第10話 最凶公爵令嬢は、安い敵意を踏み越える
第一応接室から戻った時、一年一組の空気は露骨に揺れた。
誰もが平静を装っている。だが、視線だけは隠しきれていない。教室の中ほどで話していた令嬢たちが言葉を切り、後方の令息たちが何気ないふりでこちらを見る。イザベラ・フォン・クロイツですら、机上の本へ目を落としたまま、意識の一部を確実にこちらへ向けていた。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、その全てを受け流して自席へ戻る。
問いかけてくる者はいない。
それが、この学級の限界でもあった。
皆、知りたい。だが、自分から踏み込んだ結果どうなるかを考えると動けない。空気を読み、最初に矢面へ立つ愚を避ける。その慎重さ自体は間違っていないが、セレスティアからすれば退屈だった。
「お嬢様」
廊下側で控えていたルークが、教室の扉越しにごく低く声をかける。
「何かしら」
「本日は、いつも以上に静かでございます」
「静かなのではなく、様子見しているだけでしょう」
「左様でございますね」
それ以上の会話は不要だった。
セレスティアは椅子に腰を下ろし、次の講義の教本を開く。王族に呼び出された直後だろうと、講義が始まればそれはそれだ。余計な余韻に浸る趣味はない。
ただし、周囲はそうではない。
授業が始まってからも、視線の熱は完全には消えなかった。
そして、それは昼休みに入った瞬間、形を変えて噴き出した。
教室を出ようとしたセレスティアの前に、一人の男子生徒が立ったのだ。
オズワルド・バーミリオン。
入学式でノアへ絡み、武芸訓練ではセレスティアに完敗した子爵令息。その顔には、分かりやすいほど分かりやすい敵意と焦燥が浮いていた。
周囲の空気が、ぴたりと固まる。
また始まる。
誰もがそう思ったのが分かる空気だった。
「何かしら」
セレスティアは淡々と問う。
オズワルドは一瞬だけ言葉に詰まり、それでも強引に顎を上げた。
「お前、何を話した」
「誰と」
「とぼけるな。第一王子殿下に決まっているだろう」
「答える義理があるの?」
その一言で、オズワルドの頬が引きつる。
教室のあちこちで、息を潜める気配がした。イザベラは少し離れた席から静かに様子を見ている。止めるつもりはないらしい。止めなくても、この場でオズワルドがどう動くか見る価値があると判断しているのだろう。
「あるかないかの話じゃない!」
オズワルドが声を強めた。
「殿下に呼び出されたくらいで、いい気になるなよ」
「なっていないわ」
「ふざけるな!」
完全に感情が先に出ている。
昼休みの教室前。誰もが見ている場所で、わざわざ絡みに来る時点で悪手だ。だが彼には、もうそういう判断すら薄れているのだろう。
昨日の訓練での敗北も、入学式の時の屈辱も、たぶんまだ整理できていない。
「お前はいつもそうだ」
オズワルドの声は苛立ちで震えていた。
「人を見下して、王族にも平気で口を利いて、何もかも自分が正しいみたいな顔をしている」
「そう見えるのね」
「違うのか!」
「違うわ」
セレスティアは静かに答える。
「私は、自分が正しいと信じているから話しているわけではないもの」
オズワルドが一瞬、言葉を失う。
「……は?」
「筋が通っていると思うから言っているだけよ。そこに王族かどうかは関係ないわ」
「同じだろう!」
「全然違うでしょう」
セレスティアは少しだけ首を傾げた。
「あなたは、自分が気に入らないから怒っている。私は、理屈が低いから切っている。それだけの差よ」
教室前の空気が凍る。
あまりにも静かで、あまりにも容赦のない切り方だった。
オズワルドの顔が赤く染まる。怒りだけではない。図星を刺された人間特有の、逃げ場のない熱だ。
「……っ、お前!」
「それで?」
