第4話 最凶公爵令嬢は、譲らない
昼休みの一件は、午後のうちに一年一組のほぼ全員へ伝わった。
クロイツ侯爵令嬢が自ら歩み寄ったにもかかわらず、グランフェル公爵令嬢はそれをあっさり退けた。しかも取り巻きの令嬢たちごと、言葉だけで黙らせたらしい。
尾ひれは当然ついていた。
セレスティアがクロイツ家を侮辱しただの、昼食の誘いを鼻で笑っただの、果ては「学級の空気など知ったことではない」と言い放っただの。
最後のものだけは、概ね事実に近い。
だが事実かどうかなど、この手の話ではさほど重要ではない。重要なのは、誰がどう受け取り、どう広めるかだ。
そして今、その流れは確実にイザベラ側へ傾いていた。
放課後前の最後の講義は、基礎魔術理論だった。
広めの実習室に机が並び、前方には魔力測定用の水晶板と、簡易術式を刻んだ練習用の金属札が整然と置かれている。担当教師は四十代の女教師で、名をミレイユ・ハートウェルという。魔術師らしい鋭さを持ちながらも、無駄に感情を出さない人物だった。
「本日は実技ではなく確認だ」
彼女は教卓に立ち、淡々と告げた。
「諸君の多くは家庭教師なり家付き魔導師なりから初歩を学んできているだろう。だが、本学で扱うのは再現性と制御だ。家ごとの流儀や癖は一度脇に置け」
生徒たちが静かに耳を傾ける。
「まずは一人ずつ、基礎励起を見せてもらう」
教室の空気が少しだけ張る。
実技披露自体は珍しくない。だが初日から一人ずつ見られるとなれば、力量も癖もある程度は周囲に知られることになる。貴族子弟にとって、それは単なる授業以上の意味を持つ。
誰が優れているか。誰が見かけ倒しか。誰が将来有望か。
そうした値踏みが、また一つ増える。
ミレイユは名簿を見ながら順に指名していく。
下級貴族の令息が無難にこなし、伯爵令嬢が少し力みすぎ、別の侯爵家の子弟が見栄えだけは良い励起を見せる。どれも及第点ではあるが、決定的なものではない。
そして当然のように、周囲の意識は二人に集まっていた。
イザベラ・フォン・クロイツ。
そしてセレスティア・ヴァン・グランフェル。
「次、クロイツ嬢」
イザベラが静かに立ち上がる。
蜂蜜色の髪が揺れ、優雅な所作で前へ出る。その一挙手一投足に無駄がなく、見ている者へ「完成された令嬢」という印象を与えるのが上手い。
彼女は水晶板の前に立ち、右手を軽く掲げた。
「では、失礼いたします」
言葉まで美しい。
次の瞬間、彼女の指先から生じた淡い蒼光が、水晶板の内部に細やかな波紋を広げた。励起は安定し、光量も均整が取れている。さらに術式札の反応も乱れが少なく、基礎訓練の積み重ねがはっきり見えた。
実際、かなり上手い。
「……ふむ」
ミレイユは短く頷いた。
「制御は良好。余計な癖も少ない。見本としては十分だ」
「ありがとうございます」
イザベラは謙虚に一礼し、席へ戻る。
教室内の空気が少し和らぐ。
「さすがクロイツ様」
「綺麗……」
「無駄がないわね」
小声の賞賛が漏れる。イザベラはそれらを聞こえていないように受け流しながら、だが確実に教室の空気を自分に引き寄せていた。
やはり上手い。
魔術だけではなく、見せ方も含めて。
「次、グランフェル嬢」
今度は違う種類の緊張が走った。
セレスティアは席を立ち、前へ出る。白銀の髪が光を受けて冷ややかに輝き、紅の瞳はいつもどおり静かだった。
彼女には気負いがない。
良く見せようという意識も、失敗したくないという焦りも、一切表に出ていない。
ミレイユが水晶板を軽く示す。
「基礎励起のみでいい。余計なことはするな」
「承知しました」
セレスティアは右手を掲げた。
次の瞬間。
教室の空気そのものが、わずかに震えた。
淡い、というより澄み切った銀光が彼女の指先から立ち上がり、水晶板へ触れた途端、内部の波紋が一切の揺らぎなく同心円を描いて広がる。無駄な放出はなく、かといって出力不足でもない。
静かすぎるほど静かな制御。
にもかかわらず、そこに込められた魔力量の密度だけが異様だった。
術式札は即座に反応し、通常の励起より一段深い位相で輝いた。
誰かが小さく息を呑む。
イザベラの時は「美しい」だった。
だがセレスティアのそれは違う。
美しいのではなく、格が違う。
そんな印象を押しつけてくる。
数秒後、セレスティアはすっと手を下ろした。光は途切れ、水晶板の内部だけが余韻のように淡く輝いている。
教室が静まり返った。
ミレイユは無言で水晶板を見つめ、ついでセレスティアを見る。
「……基礎訓練はどこまで積んでいる」
「家付き魔導師よりひと通り。あとは実地で」
「実地?」
「北方領で魔獣掃討に同行した際、必要でしたので」
さらりと言う内容ではない。
数人の令息が目を丸くし、令嬢たちの間にもざわめきが広がる。
十六歳の令嬢が、魔獣掃討に同行。しかも、その過程で基礎を磨いたという。
貴族令嬢の経歴としては、あまりに物騒だった。
だがミレイユは驚かなかった。
「なるほどな」
むしろ得心したように頷く。
「制御が妙に静かだと思った。見せるためではなく、生き残るための魔術だ」
「そうかもしれません」
「余計な誇示がない。良い」
短い評価だった。
だが重い。
イザベラの時よりも、教師の声音には明確な納得があった。
セレスティアは一礼して席へ戻る。
その途中、教室の視線が先ほどとはまるで違うものに変わっているのが分かった。恐れ。驚き。警戒。そして少しの憧れ。
好ましい感情ではないが、どうでもいい。
