第2話 最凶公爵令嬢は、微笑まない
王立アルディオン学園の本棟は、外から眺めるよりもさらに広かった。
白亜の石造りの廊下は磨き上げられ、壁には王国の歴史を描いた大きな壁画が一定間隔で飾られている。窓の外には手入れの行き届いた中庭が広がり、遠くには訓練場らしき広場まで見えた。
学園というより、小さな宮殿だ。
実際、ここはただの教育機関ではない。王国の未来を担う者たちに、幼いうちから「自らは特別な世界に属している」と叩き込むための装置でもあるのだろう。
セレスティアは、案内係の上級生が新入生を誘導していく様子を眺めながら、静かに歩を進めていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「この後は各学級への振り分け、続いて担当教員による諸説明とのことです」
「把握しているわ」
「本来であれば、初日は平穏に終わる予定でございましたが」
「残念だったわね」
「わたくしとしては、平穏の定義から確認したく存じます」
ルークが淡々とそう言うと、セレスティアはわずかに目だけで振り返った。
「皮肉?」
「事実の確認でございます」
「そう」
セレスティアは少しだけ口元を緩めた。
ごく短いその変化を見逃す者は多いだろう。だがルークは、その機微を正確に拾う。
主は機嫌が悪いわけではない。むしろ、思ったよりこの場を楽しみ始めている。
それが分かるからこそ、彼は余計な言葉を重ねなかった。
廊下のあちこちでは、先ほどの騒ぎについて早くも囁きが飛び交っていた。
「本当にあの場で第一王子殿下に……」
「信じられないわ。グランフェル公爵令嬢って、やっぱり噂どおり……」
「でも、殿下も怒ってはいらっしゃらなかったような……」
「それが余計に怖いのよ」
セレスティアは聞こえていても無視した。
他人の評価は、他人が勝手に下すものだ。自分が管理する必要はない。
やがて一行は、上級貴族子女が主に所属する一組の教室前へ到着した。
重厚な両開きの扉。その前で案内役の上級生が、緊張した面持ちで一礼する。
「こちらが一年一組でございます。グランフェル様も、この組で――」
「知っているわ」
「し、失礼いたしました」
上級生は小さく肩を震わせながら身を引いた。
セレスティアはそのまま扉へ手をかけ、迷いなく開ける。
教室の中は、すでにかなりの人数が揃っていた。
高い天井。大きな窓。貴族子弟のために設計された空間だけあって、机も椅子も上質で、装飾にまで品がある。前方には教卓があり、その背後の壁には王国旗と学園旗が並んで掲げられていた。
だが、セレスティアが入った瞬間、その教室の空気は明らかに変わった。
さざ、と波が引くように会話が途切れる。
何人かは露骨に視線を逸らし、何人かは興味を隠さず見つめ、何人かは警戒をそのまま顔に出した。
その反応を眺めながら、セレスティアは静かに席を見渡す。
中央付近は人目が集まりやすい。前方は教師との距離が近い。後方は観察には向くが、無駄に絡まれやすい。
彼女が選んだのは、窓際の後方だった。
全体が見渡せて、なおかつ出口にも近い。
座った理由がそのまま性格に出ているような席だ。
ルークは扉の外で控える立場だったが、一礼だけ残して離れる。
「授業終了まで、外にてお待ちしております」
「ええ」
「何かございましたら、すぐに」
「必要になれば呼ぶわ」
「承知いたしました」
扉が静かに閉じる。
すると、それを待っていたかのように、教室の空気が再びざわつき始めた。
「本当に同じクラスなのね……」
「最悪だわ」
「でも逆に、見ているぶんには面白そうじゃない?」
「あなた、巻き込まれても同じことが言えるの?」
小声。だが意図的に聞こえる音量。
無視するには十分で、反応するには無価値。
セレスティアは窓の外へ視線を向けた。
四月の陽光はやわらかく、庭園の芝を穏やかに照らしている。その景色だけ見れば、実にのどかだ。
「さすがですわね」