セレスティアは平然としている。
「何を話したか聞いて、どうするつもりだったの?」
「それは……」
「殿下が私に何を言ったか知れば、自分の立場が変わるの?」
「……」
「変わらないでしょう」
オズワルドは黙り込む。
変わらない。そんなことは本人も分かっている。だが、それでも聞かずにいられなかったのだ。
なぜ自分ではなく、この女なのか。
なぜこの女ばかりが注目されるのか。
なぜ自分は何一つ取り返せないのか。
そういう感情が、形を持たないまま吹き出している。
「バーミリオン子爵令息」
セレスティアの声は少しも変わらない。
「あなた、自分で思っている以上に安いわね」
その瞬間、周囲の何人かが本当に息を呑んだ。
きつい。
だが、反論しにくい。
「負けたのが悔しいのも、無視されたくないのも分かるわ。でも、それを“殿下と何を話した”なんて枝葉で埋めようとするから薄っぺらいの」
「黙れ……!」
「本当に悔しいなら、剣でも勉強でも別の場で上に来なさい。人の会話を聞き出してどうにかなると思っている時点で、勝負から逃げているでしょう」
オズワルドの拳が震える。
殴りかかるほど愚かではない。だが、何も返せないほど痛い場所を刺されている。
その時だった。
「そこまでにしておきなさいな」
柔らかな声が、緊張した空気へ滑り込んだ。
イザベラだった。
席を立ち、いつもの完璧な笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。その歩調は穏やかで、声も柔らかい。だが、入ってくるタイミングは完璧だった。
オズワルドが完全に崩れる一歩手前。
セレスティアがこれ以上切れば、収拾が面倒になるところ。
そこへ“場を整える者”として入ってくる。
見事なものだと、セレスティアは思う。
「クロイツ嬢……」
オズワルドが苦々しく名を呼ぶ。
「バーミリオン様」
イザベラは穏やかに言った。
「感情的になっても、何も良いことはありませんわ」
「だが……!」
「グランフェル様も」
今度はセレスティアへ向く。
「あなたも、少々厳しすぎます」
「そうかしら」
「ええ。正しいことでも、言い方次第で無駄に敵を増やしますわ」
「そうでしょうね」
「でしたら」
「でも、だから何?」
イザベラの言葉を、セレスティアは静かに切った。
周囲の視線がまた集まる。
「敵が増えるから言わない方がいい、という理屈なら知っているわ。でも私は、安い敵意に合わせて言葉を選ぶほど親切ではないの」
イザベラの笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。
オズワルドは完全に言葉を失っていた。
「それに」
セレスティアは視線をオズワルドへ戻す。
「この方は、私に喧嘩を売るにしても値札が安すぎるのよ」
「……!」
「感情だけで来て、立場だけで押そうとして、何も切れ札がない。そんなもの、まともに相手をする価値も薄いでしょう」
オズワルドの顔が、今度は青ざめる。
怒りが限界を越えて、逆に冷えたのだろう。そこまで言われると、もはや反発より先に“自分がどう見られているか”が突きつけられる。
「バーミリオン様」
イザベラの声は、今度は少しだけ硬かった。
「今日はもうおやめになって」
「……っ」
「これ以上は、ご自身のためにもなりませんわ」
オズワルドは歯を食いしばったまま、数秒立ち尽くした。
それからようやく、セレスティアを睨みつける。
「……覚えていろ」
「安い台詞ね」
即答だった。
ついに教室の何人かが耐えきれず、息を漏らすように笑いを噛み殺した。オズワルドはそれを聞いた瞬間、踵を返して乱暴に教室を出ていく。
足音だけが廊下へ遠ざかる。
残された空気は、妙に静かだった。
「ごきげんよう、グランフェル様」
イザベラが、いつもの笑みで言う。
