れていった。
「腕で振るな。腰で運べ」
「目線が落ちている」
「遅い。考えるな、体に通せ」
そして当然、周囲の関心はまたもセレスティアへ向かっていた。
彼女は列の中で、目立とうともせず、しかし一つ一つの動きを正確にこなしていた。
構えは低すぎず高すぎず、重心は静かに落ち、踏み込みに無駄がない。木剣は軽々と振っているように見えるのに、止め際まできっちり制御されている。
派手ではない。
だが、見る者が見れば分かる。
あれは基礎を繰り返した体だ。
しかも、形だけではない。
イザベラが横目でそれを見ている。周囲の令息たちの空気も変わった。昨日までの「本当にできるのか」から、「どこまでできるのか」へ。
「次、二人一組」
ガレスの声が響く。
「軽い打ち合いでいい。力は要らん。間合いと反応を見る」
ざわ、と空気が動く。
組み合わせはその場で教師が決めていく方式らしい。体格や経験差を見ながら、極端に危険な組み合わせを避ける意図があるのだろう。
数組が指名され、訓練場の中央へ出る。
軽い打ち合い。だが、ここでも性格は出る。遠慮しすぎる者、見栄を張る者、怯える者、無駄に攻め急ぐ者。
ガレスはそれを見ながら、短く名を呼んだ。
「次、バーミリオン」
前に出たのは、入学式でノアへ絡んでいたオズワルド・バーミリオンだ。
子爵家の令息。外見は整っているが、目つきにはまだ未熟な尖りがある。
「相手は――グランフェル」
空気が凍った。
訓練場のあちこちで小さく息を呑む音がする。
イザベラですら、わずかに目を細めた。
オズワルドの顔が一瞬だけこわばり、それからすぐに「望むところだ」とでも言いたげな表情に変わる。昨日の件で面目を潰された相手だ。内心では、ここで少しでも取り返したいと思っているのが見え見えだった。
セレスティアは無言で中央へ出る。
木剣を持つ手に力みはない。
向かい合うと、オズワルドが低く言った。
「ずいぶんと都合のいい組み合わせだな」
「そう?」
「昨日の分、少しは返せるかもしれない」
「返す、ね」
セレスティアは木剣を軽く構える。
「あなたにできるなら、どうぞ」
その一言で、オズワルドの頬が引きつる。
「始め」
ガレスの合図と同時に、オズワルドが踏み込んだ。
速さだけなら悪くない。貴族子弟としては鍛えている方だ。だが感情が先に出ている。肩に力が入り、狙いも読みやすすぎる。
振り下ろし。
セレスティアは半歩だけずれた。
木剣が空を切る。
返す刀で打ち込むこともできた。だが彼女はしない。ただ躱しただけだ。
オズワルドが歯を食いしばり、横薙ぎに切り替える。
それも浅い。
セレスティアは木剣で軽く受け流し、重心を崩さぬまま距離を外す。
周囲がどよめいた。
圧倒していないのに、力量差だけがはっきり分かる。相手は全力に近いのに、こちらはまだ何もしていない。
「どうしたの」
セレスティアの声は静かだった。
「返すのでしょう?」
それが決定的だった。
オズワルドの顔が赤く染まる。挑発としてはあまりにも冷たく、そして正確だ。
次の踏み込みはさらに強引だった。
打ち下ろしからの連撃。雑ではないが、焦りすぎている。もはや訓練ではなく感情の発散に近い。
セレスティアは三手続けて受け流し、四手目で木剣の軌道へ自分の剣を滑り込ませた。
乾いた音。
オズワルドの木剣が弾かれる。
次の瞬間には、セレスティアの木剣の先が、彼の喉元すれすれで止まっていた。
訓練場が静まり返る。
ほんの数秒。
だが、そこにあった差は絶望的だった。
オズワルドは動けない。喉元の木剣が一寸でも進めば終わる位置だ。しかも、その間合いへ入られたことに自分でも反応できていない。
「……そこまで」
ガレスの声で、セレスティアは木剣を引いた。
