第1話 最凶公爵令嬢は、頭を下げない
王家の紋章が掲げられた大広間に、静かな緊張が満ちていた。
磨き抜かれた白大理石の床。高い天井から吊るされた幾重もの燭台。壁には歴代国王の肖像が並び、そのどれもが、この場に集う若き貴族たちへ無言の威圧を向けている。
本日、王立アルディオン学園の入学式が執り行われる。
王侯貴族の子弟が集い、未来の官僚、騎士、魔導師、そして王国を支える上流階級の担い手が顔を揃える場だ。本来であれば、それは祝福と期待に満ちた華やかな式典であるはずだった。
だが、今年に限っては違う。
ざわめきの中心にいるのは、まだ十六になったばかりの一人の少女だった。
白銀の髪は光を受けて淡く輝き、腰の辺りまでゆるやかに流れている。深紅の瞳は宝玉のように鮮烈で、その整いすぎた容貌は、まるで神が気まぐれに作り上げた芸術品のようだった。
その美しさだけを見れば、誰もが息を呑んだだろう。
だが、この場にいる誰一人として、彼女を美しいだけの令嬢とは認識していなかった。
少女の名は、セレスティア・ヴァン・グランフェル。
王国最強の武門にして最古の名門、グランフェル公爵家の一人娘。
そして社交界では、こう囁かれている。
――最凶。
――最悪。
――令嬢の姿をした災厄。
その噂は、決して誇張ではなかった。
セレスティアは大広間の中央付近、貴族子女たちの列の中にあってなお、まるで独りで立っているかのような空気を纏っていた。誰とも無理に交わらず、誰にも媚びず、必要以上に視線を向けることもない。
ただ静かに、堂々と、そこにいる。
それだけで周囲の者たちは距離を取った。
「ねえ、見た? 本当に来たのね……」
「当たり前でしょう。グランフェル公爵家のご令嬢よ」
「でも、あの方って……以前の夜会で伯爵令息を泣かせたとか」
「泣かせた、なんて可愛いものじゃないわ。家名を盾に平民を侮辱した相手へ、その場で『その名に価値があると思っていらっしゃるの?』って言い放ったのよ」
「……怖すぎるでしょう」
ひそひそと交わされる声は、しかしセレスティアの耳にも当然届いていた。
だが、彼女は反応しない。
反応する価値がないからだ。
実際、その噂の半分は正しい。残り半分は、少々表現が軟弱すぎるだけで、本質的には間違っていない。
泣かせたのではない。事実を突きつけた結果、勝手に泣いただけだ。
セレスティアはそう認識していた。
「お嬢様」
背後から低い声がかかる。
振り返らずとも誰か分かる。グランフェル家より同行してきた護衛騎士、ルーク・アーヴェントだ。
「何かしら」
「視線が多うございます」
「いつものことよ」
「害意の混じったものもございます」
「それも、いつものことね」
ルークは小さく息をついた。主のこういうところに、彼はもう慣れている。
黒髪に灰青色の瞳を持つ青年騎士は、年若いながら完成された剣のような鋭さを持っていた。だが、この場においては彼ですら脇役に過ぎない。主の隣に立つとき、彼の存在感は自然と抑え込まれる。
「万が一、無礼を働く者がいた場合は」
「制する必要があるなら、あなたが動く前に私が動くわ」
「予想どおりのお言葉です」
「期待に応えてあげたのよ」
ようやく振り返ったセレスティアは、ほんの僅かに口元を和らげた。
それは他人が見れば見間違いかと思うほど薄い変化だったが、ルークにとっては十分だった。
彼はそれ以上言わず、主の半歩後ろに控える。
そのとき、大広間入口付近にわずかなざわめきが走った。
「第一王子殿下だ……」
「アルフレッド殿下がいらしたのね」
「まあ……!」
自然と人の流れが割れ、一人の青年が姿を現す。
金髪碧眼。端正な顔立ち。姿勢は真っ直ぐで、華美ではないが上質な礼装を隙なく着こなしていた。いかにも王族らしい威厳と清潔感を纏いながら、その眼差しには甘さよりも知性が勝っている。
アルフレッド・レオンハルト第一王子。
次代の王に最も近い存在だ。
彼が姿を見せると、多くの令嬢や令息が一斉に頭を下げた。優雅で、整然とした礼。日頃から叩き込まれてきた作法の結晶である。
セレスティアも礼はした。
ただし、必要十分な角度で。
深くもなく、媚びるようでもなく、形式として欠けもない一礼。それだけだった。
誰かが小さく息を呑む気配がした。
王子に対する礼として、間違ってはいない。間違ってはいないが、あまりにも愛想がない。あまりにも「王族だから特別に厚く扱う」という気配がない。
セレスティアは顔を上げた。ちょうどその瞬間、アルフレッドと視線がぶつかる。