ふいに、澄んだ女の声が響いた。
教室中の意識がそちらへ向く。
声の主は、前方の席にいた一人の少女だった。淡い蜂蜜色の髪を美しく結い上げ、気品ある姿勢で席を立つ。青みのある灰色の瞳は柔らかく微笑んでいたが、その奥には計算高さが透けて見えた。
イザベラ・フォン・クロイツ。
侯爵家の令嬢にして、社交界の花。完璧な礼儀と完璧な笑顔で名高い少女である。
彼女は教室の視線を一身に集めながら、優雅にセレスティアへ歩み寄ってきた。
「入学初日から、ずいぶんと鮮やかな立ち回りでしたこと」
「そう」
「先ほどの一件、廊下でももう持ちきりですの。さすがはグランフェル様、と申し上げるべきかしら」
「言いたければ、お好きに」
セレスティアの返答は淡白だった。
イザベラは気を悪くした様子もなく、ふわりと微笑む。
「わたくし、感心しておりましたのよ」
「何に」
「ご自身がどれほど注目を集めるか、まるで恐れていらっしゃらないところに、ですわ」
「恐れる必要があるの?」
「普通はございますでしょう?」
イザベラは首を少し傾げた。
「貴族社会では、目立ちすぎることは時として損になりますもの。ましてや王族の御前で強い物言いをなさるなんて、少々危ういと感じる方もいらっしゃるはずですわ」
「でしょうね」
「それでも、なさるのですね」
「必要なら」
短い応酬だった。
だが周囲は息を呑んで見守っている。
このやり取りはただの挨拶ではない。教室の支配権をめぐる最初の接触だと、感覚の鋭い者たちは理解していた。
イザベラは微笑みを崩さないまま、さらに一歩だけ距離を詰めた。
「わたくし、ずっと思っておりましたの。グランフェル様とは、一度ゆっくりお話ししてみたいと」
「今しているでしょう」
「ええ。でも、できればもう少し穏やかに」
「私の態度が不満?」
「いいえ」
イザベラは即答した。
「ただ、怖がっている方も多いものですから」
「それで?」
「同じ学び舎で過ごす以上、少しでも皆さまと歩調を合わせていただければと――」
「断るわ」
空気が止まった。
イザベラの言葉が終わり切るより早く、セレスティアは切った。
微笑みを貼り付けていた何人かの令嬢が、揃って目を瞬かせる。
イザベラでさえ、一瞬だけ目の奥を揺らした。
「……理由を伺っても?」
「私が歩調を合わせるべき合理的理由が見当たらないもの」
「皆と円滑な関係を築くことは、十分に価値のあることではなくて?」
「相手次第ね」
「では、わたくしたちには価値がないと?」
「まだ判断材料が足りないわ」
容赦がない。
教室の隅で誰かが小さく息を呑んだ。
イザベラはなおも笑みを崩さない。だが、その完璧な笑顔の端に、ごく僅かな硬さが混じる。
「グランフェル様は、ずいぶんと率直でいらっしゃるのですね」
「回りくどいのは嫌いなの」
「ですが、言葉には角が立たないよう工夫するという知恵もございますわ」
「中身のない言葉を丸く磨いても、結局は空っぽでしょう」
また数名が顔を見合わせた。
先ほど王子に向けた時と同じ種類の言葉だ。つまりセレスティアは、相手が誰であろうと話法を変えていない。
イザベラはそこで初めて、少しだけ微笑みを薄くした。
「そうですの。でしたら、わたくしも率直に申し上げますわ」
「どうぞ」
「この学級は、皆が安心して学べる場であるべきですの。あまりに強すぎる物言いや振る舞いは、周囲を萎縮させます。ご自覚はおあり?」
「あるわ」
「それでも改めないのですね」
「必要がないもの」
セレスティアは視線をまっすぐ返した。
「萎縮するのは、相手が自分の言葉や立場に中身がないと分かっているからでしょう。私の責任ではないわ」
教室の温度が、目に見えて下がった。
イザベラの背後にいた令嬢の一人が、思わず一歩後ずさる。別の令息は、面白がるように口元を押さえた。
この場でイザベラにここまで真正面から言い返す者は、今までいなかったのだろう。
「……なるほど」