オズワルドが一歩下がる。息が乱れている。悔しさと屈辱で顔を歪めていたが、それ以上に、今の数手で何が起きたのか整理しきれていない顔だった。
「勝敗は明白だな」
ガレスは淡々と言う。
「バーミリオン。攻め急ぐな。感情が先に出すぎだ。剣筋が単調になっていた」
「……はい」
「グランフェル」
「はい」
「加減はしていたな」
「訓練ですので」
「そうだな」
ガレスの口元が、ほんの僅かに動く。
「悪くない」
それだけだった。
だが教師としては十分な評価だ。
セレスティアは元の位置へ戻る。周囲の目が、先ほどまでとは完全に違うものになっていた。
恐れ。
確信。
そして、隠しきれない高揚。
「今の見たか……?」
「全然相手になってなかった」
「というか、最初から最後まで遊ばれていたような……」
「でも全然、嫌味な勝ち方じゃなかったわ」
「嫌味じゃないのが余計に怖いのよ」
そんな囁きがあちこちで漏れる。
イザベラは無言で前を見ていた。だがその指先が、握った木剣の柄に少しだけ強く食い込んでいる。
彼女も分かったのだろう。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、魔術だけでなく剣でも本物だと。
それはつまり、社交でも、空気でも、実力でも、簡単には崩せない相手だということだ。
訓練はその後も続いた。
別の組み合わせが次々と行われ、やがて全体の基礎確認は終わる。だが今日の訓練で皆の記憶に残るのは、間違いなくセレスティアの一戦だった。
終了の号令がかかり、生徒たちが木剣を戻し始める。
セレスティアが壁際の架台へ木剣を返すと、背後からルークの声がした。
「お嬢様」
「何」
「無様は晒されませんでしたね」
「だから言ったでしょう」
「ええ」
ルークはごく僅かに目を和らげる。
「見事でございました」
「木剣相手に、見事も何もないわ」
「それでもでございます」
その時、少し離れた場所で、オズワルドを取り巻く数人の令息たちの気配が動いた。慰めるでもなく、励ますでもなく、距離を測り直している空気だ。
一度ああいう負け方をすると、貴族社会では微妙に立場が揺らぐ。
剣そのものより、見られたことが問題になるのだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日はまた一つ、学園内の評価が変わるかと」
「勝手に変わればいいわ」
「ご関心は」
「ないわね」
セレスティアは訓練場の出口へ向かいながら、淡々と続ける。
「ただ、無意味に舐められる手間が減るなら悪くないわ」
「たしかに」
「それだけよ」
外へ出ると、夕方の風が少しだけ汗ばんだ肌を冷やした。
訓練場の窓から漏れる声が遠くなる。空は薄く金色に染まり、学園全体が一日の終わりへ向かっていた。
だが、その終わりにまた新しい噂が生まれている。
グランフェル公爵令嬢は剣まで強い。
バーミリオン子爵令息を、まるで相手にしなかった。
あれは本当に、令嬢の枠に収まる存在ではない。
噂は速度を増していた。
魔術。剣。態度。言葉。
どこを切り取っても、セレスティアは貴族令嬢としてあまりに規格外だ。
だからこそ、目立つ。
だからこそ、敵も増える。
そして同時に、無視できない存在になる。
セレスティアはそれを理解している。
理解した上で、何も変える気がない。
頭を下げない。
群れない。
剣も隠さない。
そうして歩く彼女の背を、王立アルディオン学園の生徒たちは否応なく見つめることになる。
災厄は、まだ静かだ。
だが静かだからこそ、その歩みは止めづらい。
そして翌日、彼女の前にはまた別の試みが用意される。
今度は剣でも魔術でもなく、
貴族社会が最も得意とする、
“善意の顔をした招待”という形で。