「今日も随分と容赦がありませんのね」
「必要がなかったもの」
「必要があれば、もっと?」
「もちろん」
イザベラは一拍だけ黙った。
そして、ほんの少しだけ本音に近い目をした。
「あなた、本当に遠慮がありませんのね」
「あなたは遠慮してほしかったの?」
「ええ、少しは」
それは珍しく、かなり率直な返答だった。
セレスティアは少しだけ口元を上げる。
「残念だったわね」
「本当に」
イザベラは小さく息を吐いた。
だが、責めるような顔はしない。むしろ、目の前でまた一つ確信を深めた顔だった。
この女は、空気も、善意も、周囲の視線も、脅し文句も、何も止める材料にならない。
ならば動かすには、別のものがいる。
「グランフェル様」
「何かしら」
「一つだけ、申し上げても?」
「どうぞ」
「あなたは、ああいう相手にとっては毒ですわ」
「そう」
「ええ。正しい形で悔しがるだけの余裕もなくしてしまう」
「自業自得でしょう」
「そうかもしれませんわね」
イザベラはそこで少しだけ目を細めた。
「でも、そういう方ほど、別の誰かに利用されやすいのです」
その一言だけは、少し質が違った。
ただの牽制ではない。実際に、そういう流れを見ている人間の言葉だった。
「忠告?」
「ええ」
「珍しいわね」
「たまには」
セレスティアは数秒、イザベラを見た。
善意だけではない。打算もある。けれど、今の一言には確かに事実が混じっていた。
面白い女だと、改めて思う。
「覚えておくわ」
そう返すと、イザベラはほんの少しだけ目を見開いた。
「……素直ですのね、そういうところは」
「価値があると思えば聞くもの」
「では、光栄ですわ」
「いつものそれ、便利ね」
「便利ですもの」
短いやり取りの後、イザベラは一礼して自席へ戻る。
周囲の令嬢たちが、彼女へ何か囁く。だがイザベラは笑みを崩さず、何事もなかったかのように場を整え始めた。
見事だった。
オズワルドの自爆で乱れた空気を、最小限で収めている。
「お嬢様」
廊下側からルークが声をかける。
「何」
「昼食の時間でございます」
「ええ」
「本日は、さらに人目が増えるかと」
「勝手に見ていればいいわ」
セレスティアは教室を出る。
廊下を歩きながら、先ほどのやり取りを頭の片隅で整理していた。
オズワルドは、もう敵としては浅い。感情が先に出すぎていて、他人の手駒になりやすい。だがイザベラの最後の言葉は気になった。
別の誰かに利用されやすい。
それは単なる一般論か。あるいは、すでにそうした気配を見ているのか。
「お嬢様」
「何かしら」
「クロイツ嬢の最後の一言、いかが見ますか」
ルークも同じ点を拾っていたらしい。
「半分は牽制、半分は事実でしょうね」
「ええ」
「オズワルドのような手合いは、煽れば簡単に動くもの。あれを前に出して、自分は手を汚さない人間がいても不思議ではないわ」
「学級内に?」
「内とは限らないでしょう」
セレスティアは窓の外に目を向けた。
春の学園は穏やかだ。だが、その穏やかさの下にあるものは、少しずつ濁り始めている。
「王族、上級生、教師、学級の空気、感情で動く子息。駒は揃い始めているもの」
「左様でございますね」
「だからこそ、面倒なのよ」
「楽しんでおられるようにも見えます」
「少しだけね」
ルークは何も言わない。ただ静かに歩調を合わせる。
最凶公爵令嬢は、安い敵意に屈しない。
だが同時に、それをただ笑って終わらせるほど鈍くもない。
感情で突っ込んでくる相手の背後には、時にもっと面倒な意思がいる。
それがイザベラなのか、別の上級生なのか、王家に近い誰かなのか。
まだ分からない。
だが、次に来るものは、
もう少しだけ“形”を持って現れるだろう。
そしてその日の午後、
セレスティアの机には、
差出人のない一枚の招待状が置かれることになる。