青と紅。
数秒にも満たない、しかし妙に長く感じられる沈黙。
アルフレッドは表情を変えなかったが、その目だけがわずかに細められた。噂だけではない、と確認するように。
セレスティアは何も言わない。
王族であろうと、見定める側が自分だけだと思い込まれるのは不愉快だった。
やがて式典が始まり、新入生たちは順に指定の位置へ整列していく。学園長の長い挨拶、王国の未来を担う者としての心得、貴き義務と誇りについての講話。およそ予想できる内容が、予想どおりの言葉で流れていく。
セレスティアは退屈そうでもなく、熱心そうでもなく聞いていた。
重要なのは言葉ではない。
誰が、どのような顔で、どこに重心を置いて話すかだ。
学園長は終始、王家と大貴族の均衡に気を遣っていた。教師陣は王子の機嫌と有力貴族の顔色を同時に窺っている。式典の厳かさの奥に、すでにこの学園という場の縮図が透けて見えていた。
面倒ね、とセレスティアは内心でだけ呟く。
そのときだった。
式典の最中だというのに、列の後方で短い騒ぎが起きた。
「っ……離して下さい」
「黙れ。平民風情が、誰の前に立っていると思っている」
「ぶつかったのは、そちらが――」
「言い訳までするのか?」
抑えた声ではあるが、静まり返った場では目立つ。近くにいた数名が慌てて距離を取り、教師の一人が顔をしかめた。
騒ぎの中心にいたのは、質素ながら整えられた制服を着た少年だった。まだ幼さの残る顔立ち。栗色の髪に、強い意志を宿した瞳。彼の胸元には、平民出身の特待生に与えられる銀糸の校章が留められている。
対するのは、華やかな刺繍の入った上質な礼装を着た貴族子弟三人組。その中央にいる、鼻筋の通った傲慢そうな少年が、特待生の腕を乱暴に掴んでいた。
「やめなさい、式典中だ」
「先生、ですがこの者が……」
「後にしろ。今は殿下もいらっしゃる」
教師は問題を正そうとしたのではなく、目立たせないようにしただけだった。
セレスティアはそれを一瞥し、わずかに目を細める。
なるほど。そういう学園か。
「ルーク」
「承知いたしました――と申し上げたいところですが」
「ええ。あなたは動かなくていいわ」
「左様でございますか」
セレスティアは列から一歩、前に出た。
たったそれだけの動きで、近くにいた者たちが弾かれるように道を空ける。
教師も、貴族子弟も、特待生の少年も、その動きに気づいた。
「グ、グランフェル様……?」
教師が強張った声を漏らす。
掴まれていた少年も、驚いたように目を見開いた。助けを期待したというより、自分よりさらに厄介な存在が来たことに怯えた顔だった。
セレスティアはまず教師を見た。
「お聞きしても?」
「は、はい、何でしょう」
「王立アルディオン学園は、能力ある者を身分に関係なく学ばせる場ではなかったかしら」
「そ、それは……建前としては、いえ、理念としてはその通りですが」
「理念」
セレスティアはその単語を静かに繰り返した。
それだけで、教師の喉がひくりと鳴る。
「素敵な言葉ね。掲げるだけなら、どなたにでもできますもの」
「グランフェル様……」
「では、この場において平民であることを理由に侮辱と威圧を行うことは、学園の理念に適っているの?」
教師は答えられない。
答えられるはずがない。
理念に適っていない。だが貴族子弟を咎めたくもない。そんな保身が、顔に出すぎていた。
「口を慎め」
横から声が飛んだ。
特待生の腕を掴んでいた少年、オズワルド・バーミリオン子爵令息だ。確か宰相派に連なる一門の末子だったと、セレスティアは記憶している。
「グランフェル公爵令嬢といえど、ここは学園だ。勝手に口を挟まないでもらおう」
「学園だからこそ、口を挟んでいるのだけれど」
「こいつは身の程を知らず、上位貴族の列に――」
「学園の指示に従った、と先ほど言っていたわね」
セレスティアは特待生の少年に視線を向けた。
「あなた。名前は」
「……ノア・フェルミ、です」
「案内したのは誰?」
「受付の補助をしていた上級生です。こちらだと」
「そう」
つまり本人に故意はない。終わりだ。
セレスティアは再びオズワルドへ向き直る。
「案内ミスか、悪意ある誘導かは知らないけれど、少なくとも彼が規則を破ったわけではない。違う?」
「だが身分の差というものが――」
「学園規則のどこに、入学式の整列位置をもって私刑を許す条文があるの?」
オズワルドの表情が固まる。
「それは……!」
「ないのね」
「貴様……!」
「あと、声が大きいわ。品位が落ちる」
