第5話 最凶公爵令嬢は、受けて立つ
放課後の王立アルディオン学園は、昼間とはまた違う顔を見せる。
講義を終えた生徒たちは、それぞれの目的に応じて散っていく。寮へ戻る者。談話室へ向かう者。中庭で余韻を楽しむ者。騎士科や武芸科の訓練場を覗きに行く者。
だが貴族子弟にとって、放課後もまた社交の延長線上にある。
誰と並んで歩くか。誰と話すか。誰を無視するか。
その一つ一つが、無言の意思表示になる。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、そのすべてに関心が薄かった。
教室を出て本棟の回廊を歩きながらも、視線はすでに先の予定へ向いている。初日のうちに学園内の主要施設くらいは把握しておきたかった。地理を知らない場所は、それだけで不利になる。
「お嬢様」
「何かしら」
「この後、寮へお戻りになる前に、訓練場をご覧になりますか」
「そのつもりよ」
「やはり」
ルークは静かに頷いた。
「騎士科の屋内訓練場、屋外演習場、魔術実習棟の位置は、ひととおり確認済みでございます」
「さすがね」
「案内は不要と仰るかもしれませんが」
「ええ、言うつもりだったわ」
「存じております」
ごく淡々と返すその調子に、セレスティアはわずかに目だけで振り返った。
「あなた、最近少しだけ言葉が巧くなった?」
「もとより未熟ではないつもりでございます」
「そう」
セレスティアはそこで小さく口元を緩めた。
主従のやり取りとしては、ごく短いものだった。だがそれだけで、二人の間にある温度差のない信頼が見える。
そのまま回廊を折れようとした時だった。
「グランフェル嬢」
聞き覚えのある、やや乾いた声が背後からかかる。
立ち止まって振り返ると、そこにいたのは担任のエドガー・セルウィンだった。銀縁眼鏡の奥の目は相変わらず穏やかそうに見えて、その実かなりよく周囲を見ている。
「セルウィン先生」
「少し時間はあるか」
「内容によります」
即答だった。
ルークが半歩だけ位置をずらす。教師相手に露骨な警戒を見せる必要はないが、主との間合いは常に管理していた。
セルウィンは苦笑にも似たものを浮かべる。
「大した話ではない。今日一日の件について、少しだけ確認しておきたくてね」
「入学初日から面倒を起こした問題児への指導かしら」
「自覚はあるのだな」
「自覚しているのは、面倒が勝手に寄ってきたことだけです」
「なるほど」
セルウィンは完全には否定しなかった。
むしろ、その返答自体を見ているようだった。
「場所を変えよう。廊下で長話をする内容でもない」
「私一人で?」
「必要なら護衛騎士も同席で構わない」
ルークがごく僅かに視線を動かした。
セレスティアは一拍だけ考え、それから頷く。
「構わないわ」
案内されたのは、本棟二階の小さな応接室だった。
華美ではないが整えられた部屋で、教師と生徒が面談するための場所らしい。窓際に丸机と椅子が置かれ、壁際には簡素な棚があるだけだ。
セルウィンは自ら扉を開け、中へ入るよう促した。
「座ってくれ」
「立ったままでもよろしいですか」
ルークが先に口を開く。
「もちろん構わない」
「では、そのように」
ルークは室内の入口近くに控えた。完全に会話を遮る位置ではなく、かといって不用意に背後を晒さない位置取り。護衛として無駄がない。
セレスティアは椅子に腰を下ろした。
セルウィンも向かいへ座り、数秒だけ沈黙を置く。
「単刀直入に聞こう、グランフェル嬢」
「どうぞ」
「君は、この学園で何をするつもりだ」
曖昧なようで、実はかなり核心に近い問いだった。
セレスティアは首を傾げる。
「学ぶために来たのでは?」
「建前ではなく、本音を聞いている」
「本音でも同じよ」
「君ほどの立場と実力なら、家庭教師と実地教育だけでも十分だったはずだ。にもかかわらず学園へ来た。理由があるだろう」
セルウィンの目は静かだった。
探りを入れているというより、確認に近い。つまり彼もまた、セレスティアがただの高慢な令嬢ではないと見ているのだ。
「知見を広げるため」
セレスティアは答える。
「王都の空気、貴族社会の縮図、王家に連なる者たちの質。家の外からでは見えにくいものもあるでしょう」
「なるほど」
「それに、学園という場所は便利よ」
「便利?」
「皆、自分はまだ学生だからと油断しているもの。本性が出やすいわ」
セルウィンはそこで初めて、はっきりと苦笑した。
「手厳しいな」
「事実でしょう」
「否定はしない」
彼は一度、指先で机を軽く叩く。
「では次だ。今朝の入学式、昼の中庭、そして最後の魔術講義。君はどの場でも引かなかった」
