第3話 最凶公爵令嬢は、群れない
初日の講義を終えた王立アルディオン学園は、解放感と緊張が入り混じった独特のざわめきに包まれていた。
貴族子女たちは、午前のうちにすでに幾つもの値踏みを終えている。誰がどの家に連なり、誰がどれほどの影響力を持ち、誰と距離を置くべきか。友誼より先に損得と力関係を測るのが、この学園では礼儀に近い。
中でも最も注目を集めていたのは、言うまでもなくセレスティア・ヴァン・グランフェルだった。
入学式で第一王子を前にしてなお一歩も引かず、平民特待生を巡る一件で上級貴族の子弟を切り捨てた公爵令嬢。
噂はすでに学園中を走っている。
その渦中にいる本人だけが、いつもどおり静かだった。
教室を出たセレスティアは、他の生徒たちが三々五々に昼食へ向かう流れから自然に外れ、廊下を一人で歩いていた。
昼食は学園内の大食堂で取ることもできるが、上位貴族の子女の中には別室を用いる者も少なくない。グランフェル家の令嬢であるセレスティアにも、そのための控室は当然用意されている。
だが、彼女はそこへ向かわなかった。
どこで食べるかより、誰にどう接触されるかの方が重要だったからだ。
「お嬢様」
少し後ろから、落ち着いた声がかかる。
振り返れば、昼の休憩時間に合わせて外待機から戻ってきたルークが、二歩後ろに控えていた。
「何かしら」
「昼食は個室へお運びする手配も可能でございますが」
「不要よ」
「食堂をご利用になりますか」
「そのつもりだったけれど、気が変わったわ」
「と申しますと」
セレスティアは廊下の先にある大窓の外へ視線を向けた。
中庭の一角に、白い石造りの東屋が見える。蔦の絡まる柱と丸屋根を持つ、小ぶりながら品のいい休憩所だ。周囲には春の花が咲き、昼食を取るには悪くない場所に見える。
「外で食べるわ」
「承知いたしました」
「あなた、用意は」
「すでに」
ルークが小さく目礼した。
「お嬢様が食堂を好まれない可能性も考慮し、軽食をご用意しております」
「有能ね」
「恐れ入ります」
セレスティアはそれ以上言わず、進む方向を中庭へ変えた。
王立学園の昼休みは、外見上は優雅だ。だがその内側では、昼食の席すらまた戦場である。誰と同席するか。誰を招くか。誰を外すか。そこで生まれる序列や噂は、時に講義よりも重い意味を持つ。
だからこそセレスティアは群れない。
群れることは、相手の空気に自分を混ぜることでもあるからだ。
中庭へ出ると、春の風が白銀の髪を揺らした。
暖かな日差しの下、芝は鮮やかな緑を広げ、噴水の水音が穏やかに響いている。遠くでは何組かの生徒たちが談笑していたが、東屋の周辺にはまだ人影がなかった。
「ここでいいわ」
「かしこまりました」
ルークは手早く白布を小卓に敷き、籠から昼食を取り出した。薄く焼いたパンに香草入りの鶏肉と葉物を挟んだもの、果実、水差し、そして小さな焼き菓子。過不足なく、持ち運びにも適した内容だ。
「初日にしてはずいぶん手慣れているのね」
「お嬢様の行動が読みやすい部分もございます」
「それは褒めていないわよ」
「承知の上でございます」
セレスティアは東屋の椅子に腰を下ろした。
ルークは半歩引いて控える。護衛である以上、同席して食事を取ることはない。あくまで警戒と補助に徹する立場だ。
静かな昼になりそうだった。
少なくとも、数分前までは。
「まあ」
柔らかな女の声が、花の香りを混ぜた風とともに届く。
「こんなところにいらしたのですね、グランフェル様」
振り向くまでもない。
セレスティアは果実水の杯を手に取ったまま、声の主を迎えた。
東屋へ続く石畳の小道を、イザベラ・フォン・クロイツが歩いてくる。その後ろには令嬢が二人、さらに少し距離を置いて令息が一人いた。いずれも一組の生徒だ。
すでに布陣になっている。
イザベラが中央。取り巻きは賛同と空気づくり。令息は場の目撃者兼、場合によっては男子側への伝播役。
見た目はただの偶然の昼の遭遇。
だが中身は、意図を持った接触だ。
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
「ごきげんよう」
イザベラは優雅に一礼し、にこやかに続けた。
「お一人でお過ごしになるのですか?」
「見れば分かるでしょう」
「ええ。でも少し意外でしたの。せっかくの昼休みですもの。ご学友と交流なさるのかと」
「必要を感じなかったわ」
「まあ」
イザベラは小さく目を見開き、だが不快そうにはしない。
「では、もしよろしければご一緒しても?」
「よろしくないわ」
即答だった。
後ろの令嬢の一人が、思わず眉を跳ね上げる。もう一人は口元に手を当て、驚きを隠したつもりで隠せていない。
イザベラだけが笑みを崩さなかった。
「まあ、そう仰らずに」
「そう仰るけれど、今そう言ったでしょう」
「同じ学級の者同士、親睦を深めるのは大切ですわ」
「あなたにとってはそうなのでしょうね」