一瞬、空気が凍りついた。
貴族子弟の一人が思わず後ずさる。教師は青ざめた顔で黙り込み、ノアは呆然としていた。
セレスティアは容赦なく続ける。
「王立学園の名を掲げながら、実際には家名を盾に平民を脅す。ずいぶんと安っぽい矜持ね」
「グランフェル公爵家だからといって、何を言っても――」
「勘違いしないで」
セレスティアの声が、わずかに冷えた。
「私はグランフェルの名を盾にしているのではないわ。あなたの理屈が、あまりに低俗だから切って捨てているの」
言葉そのものが刃だった。
オズワルドの顔が赤く染まり、怒りと屈辱で震え始める。
「お前は、王家の権威のもとにある学園で――」
「王家の権威?」
セレスティアは僅かに首を傾げた。
それは嘲笑ではない。純粋に、理解不能なものを見る目だった。
「王家の権威を笠に着る者ほど、王家の品位を汚しますのね」
静まり返った大広間に、その一言はあまりにも鮮明だった。
遠くにいた新入生たちまで、一斉にこちらを見る。
教師は顔面蒼白。オズワルドは言葉を失い、その取り巻きたちも凍りつく。そして――。
「面白いことを言うな、セレスティア・ヴァン・グランフェル」
低く澄んだ声が、その場に割って入った。
人垣の向こうから歩み寄ってきたのは、第一王子アルフレッドだった。
周囲が大きくざわめく。
オズワルドは慌てて膝を折りかけ、教師は今にも倒れそうな顔になる。ノアは状況の急変についていけず、ただ目を見開いていた。
アルフレッドは騒ぎの前で立ち止まり、順に視線を巡らせる。
貴族子弟。教師。ノア。そして最後に、セレスティア。
「事情を聞こう」
「殿下、これは……その、些細な行き違いで」
教師が慌てて取り繕う。
アルフレッドは冷ややかに教師を見た。
「些細な行き違いであれば、君の額にそんな汗は浮かばないだろう」
教師は口を噤んだ。
アルフレッドはノアへ向く。
「君。名前は」
「ノア・フェルミ、です」
「経緯を簡潔に」
「案内どおりの位置に並んだところ、身分を弁えろと言われ……」
「それだけか?」
「……はい」
「分かった」
次にオズワルドを見た。
「反論は」
「……っ、私はただ、場の秩序を守ろうと」
「規則に基づいて?」
「それは……」
ここで詰まった時点で終わりだと、誰の目にも分かった。
アルフレッドは一度だけ目を閉じ、わずかに息を吐く。そして教師へ命じた。
「ノア・フェルミを正しい位置へ案内し直せ。今後、同様の不手際がないよう配置を見直せ」
「は、はい!」
「オズワルド・バーミリオン」
「……殿下」
「ここは私刑を許す場ではない。君の行為は、学園の秩序を守ったのではなく、乱した」
「申し開きの言葉もございません……」
オズワルドは顔を歪めながらも、どうにか頭を下げた。
そこで終わればよかったのだ。
だがアルフレッドは、視線をセレスティアへ向けたまま言った。
「ただし、セレスティア。お前の言葉もまた、少々鋭すぎる」
「そうかしら」
「王家の品位を汚す、という発言は、この場では過激だ」
「過激であっても、誤りではないでしょう」
ざわ、と再び空気が揺れた。
教師は今度こそ卒倒しそうだった。周囲の新入生たちは、これが夢か何かではないかと疑う顔をしている。
第一王子に対して、ここまで一歩も引かない令嬢を見たことがないのだ。
アルフレッドは怒らない。だが、その青い瞳に静かな圧が宿る。
「私は、秩序を重んじる」
「存じております」
「ならば、無用な挑発は避けるべきだ」
「では、お伺いします」
セレスティアはまっすぐに王子を見返した。
「腐ったものを腐っていると言うことは、無用な挑発なのですか?」
一拍。
アルフレッドは答えない。
答えないのではなく、答えを選んでいるのだと分かる沈黙だった。
セレスティアは続ける。
「私は礼を失したつもりはありません。事実を述べただけです。学園が能力主義を掲げるなら、身分を理由にした私的威圧は否定されるべき。違いますか」
「違わない」
「でしたら問題はないでしょう」
「言い方の問題だ」
「中身のない言い方の良さで飾るくらいなら、多少鋭くても本質を貫く方がましです」
言い切った。
アルフレッドはその言葉を受け止め、しばしセレスティアを見つめた。怒りではない。苛立ちでもない。むしろ測るような、確かめるような目だった。
やがて彼は口元をごく僅かに緩めた。
「……噂以上だな」
「光栄ですわ」
「褒めたつもりではない」
「なお結構」
周囲の者たちは、もはや声も出せなかった。