イザベラは静かに頷いた。
「では、これ以上は申しませんわ。初日から空気を悪くしたいわけではありませんもの」
「賢明ね」
「ですが」
イザベラはそこで一度区切り、なおも優美な笑みを浮かべた。
「この学級には、この学級の空気がございます。お一人だけが常に例外でいられるとは、思わないことですわ」
「脅し?」
「忠告ですの」
「そう」
セレスティアは少しだけ顎を引いた。
「忠告は感謝するわ。でも、覚えておいて。私は空気に従うためにここへ来たのではないの」
「……」
「必要なら、この場の方を私に合わせさせるわ」
完全に沈黙が落ちた。
イザベラの微笑みが、今度こそ一瞬だけ消える。
しかし次の瞬間には、何事もなかったように元の笑顔へ戻っていた。
「ええ。よく分かりましたわ、グランフェル様」
そう言って、彼女は優雅に一礼し、自席へと戻っていく。
背筋は美しく、歩みは一切乱れない。
だが近くで見ていた者には分かった。彼女は今、明確に怒っている。
それを顔に出さないだけだ。
「すご……」
「正面からクロイツ様に……」
「本当に止まらないのね、あの人……」
教室のあちこちで、抑えた驚きが漏れる。
セレスティアはそのすべてを無視していた。
窓際の席に座ったまま、頬杖をつき、静かに前を見ている。まるで、たった今のやり取りなど取るに足らないものであったかのように。
その態度が、余計に周囲をざわつかせた。
やがて教室の扉が開き、担任らしき教師が入ってきた。
三十代半ばほどの男で、丁寧に整えられた髪と、細い銀縁眼鏡が印象的だった。柔和に見えるが、目の動きだけは妙に鋭い。
「諸君、着席を」
すでに全員座っている。
教師は一瞬だけその空気を察し、しかし何も言わずに教卓へ立った。
「私は一年一組担任、エドガー・セルウィンだ。担当は政治学および貴族法制論。短い付き合いではないだろう。よろしく頼む」
簡潔な自己紹介の後、彼は出席名簿へ目を落としながら、学園生活に関する説明を始める。
時間割。寮の規則。訓練場の使用条件。貴族子女としての品位保持。王族在学時における振る舞い。決闘規定。校内での魔術使用制限。
その話の中に、セレスティアはひとつ興味深い単語を見つけた。
「なお、本学では生徒間の私的諍いについて、一定条件下で模擬戦による解決を認める」
教室の空気がわずかに動く。
模擬戦。要するに、正式手続きを経た上での実力による決着だ。
「ただし」
セルウィンは視線を上げる。
「それは感情的対立を推奨するものではない。あくまで規律と名誉の管理下に置かれた制度だ。軽々しく利用するな」
ふ、とセレスティアは小さく息をついた。
なるほど。
この学園は、建前だけの優雅さで回っているわけではない。むしろ貴族社会の暴力性を、制度として上品に包み直している。
それなら話は早い。
少なくとも、何かが起きた時に「綺麗事で蓋をする場」ではないらしい。
そのとき、前方の席から手が挙がった。
イザベラだった。
「先生」
「何だ、クロイツ嬢」
「念のため確認したいのですが、模擬戦の申し込みは、身分差にかかわらず認められるのですか?」
教室内に、見えない緊張が走る。
質問自体は自然だ。だが、今このタイミングで口にするには意図が透けすぎている。
セルウィンはそれを理解した上で、平然と答えた。
「学園在籍中の生徒であるならば、原則として認められる。もちろん条件はあるがな」
「ありがとうございます」
イザベラは微笑んで手を下ろした。
その横顔は美しい。
だが、その美しさの内側で何を考えているかは、誰の目にも明らかだった。
探っているのだ。
この学級の中で、誰をどう動かせば、セレスティアを制御できるかを。
セレスティアは視線すら向けず、心の中だけで評価を下した。
面白い女ね。
ただの愛想のいい令嬢ではない。空気を握り、制度を使い、感情すら武器にするタイプだ。だからこそ、最初に自分を測りに来たのだろう。
嫌いではない。