「グランフェル様にとっては違いますの?」
「ええ」
セレスティアは一口だけ杯を傾けた。
「親睦は相手を選ぶものよ」
空気がぴしりと鳴った気がした。
イザベラの背後にいた令嬢の一人が、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「ずいぶんですわね」
栗色の巻き髪の令嬢が、一歩前に出る。
「クロイツ様はご厚意でお声がけなさっているのに」
「厚意」
セレスティアはその言葉だけを静かに繰り返した。
「そうですわ。グランフェル様は少し……誤解されやすい方のようですから、クロイツ様が間に入ってくだされば、学級内の空気も和らぎますのに」
「あなたのお名前は?」
「え……? アメリア・ローゼンベルク伯爵令嬢ですわ」
「そう、ローゼンベルク嬢」
セレスティアは相手の顔を正面から見た。
「私、頼んだかしら」
「何を、ですの?」
「誤解を解いてほしいと」
アメリアの頬が引きつった。
「そ、それは……」
「頼んでもいないものを差し出して、厚意と呼ぶのは自由だけれど。受け取るかどうかを決めるのは私よ」
「でも、クロイツ様は――」
「そこまでになさいな、アメリア」
イザベラが柔らかく制した。
声音は穏やかだが、そこには逆らえない硬さがある。アメリアは不満を飲み込み、一歩下がった。
「申し訳ありません、グランフェル様」
イザベラは申し訳なさそうに微笑んだ。
「皆、少し心配しているだけなのです。今朝の一件以来、学級の皆さまも落ち着かなくて」
「私のせいだと?」
「そんなふうには申しておりませんわ」
「でも、そういう空気にしたいのでしょう?」
一拍。
イザベラは笑みを消さないまま、ほんの僅かに目を細めた。
「買いかぶりですわ」
「そうかしら」
「わたくしはただ、同じ学級の皆さまが穏やかに過ごせればと願っているだけですの」
「穏やか」
セレスティアはその言葉を噛むように言った。
「誰にとっての穏やかかしら」
「皆さまにとって、ですわ」
「違うわね」
セレスティアは静かに杯を置いた。
「あなたに都合のいい空気を、穏やかと呼んでいるだけでしょう」
今度こそ、取り巻き全員の表情が固まった。
イザベラは沈黙したまま、セレスティアを見つめる。
正面から言い切られるとは思っていなかったのだろう。しかも、声を荒げることなく、ただ事実のように置かれる形で。
「……手厳しいのですね、グランフェル様」
「回りくどいのは嫌いなの」
「では率直に伺いますわ」
イザベラは一歩、東屋の中へ足を踏み入れた。
「グランフェル様は、この学級で孤立なさっても構わないとお考えですか?」
背後の取り巻きたちが、息を潜める。
ようやく本題だ。
これは親睦の誘いではない。確認だ。脅しとして通じるかどうかの確認。
だがセレスティアは、わずかも動じなかった。
「孤立?」
「ええ」
「群れないことと孤立は違うわ」
「周囲と調和を図らないのなら、結果は似たようなものではなくて?」
「そうでもないわ」
セレスティアは椅子に座ったまま、イザベラを見上げた。
見上げる形のはずなのに、なぜか見下ろされているように感じるのは、立つ側の錯覚ではない。
「私は必要があれば話すし、価値があれば手を組む。けれど、空気に迎合するつもりはない。それだけよ」
「それで立っていけると?」
「ええ」
「ずいぶんな自信ですこと」
「自信ではないわ」
セレスティアの声は静かだった。
「実力の話よ」
空気が完全に凍りついた。
後ろにいた令息が、わずかに目を見開く。
これは傲慢ではない。もっと厄介なものだ。本人が本気でそう認識している、確信の言葉だ。
イザベラは微笑んだまま、しかし次の言葉を選ぶのに一瞬だけ間を置いた。
「実力があれば、すべてが許されると?」
「誰がそんなことを言ったの」
「では、どういう意味ですの?」
「私は、自分を曲げてまで他人に好かれる必要がないと言っているの。なぜなら、好かれなくても困らないから」
取り巻きたちが、顔を見合わせる。
社交界で育った貴族令嬢たちには、その発想自体が異質だった。好かれること、嫌われないこと、敵を作りすぎないことは、幼い頃から叩き込まれた生存術だからだ。
その前提ごと踏み越えてくる相手は、危険というより理解不能に近い。
「グランフェル様」
今度は別の令嬢が口を開いた。淡い金髪の、小柄で可憐な容姿の少女だ。
「少し、言い過ぎではありませんか?」
「そう?」
「クロイツ様は、本当に学級のことを考えてくださっていますのに……」
「では聞くけれど」
セレスティアは視線だけを向けた。
「あなたは、学級のためなら自分の言葉を曲げるの?」
「そ、それは……必要なら」
「私は曲げないわ」
それだけだった。
だが、その短い一言が重かった。
言葉を飾らないからこそ、逃げ道がない。イザベラたちが空気で包み込み、穏便に枠へ収めようとするたびに、セレスティアはその枠そのものを否定してくる。
イザベラは、ふっと息をついた。
