第11話 最凶公爵令嬢は、名もなき誘いを疑う
昼休みを終えて教室へ戻った時、一年一組の空気はどこか妙に薄かった。
騒がしいわけではない。むしろ静かな部類だ。だが、その静けさの中に、不自然な“見ていないふり”が混じっている。誰かが何かを知っていて、けれど先に口にはしない。そんな種類の空気だった。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自席へ戻るなり、それに気づいた。
「お嬢様」
廊下側に控えていたルークが、低く声を落とす。
「何かしら」
「少々、匂いが変わっております」
「ええ」
セレスティアは短く答え、机へ視線を落とした。
そこに、一通の封筒が置かれていた。
厚みのある上質な紙。過度ではないが、安物ではない。封蝋はない。表にはただ、流麗すぎない筆致でこうだけ記されている。
セレスティア・ヴァン・グランフェル様
差出人の名はない。
教室の空気が静かな理由を、セレスティアは一瞬で理解した。
誰かがこれを見た。
だが中身までは知らない。
だからこそ、反応を待っている。
「面倒ね」
小さく呟き、セレスティアは封筒を手に取る。
紙質はよい。癖も少ない。けれど貴族家の正式な私信にしては、意図的に色を消しすぎていた。家の紋もない。香も強くない。特徴を出さないこと自体が特徴になっている。
「お嬢様」
「分かっているわ」
ルークが一歩だけ近づいた。
「開封は、場所を移されますか」
「その必要はないわ」
セレスティアは席に腰を下ろし、そのまま封を切った。
周囲の空気が、わずかに張る。
教室内で完全にこちらを見ている者はいない。だが、誰もが意識だけは向けていた。イザベラ・フォン・クロイツもまた、手元の本を開いたまま、視界の端では確実に拾っている。
中に入っていたのは、一枚の白いカードだった。
短い。
あまりにも短い。
そこにはこう記されていた。
本日放課後、旧温室西棟にてお待ちしております。
学園の今後に関わるお話がございます。
ご関心がおありなら、どうぞお越しください。
署名はない。
筆跡も、封筒の宛名よりさらに特徴が薄い。意識して癖を殺しているのが分かる。
「ずいぶんと雑ね」
セレスティアはカードを見たまま言った。
「お嬢様」
ルークの声がさらに低くなる。
「誘い文句としては、あまりに粗いかと」
「ええ。でも雑なのではなく、切り捨てられても困らないようにしているのよ」
つまり、誘う側にとってこれは本命ではない。
来ればよし。
来なくても痛くない。
誰が送ったか悟られないことの方が優先されている。
その時点で、ろくな誘いではない。
「何でしょう、それ」
柔らかな声がした。
イザベラだった。
いつの間にかこちらへ来ている。距離は近すぎず、けれど声をかけるには十分。完璧な間合いだ。
「気になるの?」
セレスティアが視線を上げる。
「ええ、少しだけ」
イザベラは微笑んだ。
「先ほどから教室の皆さまが落ち着かないものですから。何かよろしくないものかと」
「よろしくないでしょうね」
セレスティアはあっさり言った。
その返答に、イザベラの瞳がほんの少しだけ細くなる。
「見せていただいても?」
「断るわ」
「そうですの」
「ええ」
即答に、教室の空気がまた揺れる。
イザベラは気を悪くした様子もなく、少しだけ首を傾げた。
「差し支える内容ですの?」
「差し支えるというより、あなたに見せる理由がないの」
「正直ですこと」
「今さらでしょう」
イザベラは短く息をつき、しかしそれ以上は踏み込まなかった。
「では、一つだけ」
「どうぞ」
「差出人のない招待には、お気をつけになった方がよろしいかと」
その言葉に、セレスティアは少しだけ目を細めた。
当てた。
内容は見せていない。だがイザベラは、おおよその形を読んだのだ。
「ずいぶん察しがいいのね」
「教室の空気が分かりやすすぎますもの」
「そう」
「そして、そういうものは大抵、善意ではありませんわ」
それは事実だった。
イザベラの言葉には常に打算が混じる。だが、打算があるからといって事実でないとは限らない。
「ご忠告どうも」
「どういたしまして」
イザベラは一礼し、自席へ戻っていく。
その背を見ながら、セレスティアはカードを封筒へ戻した。
「お嬢様」
「何」
「いかがなさいますか」
ルークの問いは簡潔だ。
行くのか、行かないのか。
行くならどう動くのか。
それだけで十分だった。
「少し考えるわ」
「かしこまりました」
午後の講義が始まる。
内容は魔術理論の補講だったが、セレスティアの頭の片隅には、さきほどのカードが残っていた。
旧温室西棟。
学園の施設配置図はもうある程度入っている。現行の大温室とは別に、古い棟が北西側の林寄りに残されていたはずだ。使われていない区画がある、という話も耳にしている。