席へ着くと、前方にいるイザベラがわずかに横顔だけでこちらを見た。
笑ってはいない。だが怒っているわけでもない。
ただ、確実に測り直していた。
昼休みの接触で分かっていたことが、今、別の形で補強されたのだ。
この女は、口だけではない。
実力でも空気を塗り替える。
それも、自分より上かもしれない。
その認識は、イザベラのような支配型の人間にとって最も厄介な情報だった。
授業はその後も続いたが、もう教室の集中力は明らかに散っていた。
誰もが、さきほどの銀光を頭のどこかで反芻している。
やがて講義が終わり、解散が告げられる。
椅子の軋む音、鞄を持ち上げる音、抑えた会話。だがセレスティアの周囲だけは、今日も不自然なほど空いていた。
「お嬢様」
外で待っていたルークが、教室の扉近くで一礼する。
「お疲れ様でございました」
「ええ」
「少々、見せすぎではありませんでしたか」
「基礎励起よ」
「それでもでございます」
ルークの声音は穏やかだったが、言いたいことははっきりしている。
実力を見せれば警戒される。隠せば侮られる。そのバランスをどう取るかは、貴族社会では常に問題になる。
だがセレスティアは迷わない。
「隠す必要を感じなかったわ」
「左様でございますか」
「基礎で嘘を混ぜる方が面倒よ」
「たしかに」
そこで不意に、前方から柔らかな声がした。
「見事でしたわ、グランフェル様」
イザベラだった。
今度は一人だ。
取り巻きもいなければ、露骨な包囲の気配もない。だが一人で来たからといって、意図が薄くなるわけではない。
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
「ごきげんよう」
イザベラは優雅に微笑む。
「先ほどの基礎励起、たいへん勉強になりましたの。あそこまで静かな制御は、わたくし初めて拝見しましたわ」
「そう」
「ご謙遜なさらないのですね」
「事実でしょう」
一切ぶれない返答に、イザベラは一瞬だけ目を細めた。
「……本当に、率直でいらっしゃるのですね」
「今さらでしょう」
「ええ、そうですわね」
イザベラは小さく笑う。
だがその笑みには、午前や昼の時よりわずかに硬さがあった。社交の笑顔を保ちつつも、腹の底では修正を始めている顔だ。
「少し、考えを改める必要がありそうですわ」
「何の」
「グランフェル様への接し方を、です」
「好きにすればいいわ」
「そういたします」
そこでイザベラは一歩だけ近づき、声を落とした。
「ただ、覚えておいてくださいませ」
「何をかしら」
「実力がある方ほど、周囲から求められるものは増えますの。孤高でいるおつもりでも、放ってはおかれませんわ」
「でしょうね」
「それでもお一人で?」
「必要があれば手は組むわ」
セレスティアは静かに返す。
「でも、媚びてまで組むつもりはないの」
イザベラはしばし無言で見つめ、それから再び笑みを作った。
「やはり、変わっていらっしゃる」
「よく言われるわ」
「ええ。よく分かりましたもの」
その言葉を残し、イザベラは今度こそ去っていく。
背筋は相変わらず美しい。だがその歩みの奥には、確かな再計算があった。
ルークがそれを見送りながら、低く言った。
「お嬢様」
「何」
「先ほどの方、少々気配が変わりました」
「ええ」
「諦めたのではなく、手を変えるつもりかと」
「当然でしょう」
セレスティアは窓の外に広がる夕方の庭園へ視線をやる。
金色の光が芝を染め、噴水のしぶきがきらめいていた。平和な学園の放課後。その顔だけ見れば、どこにも火種など見えない。
だが見えないだけだ。
「空気で押しても無理だと分かったのよ」
「次は」
「もっと別のものを使うでしょうね」
「噂、制度、人脈、教師、王族」
「全部あり得るわ」
ルークは静かに頷いた。
「備えますか」
「必要ないとは言わないけれど」
セレスティアは歩き出す。
「来る前から構えすぎるのも無駄よ」
「では」
「来たら潰すわ」
あまりにも当然のように言われ、ルークはそれ以上何も言わなかった。
この主は、本当に変わらない。
脅しに揺れず、賞賛に酔わず、実力を隠して立ち回る器用さも持ちながら、それを良しとしない。常に自分の軸を優先し、その結果として周囲を巻き込む。
だから恐れられる。
だから目が離せない。
その日の夕刻、一年一組では新たな噂が静かに広がっていた。
グランフェル公爵令嬢は、魔術まで桁が違う。
クロイツ侯爵令嬢ですら、今回は押されていた。
あれは本当に、ただの高慢な令嬢ではない。
そして、そうした噂は学級の外へも漏れていく。
王立アルディオン学園は閉じた箱庭ではない。貴族子弟の言葉は、それぞれの家へ持ち帰られ、夜会や茶会で別の熱を帯びて広がる。
最凶。最悪。災厄。
そう囁かれていた公爵令嬢に、また新しい評価が加わろうとしていた。
――本物だ。
それは恐怖でもあり、興味でもある。
そして一度そう認識された以上、もはや「面倒な令嬢」で済ませることはできない。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、確実にこの学園の中心へ近づきつつあった。
本人が望むと望まざるとにかかわらず。
その歩みは静かだ。
だが、静かなものほど止めにくい。
王立アルディオン学園の均衡は、まだ崩壊には至っていない。
けれど確実に、ひびは広がっていた。
そして、そのひびを最初に決定的な亀裂へ変えるのが誰か。
それを知る者は、まだ誰もいない。