「引く理由がなかったから」
「その姿勢は結構だ。だが、この学園は単純な実力だけで回ってはいない」
「存じているわ」
「ならば聞くが、クロイツ嬢のような人間をどう見る」
質問の角度が変わった。
これは人物評を聞いているのではない。対処方針を測っている。
セレスティアは少しだけ視線を伏せた。
「有能ね」
セルウィンの眉がわずかに動く。
「ほう」
「空気を読むのではなく、作る側の人間だもの。笑顔を崩さず、人を使い、場を使い、自分の望む流れをつくる。ああいう手合いは珍しくないけれど、あの年齢であそこまで出来るなら十分有能よ」
「敵として評価していると?」
「敵かどうかはまだ分からないわ」
「では、味方にするつもりはあるか」
「向こう次第ね」
セレスティアはセルウィンをまっすぐ見た。
「私は、媚びてまで誰かと組む気はない。でも、相手が筋を通すなら手は組めるわ」
「筋を通す、か」
「ええ。自分の都合を“皆のため”に偽装するだけの人間は、あまり好みではないけれど」
セルウィンは眼鏡の位置を軽く直した。
完全に理解した顔ではない。だが、納得はしている。セレスティアの基準が“好き嫌い”ではなく“筋が通っているかどうか”に寄っていることを。
「君の考えは分かった」
「それで?」
「一応、教師として伝えておくべきことがある」
セルウィンの声が、わずかに低くなる。
「この学園では、明確な悪意よりも、善意の顔をした圧力の方が多い。直接刃を向けられる方がまだ楽だ」
「でしょうね」
「そして君は、そのどちらにも正面から返すタイプだ」
「ええ」
「それは時に、周囲の予想以上に波紋を広げる」
セレスティアは少しだけ微笑んだ。
「ご心配どうも」
「皮肉ではなく、本気で言っている」
「分かっているわ」
そこではじめて、セルウィンは一つ息をついた。
「ならいい。別に君へ従順であれと言いたいわけではない。ただ、君が本当に曲がらない人間なら、君自身も相応のものを受ける覚悟があるのかを確認したかった」
「あるわ」
即答だった。
迷いも、見栄もない。
「嫌われることも、孤立することも、噂を流されることも、不利益を受けることも、全部あり得るのでしょう?」
「そうだ」
「なら構わないわ」
セレスティアの紅の瞳は、静かで少しも揺れなかった。
「受けると決めた上で、引かないのだから」
室内に短い沈黙が落ちる。
ルークは無言のまま控えていたが、その口元だけがごく僅かに引き締まった。主が何を選んでも従う覚悟は当然ある。だが、それをこうして本人の口から改めて聞くと、やはり重みが違う。
セルウィンはゆっくりと頷いた。
「そうか」
「失望したかしら」
「いいや」
彼ははっきりと否定した。
「むしろ安心した。君は少なくとも、自分が何をしているのか分からないまま暴れているわけではない」
「心外ね。暴れているつもりはないわ」
「そうだろうな」
セルウィンは机の上で手を組む。
「では最後に、もう一つだけ伝えておく」
「何を」
「君はもう、見られている」
「今さらでしょう」
「生徒だけではない」
その一言で、空気が変わった。
「王家、大貴族、教師陣、上級生。今日一日で、君は十分に目立った。とくに入学式での件は、想像以上に早く広がるはずだ」
「結構なことね」
「平然としているな」
「事実なら仕方ないでしょう」
「……そうか」
セルウィンはそこで話を切り上げるように立ち上がった。
「話は以上だ。引き留めて悪かった」
「いいえ。少しは有意義だったわ」
「それは光栄だ」
セレスティアも立ち上がる。
ルークがさりげなく扉へ近づき、先に外の気配を確認してから開けた。
だが、開いたその先にいた人物を見て、彼の目がほんの一瞬だけ細くなる。
「……まあ」
廊下に立っていたのは、イザベラ・フォン・クロイツだった。
まるで偶然通りかかったかのように、教本を一冊抱えた姿でそこにいる。だがこの位置、この時間、この空気で偶然を信じるほど甘くはない。
「ごきげんよう、セルウィン先生。グランフェル様も」
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
セレスティアが淡々と返す。
セルウィンはイザベラを一瞥し、表情を崩さず言った。
「何か用か、クロイツ嬢」
「いえ、担任の先生に明日の持参物について確認しようかと思っておりましたの。でも、ちょうど面談中でしたのね」
「今終わったところだ」
「まあ、でしたらよかったですわ」
笑顔に隙はない。
だがイザベラの視線は一瞬だけ、セレスティアとセルウィンの間を測るように滑った。