人目が少ない。
放課後ならなおさら。
誘う場所としては、あまりにも分かりやすい。
問題は、誰が何のために呼んでいるかだ。
イザベラではない。
あの女なら、もっと断りにくく、もっと意味のある形を作る。
アルフレッドでもない。
彼なら正面から呼ぶ。
レオン・ハルヴェインの線も薄い。
あの男は、こういう匿名性の高い手を使う性質には見えない。
となると、別だ。
学級内か。
上級生か。
あるいは、その両方をまたぐ誰かか。
授業を終え、放課後が近づく頃には、セレスティアの中で整理は済んでいた。
行く。
ただし、相手の思う形では行かない。
鐘が鳴り、解散が告げられる。
教室内に椅子の音と人の流れが生まれる中、セレスティアはゆっくり立ち上がった。誰も話しかけてはこない。だが、空気だけが待っている。
あの招待状にどう反応するのか。
「お嬢様」
「行くわ」
ルークは一切の無駄なく頷いた。
「旧温室西棟でございますね」
「ええ」
「お一人で行かれるおつもりではないでしょうね」
「まさか」
セレスティアは封筒を手にしたまま教室を出る。
「ただし、最初から二人で正面から入れば、相手は姿を消すかもしれないわ」
「囮と観測、でございますか」
「そういうこと」
廊下を歩きながら、彼女は続ける。
「私は行く。あなたは気配を切って別導線から入って」
「承知いたしました」
「怪しい動きがあれば」
「排除ではなく、まず確認を」
「ええ。まだ誰か分からないもの」
ルークは静かに一礼する。
「お任せください」
旧温室西棟は、現行の温室から少し離れた位置にあった。
林に寄るようにして建てられた古い石造りの棟で、屋根の一部はガラス張り、壁には蔦が絡み、遠目には廃れた美しさがある。学園の施設であることは分かるが、今はほとんど人が使っていないらしい。
放課後の光が傾き始め、周囲の人通りは少ない。
セレスティアは正面から歩く。
足音を隠さない。隠す必要もない。
ここで大事なのは、“来た”と相手に知らせることだ。
旧温室の入口は半ば開いていた。
招いた側が、最初から待っていたことを示している。
セレスティアは立ち止まらない。
扉を押し、中へ入る。
内部は思ったより広かった。
使われなくなった植台。空の鉢。古い蔓棚。西棟の方は半分ほどが放置されているらしく、ガラス越しの光も少し濁っている。だが足元はそこまで荒れていない。誰かが最近入っている形跡があった。
「来たか」
声がした。
男だ。
若いが、子供ではない。
セレスティアが視線を向けると、奥の蔓棚の影から一人の男子生徒が姿を現した。
二年か三年。制服の上着を少し崩して着ている。背は高め。顔立ちは整っているが、目つきに妙な粘りがあった。洗練されているようで、品がない。そういう印象だ。
「お名前は」
セレスティアはまずそれを聞いた。
相手は口元だけで笑う。
「名乗る必要があるか?」
「ないなら、帰るわ」
即答だった。
男の笑みが一瞬だけ止まる。
「待て」
「呼び出しておいて名も出せない相手と話すほど暇ではないの」
「……リカルド・セインズだ。二年」
セインズ。
伯爵家の次男あたりで聞いた名だと、セレスティアは記憶した。家格そのものは高くない。だが王都社交界に顔が広いと噂される家系だったはずだ。
「それで、セインズ先輩」
「話が早くて助かる」
リカルドは肩を竦めた。
「単刀直入に言おう。お前、最近目立ちすぎだ」
「そう」
「そう、じゃない」
彼は数歩だけ近づく。
「一年の分際で、王子に顔を覚えられ、上級生にも注目され、学級でも好き勝手やってる。そろそろ周りが面白くなくなってくる頃だ」
「あなたも、その一人?」
「そうかもしれないな」
声が軽い。
だが中身は軽くない。
これは善意の忠告ではない。揺さぶりだ。まず不安を与え、それから何かを飲ませる形に持ち込もうとしている。
「続けて」
セレスティアが促すと、リカルドは薄く笑った。
「賢いな。嫌いじゃない」
「光栄ではないわね」
「手厳しい」
彼は気にした様子もなく続ける。
「要するに、お前は今、敵を作りすぎている。とくにバーミリオンみたいな手合いは使いやすい。少し煽ればすぐ動くし、その周りも巻き込める」
イザベラの言葉と重なる。
やはり、そういう流れはあるのだ。
「それで?」
「取引しよう」
来た、とセレスティアは思う。
「何を」
「俺のところへ来い、とは言わない」
リカルドは笑う。
「ただ、少し立ち回りを教えてやる。上級生の誰に近づくべきか、誰を避けるべきか、どの場で何を言えばいいか。その代わり」
「その代わり?」
「俺が必要な時に、少し顔を貸せ」
安い、とセレスティアは内心で思った。
あまりにも安い。