王子と公爵令嬢。どちらも引かない。だが感情でぶつかっているのではない。理と理が噛み合い、火花を散らしている。
その異様さを、誰も言葉にできない。
「ノア・フェルミ」
アルフレッドが名を呼ぶ。
「は、はい」
「本件で君に非はない。堂々としていろ」
「……ありがとうございます、殿下」
「感謝する相手は違うかもしれないがな」
「え……?」
ノアが戸惑って視線を向けると、セレスティアはもう彼を見ていなかった。
興味が失せたように、彼女は元の位置へ戻ろうとする。
「お待ちください、グランフェル様!」
思わず、といった様子でノアが声をかけた。
周囲がまた緊張する。あのセレスティアに平民が呼びかけたのだ。
だがセレスティアは足を止め、振り返った。
「何かしら」
「あの……助けていただき、ありがとうございました」
「助けたつもりはないわ」
「え?」
「筋の通らないものが目障りだっただけ」
淡々とした返答だった。
礼を述べた側からすれば素っ気ない。だが、不思議と冷酷には聞こえなかった。
セレスティアは一瞬だけノアを見て、静かに言う。
「ただし、覚えておきなさい」
「は、はい」
「誰かに守られることを前提に立つ者は、いずれ簡単に折れるわ。立つべき場所に立ちたければ、次は自分の言葉で立ちなさい」
「……っ」
「今日は運が良かっただけよ」
それだけ言うと、彼女は本当に興味を失ったように踵を返した。
ルークが無言で後ろに続く。
その背中を見送りながら、ノアは強く拳を握りしめる。
優しく慰められたわけではない。庇護を与えられたわけでもない。むしろ厳しいことを言われたはずなのに、不思議と胸の奥に火が灯ったような感覚があった。
アルフレッドはその様子を横目で見て、内心で苦笑する。
救済の顔をしていないくせに、結果だけ見れば最も強く他人を動かす。なるほど、確かに厄介な女だ。
式典は一時中断ののち再開され、大広間はどうにか本来の進行へ戻っていった。だが、もう最初の空気には戻らない。
誰もが知ってしまったからだ。
社交界で囁かれる“災厄”は、単なる誇張でも噂でもなかった。
王子を前にしても引かず、理不尽を前にすれば容赦なく切り捨て、しかもそれが感情任せではなく筋で通っている。
その異常さを、目の前で見てしまった。
やがて式典が終わり、新入生たちが各々移動を始める中、令嬢たちの間では早くも新たな噂が囁かれていた。
「やっぱり、あの方は危険だわ……」
「でも……少しだけ、格好よかったと思ってしまったのは私だけ?」
「分かるわ。怖いのに、目が離せないのよ」
「第一王子殿下にあんなふうに言い返すなんて、正気じゃない」
「正気じゃないからこそ、グランフェル様なのよ」
その囁きすら、セレスティアにとってはどうでもいいことだった。
彼女は大広間を出て、陽光の差し込む回廊を歩く。窓の向こうには、王立アルディオン学園の広大な中庭が広がっていた。整えられた芝、噴水、白亜の校舎群。平和と秩序を象徴するような、美しい景観。
けれどセレスティアの目には、それがあまりに脆いものに見えた。
「お嬢様」
「何」
「初日から随分と目立たれました」
「目立ちたくて目立ったわけではないわ」
「存じております」
「目障りなものが勝手に転がっていただけよ」
「それも、承知しております」
ルークは少しだけ声を低くした。
「ですが、第一王子殿下は確実にお嬢様を意識なさいました」
「でしょうね」
「厄介でございます」
「ええ」
セレスティアは足を止め、庭園の先にそびえる学園本棟を眺める。
「でも、都合がいいわ」
「都合がよろしいのですか?」
「上にいる者が、どれほど腐っていて、どれほど使い物になるか。早めに見える方が無駄がないもの」
その言葉に、ルークは微かに目を細めた。
主は変わらない。
どこへ行っても。誰が相手でも。王立学園という王国の縮図の中ですら、その歩みを変える気は一切ない。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、権力に媚びない。
誰にも靡かない。
誰にも頼らない。
ただ己の美学だけを携え、正しいと思った道を真っ直ぐに踏み抜いていく。
たとえその先に、王家との衝突が待っていようと。
たとえその足跡が、災厄と呼ばれようと。
彼女は気にしない。
頭を下げる価値のないものに、頭を下げる理由などないのだから。
そしてその日、王立アルディオン学園の誰もが悟ることになる。
災厄は、来た。
静かに、堂々と、そして最悪の形で。
王国の歪みを、真正面から壊すために。