教師と個別面談をしていた。何を話したのか。自分に関することか。それとも別件か。
その程度の推測は、彼女なら当然する。
「確認とは何だ」
セルウィンが聞くと、イザベラはすぐに本来の用件らしきものを口にした。内容自体は些細だった。だが半分は口実だろうと、ここにいる全員が理解している。
短いやり取りの後、セルウィンは職員室へ戻ると言ってその場を離れた。
残されたのは、セレスティア、ルーク、イザベラ。
廊下には夕方の光が斜めに差し込み、窓枠の影を長く落としている。
「先生と随分お話し込んでいらしたのですね」
先に口を開いたのはイザベラだった。
「ええ」
「差し支えなければ、どのようなお話を?」
「差し支えるわ」
即答。
イザベラはほんの僅かに目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「そうですの。無粋でしたわ」
「自覚があるなら結構ね」
「ですが、少し意外でしたの」
「何が?」
「先生方と距離を置かれる方かと思っておりましたから」
「相手によるわ」
「そうですわね」
イザベラは教本を抱え直す。
「それで、先生から何か忠告でも?」
「気になるの?」
「学級の一員としては」
「そう」
セレスティアは一歩だけ前へ出た。
「では、あなたにも教えてあげる」
イザベラの笑みがそのまま止まる。
「私は、嫌われることも、不利益を受けることも、噂を流されることも、全部承知の上で引かないの」
夕陽を受けた紅の瞳が、まっすぐイザベラを射抜く。
「だから、やるなら好きにするといいわ」
静かな声だった。
だが、その静けさがかえって重い。
「脅しですの?」
イザベラの声もまた、柔らかい。
「まさか」
セレスティアは否定する。
「宣言よ」
一瞬、空気が完全に張り詰めた。
取り繕う余地も、曖昧に笑って流す余地もない。相手は最初から、こちらが何をしてくるかある程度読んだ上で立っている。そう理解させるには十分な言葉だった。
イザベラは沈黙し、それからごく小さく微笑んだ。
「……本当に、退かれないのですね」
「ええ」
「そういう方は、嫌いではありませんわ」
「私は、あなたのそういう言い方があまり好きではないけれど」
「正直ですこと」
「知っているでしょう?」
イザベラはそこで初めて、笑みの奥にある本音を少しだけ滲ませた。
面白い。
厄介。
危険。
そして、放置はできない。
そんな複雑な感情が、彼女の瞳の奥で静かに揺れていた。
「では、本日はこれで失礼いたしますわ」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、グランフェル様」
イザベラは優雅に一礼し、今度こそ去っていく。
靴音が廊下の奥へ消えていくまで、セレスティアはただ静かに見送った。
やがてルークが低く口を開く。
「お嬢様」
「何」
「いまのは、かなり明確にお示しになりましたね」
「分からない相手でもないもの」
「それで引く方ではございません」
「知っているわ」
セレスティアは窓の外へ目を向けた。庭園の先に見える訓練場が、夕光の中で静かに沈んでいく。
「でも、曖昧にしておく方が面倒でしょう」
「たしかに」
「向こうが空気で押すなら、こちらは最初から折れないと示しておく。余計な期待を持たせない方が早いわ」
「承知いたしました」
ルークは一礼した。
その表情に迷いはない。主が受けると言うのなら、受ける。その上で必要な備えを整えるだけだ。
王立アルディオン学園の初日は、こうして終わりに近づいていた。
だがその一日の中で、すでにいくつもの線が引かれている。
第一王子アルフレッド。
侯爵令嬢イザベラ。
担任セルウィン。
そして、まだ姿を見せていない上級生や他学科の者たち。
セレスティア・ヴァン・グランフェルという存在を、彼らはそれぞれ別の角度から見始めていた。
最凶。最悪。災厄。
そう呼ばれる令嬢は、頭を下げないだけではない。
来ると分かっている不利益すら、最初から受けて立つ。
それは気高さというには鋭すぎて、傲慢というには筋が通りすぎていた。
だからこそ、周囲は戸惑う。
どう扱えばいいのか分からない。
敵にすべきか、味方にすべきか。
近づくべきか、遠ざかるべきか。
その判断がつかないまま、学園の空気だけが少しずつ変わっていく。
そしてその変化は、まだ序章に過ぎなかった。
翌日、セレスティアは初めて学園の訓練場で剣を取ることになる。
そこでまた一つ、この学園の常識は塗り替えられるのだと、
今はまだ、誰も知らない。