苛立ちを見せたわけではない。ただ、ここでこれ以上押しても意味がないと判断した気配があった。
「分かりましたわ」
彼女は柔らかな笑みのまま言った。
「どうやら、わたくしたちの考え方には隔たりがあるようですもの」
「ようやく理解したのね」
「ですが」
イザベラはなおも美しく微笑む。
「この学園では、一人で立つおつもりでも、周囲と無関係ではいられませんわ」
「でしょうね」
「ですから、いずれ分かる時が来ます」
「何が?」
「空気を敵に回すことの不利益が」
アメリアたちが小さく息を呑む。
遠回しだが、これは十分に挑発だった。
それでもセレスティアは、驚くほど淡泊に返した。
「不利益があるなら受けるわ」
「……」
「でも、だから何?」
イザベラの笑みが、ごく僅かに揺れた。
「損をするから従えと?」
セレスティアは続ける。
「ずいぶん安い理屈ね。私は損得だけで頭を下げる趣味はないの」
「誇りのお話かしら」
「いいえ」
セレスティアは立ち上がった。
椅子が静かに引かれる音だけで、場の温度が変わる。
「趣味の話よ」
白銀の髪が風に揺れる。
彼女はイザベラと正面から向き合った。
「私は、気に入らないものに合わせるのが嫌いなの」
穏やかな春の中庭に、あまりにも不穏なほど静かな言葉だった。
イザベラはじっとセレスティアを見つめ、やがて完璧な笑顔を取り戻した。
「そうですの」
「ええ」
「でしたら、本日はこれ以上失礼いたしませんわ。せっかくのお昼ですもの」
「賢明ね」
その返答に、アメリアが明らかに顔をしかめた。
だがイザベラは何も言わず、優雅に一礼する。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう」
イザベラは踵を返した。
取り巻きたちも続く。だが去り際、令息の一人だけが一度振り返り、興味深げにセレスティアを見た。敵意ではない。観察だ。
情報はもう十分に持ち帰られるだろう。
東屋に静けさが戻る。
ただし、先ほどまでの静けさとは質が違う。空気の中に、明確に火種が残っている。
ルークが一歩だけ近づいた。
「お嬢様」
「何」
「包囲のつもりでいらしたようでございます」
「見れば分かるわ」
「ご気分は」
「悪くないわね」
ルークは僅かに眉を動かした。
「意外でございます」
「そう?」
「お嬢様は、ああいった群れ方を好まれないものと」
「好まないわよ」
セレスティアは再び席に戻った。
「でも、分かりやすい敵意は嫌いじゃないの。少なくとも、笑顔の下に何も隠していない相手よりは面倒が少ないもの」
「クロイツ嬢は、十分に隠しておられたようにお見受けしましたが」
「ええ。けれど隠し方が上手いだけで、中身は見えるわ」
セレスティアは残っていたパンを一口だけ齧った。
「空気を握ることに慣れている。自分の都合を、皆のためという形に変換するのも上手い。悪くないわ」
「高く評価なさいますか」
「ええ」
「それは光栄でございましょうか、不名誉でございましょうか」
「相手に聞いてみたら?」
珍しく、ルークがほんの少しだけ口元を緩めた。
「遠慮しておきます」
中庭の向こうでは、昼休みを楽しむ生徒たちの声が遠く響いていた。
だがこの東屋だけは、別の空気で満ちている。
学級の支配者として振る舞う侯爵令嬢イザベラ。
空気そのものを拒む公爵令嬢セレスティア。
先ほどの接触で、互いに理解したはずだ。
相手は折れない。
それなら次は、もっと人を使う。もっと場を使う。もっと制度や噂を使う。
そういう段階に入る。
「お嬢様」
「何かしら」
「今後、昼食時の接触も増えるかと」
「でしょうね」
「個室をご利用になりますか」
「まさか」
セレスティアは淡々と言った。
「逃げたように見えるでしょう」
「では、今後も受けて立たれますか」
「受けて立つ、というほどでもないわ」
彼女は東屋の外、春の光に満ちた中庭を見渡した。
「向こうが勝手に来るなら、勝手に踏み越えるだけよ」
その言葉に、ルークは静かに一礼する。
「承知いたしました」
そしてその日、一年一組の一部では、早くも次の噂が流れ始めていた。
グランフェル公爵令嬢は、クロイツ侯爵令嬢の誘いすら一蹴した。
昼食の場で、取り巻きごと沈黙させた。
あの女は、本当に誰にも合わせない。
だが同時に、別の感情も芽生え始めていた。
怖い。
近づきたくない。
関われば面倒だ。
それでも――目が離せない。
なぜならセレスティア・ヴァン・グランフェルは、彼女たちが本当は言えないことを、ためらいなく口にするからだ。
空気に従うことを当然とされるこの場所で、ただ一人、空気そのものを拒絶する。
それはあまりにも危うく、同時にあまりにも強かった。
王立アルディオン学園の昼休みは、見た目ほど穏やかではない。
そしてその日を境に、一年一組の生徒たちは知ることになる。
セレスティアが群れないのは、群れられないからではない。
群れる必要がないからだと。