要するに、自分の“後ろ盾らしきもの”として名前を利用したいのだ。セレスティアを従わせることまではできなくても、自分が彼女へ影響力を持っているように見せられれば、それだけで得になる。
「断るわ」
即答。
リカルドの笑みが少しだけ細くなる。
「まだ最後まで聞いてない」
「聞く価値を感じなかったもの」
「おいおい」
彼はわざとらしく息をついた。
「お前、そうやって全部切ってると、本当に足元を掬われるぞ」
「それが本題?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「俺は親切なんだよ」
その言葉に、セレスティアは初めてはっきりと笑った。
声を立てるほどではない。だが、明らかに笑った。
リカルドの目がわずかに細くなる。
「何がおかしい」
「親切、ね」
セレスティアは静かに言った。
「その言葉を、自分で使う人間は大抵ろくでもないのよ」
空気が一瞬で冷えた。
リカルドの笑みが、今度は完全に消える。
「……お前、分かって言ってるのか」
「ええ」
「俺はわざわざ、お前に道を作ってやろうとしてるんだぞ」
「違うわね」
セレスティアは一歩も動かない。
「あなたは、自分が私を“扱える側”に立ちたいだけでしょう」
図星だった。
リカルドの顔に、それが出た。
「上級生の誰に近づくべきか、誰を避けるべきか。そんな情報で恩を売って、あとから顔を出させる。要するに、自分の札にしたいだけじゃない」
「……っ」
「しかも、その値札が安いのよ。脅しも親切も中途半端。欲しいのが私なのか、私の名前なのか、そこすら曖昧でしょう」
リカルドが一歩踏み込む。
だがその瞬間、温室の奥、見えにくい側面通路の気配がわずかに変わった。
ルークだ。
姿は見えない。だが、ここから先は踏み込ませないという気配だけが明確に伝わる。
リカルドもそれを察したらしい。目線が一瞬だけ横へ流れる。
「護衛付きか」
「当然でしょう」
「用心深いな」
「あなたが浅いだけよ」
リカルドのこめかみに、怒りの筋が浮いた。
「……舐めるなよ、一年」
「舐めてはいないわ」
セレスティアは静かに返す。
「評価しているだけ」
「何だと」
「あなたは、自分では手を汚さず、使えそうな相手へ“親切”の顔で近づくタイプ。でもそのやり方、二流なの」
完全に沈黙が落ちた。
リカルドの目が変わる。社交の顔が剥がれ、薄い怒気と敵意がむき出しになる。
ようやく本性が出た。
「……いい度胸だ」
「そう?」
「今のうちに言っておく。学園は広く見えて狭い。敵に回した相手が、いつ、どこで効いてくるか分からない」
「あなたがそれをするの?」
「するとは言ってない」
「できるとも思っていないわ」
リカルドが歯を食いしばる。
ここまで来ると、もはや取引の体裁すらない。怒りに押されているだけだ。
「用件は終わり?」
セレスティアが問う。
「……帰るのか」
「ええ」
「後悔するぞ」
「でしょうね」
セレスティアは踵を返す。
「でも、それが何?」
その一言だけを残して、彼女は温室の出口へ向かった。
背後から追ってくる気配はない。
代わりに、側面通路からルークが静かに現れ、自然に半歩後ろへ付く。
外へ出ると、夕方の空気は驚くほど澄んでいた。
「お嬢様」
「何」
「思った以上に小粒でございました」
「ええ」
セレスティアは歩きながら言う。
「でも、収穫はあったわ」
「と申しますと」
「やっぱり、感情で動く人間の背後を利用したい層はいるのよ」
オズワルドのような安い敵意。
そこへ、リカルドのような“親切顔”の上級生が近づく。
構図としてはあまりに分かりやすい。
「クロイツ嬢のお言葉どおりでございましたね」
「ええ」
「彼女がどこまでご存じなのかは不明ですが」
「少なくとも、ああいう流れがあること自体は見えているのでしょうね」
ルークは静かに頷く。
「今後、同種の接触が増えるかと」
「でしょうね」
「備えを厚くいたしますか」
「お願い」
セレスティアは旧温室を振り返らなかった。
見る価値がもうないからだ。
リカルド・セインズは、敵としても中途半端だった。
ただし、ああいう人間が動き始めたという事実は、軽くない。
最凶公爵令嬢は、名もなき誘いを疑う。
そして疑った上で、必要なら踏み込む。
ただし、その相手が安ければ、容赦なく切って捨てる。
夕暮れの学園は穏やかだ。
だがその穏やかさの下で、線はさらに増えていた。
イザベラは学級の空気を握る。
アルフレッドは理を見ようとする。
レオンは外から観察する。
そしてリカルドのような者は、隙あらば利用しようとする。
少しずつ、役者が揃っていく。
そして翌日。
セレスティアのもとへは今度こそ、
差出人のはっきりした、
だが別の意味で断りにくい正式な招待が届く。
送り主は――
イザベラ・フォン・クロイツだった。