だが、手加減する理由にもならない。
説明が終わり、今度は簡単な自己紹介が始まった。
家名、得意分野、将来の進路希望。皆が無難な言葉を選ぶ中、セレスティアの番が回ってくる頃には、教室中が妙な期待を抱いていた。
「では次、グランフェル嬢」
セルウィンの声に、セレスティアは立ち上がる。
白銀の髪が揺れ、その一挙手一投足だけで視線が集まる。
「セレスティア・ヴァン・グランフェル」
ただ名を告げる。
「得意分野は剣術、魔術、戦術理論」
それだけでも十分に重い。
だが彼女は続けた。
「将来については未定よ。ただ、寄りかかるだけの無能な権威になるつもりはないわ」
一拍遅れて、教室が凍った。
セルウィンの眼鏡の奥の目が、わずかに細まる。イザベラの笑みが固まる。数人の令息が、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。
セレスティアは気にせず着席した。
必要な情報は述べた。それだけだ。
続いて他の生徒が自己紹介をしていくが、誰の言葉も先ほどまでより薄く聞こえた。強烈すぎる一言が、教室全体の基準を塗り替えてしまったからだ。
自己紹介が一通り終わった後、セルウィンは書類をまとめながら口を開く。
「最後に伝えておく」
その声は、先ほどまでより少しだけ低かった。
「この学園では、家格も才能も無視されはしない。だが、それらだけで全てが決まるわけでもない」
彼は教室全体を見渡す。
「諸君らはここで、多くを学び、多くを競い、多くを失望するだろう。その過程で、自分が何者であるかを知ることになる」
そこで一度、視線がセレスティアに止まった。
ほんの一瞬だが、確かに。
「自分を曲げぬ者もいるだろう。空気に合わせる者もいるだろう。どちらが正しいかは一概には言えん。だが少なくとも、他者を測る前に、自分が測られる覚悟は持て」
それは教室全体に向けた言葉だった。
しかし何人かは、明らかに特定の数名へ向けられたものだと理解していた。
イザベラは静かに微笑み、セレスティアは無表情のまま受け流す。
やがて初日の説明は終わり、解散が告げられた。
椅子が引かれ、足音が重なり、人の流れが生まれる。
だがセレスティアが席を立った瞬間、その近くの空間だけは自然と空いた。
誰もが無意識に距離を取っている。
そこへ、扉の外で待っていたルークが静かに歩み寄ってきた。
「お疲れ様でございました、お嬢様」
「大したことはしていないわ」
「教室の空気は十分に変わったようでございます」
「勝手に変わっただけよ」
「左様でございますか」
ルークはそう言いながら、わずかに視線を横へ流した。
その先にいたのはイザベラだった。
彼女もまた、教室を出る直前でこちらを見ている。微笑みは変わらず美しい。だが、その瞳の奥には明確な観察と計算があった。
「お嬢様」
「何」
「本日は、もう一人厄介な方がお増えになったかと」
「ええ」
「いかがなさいますか」
セレスティアは一度だけイザベラを見た。
社交の皮を被った支配者。
あれは必ず、また来る。もっと丁寧に、もっと巧妙に、もっと多くの人間を巻き込んで。
だが、それでいい。
強い相手の方が、話が早い。
「別に」
セレスティアは淡々と言った。
「来るなら来ればいいわ」
「……」
「踏み越えるだけよ」
その言葉を最後まで聞き取れた者は、ルークしかいなかった。
だが、それで十分だった。
王立アルディオン学園一年一組。
その日、誰もが薄々理解し始めていた。
この教室は、穏やかな均衡の上には成り立たない。
完璧な微笑みで空気を支配する侯爵令嬢と、
誰にも媚びず空気そのものを塗り替える公爵令嬢。
その二人が同じ場所にいる以上、いずれ衝突は避けられない。
そして多くの者は、まだ知らない。
先に動くのがどちらであろうと、
その衝突はただの学級内不和などでは終わらないことを。
優雅な学園生活の裏側で、
静かに、しかし確実に、火種は置かれたのだ。




