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最凶公爵令嬢は王家にも頭を下げない  作者: 翡翠


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11/41

第11話 最凶公爵令嬢は、名もなき誘いを疑う

 昼休みを終えて教室へ戻った時、一年一組の空気はどこか妙に薄かった。


 騒がしいわけではない。むしろ静かな部類だ。だが、その静けさの中に、不自然な“見ていないふり”が混じっている。誰かが何かを知っていて、けれど先に口にはしない。そんな種類の空気だった。


 セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自席へ戻るなり、それに気づいた。


「お嬢様」


 廊下側に控えていたルークが、低く声を落とす。


「何かしら」


「少々、匂いが変わっております」


「ええ」


 セレスティアは短く答え、机へ視線を落とした。


 そこに、一通の封筒が置かれていた。


 厚みのある上質な紙。過度ではないが、安物ではない。封蝋はない。表にはただ、流麗すぎない筆致でこうだけ記されている。


 セレスティア・ヴァン・グランフェル様


 差出人の名はない。


 教室の空気が静かな理由を、セレスティアは一瞬で理解した。


 誰かがこれを見た。

 だが中身までは知らない。

 だからこそ、反応を待っている。


「面倒ね」


 小さく呟き、セレスティアは封筒を手に取る。


 紙質はよい。癖も少ない。けれど貴族家の正式な私信にしては、意図的に色を消しすぎていた。家の紋もない。香も強くない。特徴を出さないこと自体が特徴になっている。


「お嬢様」


「分かっているわ」


 ルークが一歩だけ近づいた。


「開封は、場所を移されますか」


「その必要はないわ」


 セレスティアは席に腰を下ろし、そのまま封を切った。


 周囲の空気が、わずかに張る。


 教室内で完全にこちらを見ている者はいない。だが、誰もが意識だけは向けていた。イザベラ・フォン・クロイツもまた、手元の本を開いたまま、視界の端では確実に拾っている。


 中に入っていたのは、一枚の白いカードだった。


 短い。


 あまりにも短い。


 そこにはこう記されていた。


 本日放課後、旧温室西棟にてお待ちしております。

 学園の今後に関わるお話がございます。

 ご関心がおありなら、どうぞお越しください。


 署名はない。


 筆跡も、封筒の宛名よりさらに特徴が薄い。意識して癖を殺しているのが分かる。


「ずいぶんと雑ね」


 セレスティアはカードを見たまま言った。


「お嬢様」


 ルークの声がさらに低くなる。


「誘い文句としては、あまりに粗いかと」


「ええ。でも雑なのではなく、切り捨てられても困らないようにしているのよ」


 つまり、誘う側にとってこれは本命ではない。


 来ればよし。

 来なくても痛くない。

 誰が送ったか悟られないことの方が優先されている。


 その時点で、ろくな誘いではない。


「何でしょう、それ」


 柔らかな声がした。


 イザベラだった。


 いつの間にかこちらへ来ている。距離は近すぎず、けれど声をかけるには十分。完璧な間合いだ。


「気になるの?」


 セレスティアが視線を上げる。


「ええ、少しだけ」


 イザベラは微笑んだ。


「先ほどから教室の皆さまが落ち着かないものですから。何かよろしくないものかと」


「よろしくないでしょうね」


 セレスティアはあっさり言った。


 その返答に、イザベラの瞳がほんの少しだけ細くなる。


「見せていただいても?」


「断るわ」


「そうですの」


「ええ」


 即答に、教室の空気がまた揺れる。


 イザベラは気を悪くした様子もなく、少しだけ首を傾げた。


「差し支える内容ですの?」


「差し支えるというより、あなたに見せる理由がないの」


「正直ですこと」


「今さらでしょう」


 イザベラは短く息をつき、しかしそれ以上は踏み込まなかった。


「では、一つだけ」


「どうぞ」


「差出人のない招待には、お気をつけになった方がよろしいかと」


 その言葉に、セレスティアは少しだけ目を細めた。


 当てた。


 内容は見せていない。だがイザベラは、おおよその形を読んだのだ。


「ずいぶん察しがいいのね」


「教室の空気が分かりやすすぎますもの」


「そう」


「そして、そういうものは大抵、善意ではありませんわ」


 それは事実だった。


 イザベラの言葉には常に打算が混じる。だが、打算があるからといって事実でないとは限らない。


「ご忠告どうも」


「どういたしまして」


 イザベラは一礼し、自席へ戻っていく。


 その背を見ながら、セレスティアはカードを封筒へ戻した。


「お嬢様」


「何」


「いかがなさいますか」


 ルークの問いは簡潔だ。


 行くのか、行かないのか。

 行くならどう動くのか。

 それだけで十分だった。


「少し考えるわ」


「かしこまりました」


 午後の講義が始まる。


 内容は魔術理論の補講だったが、セレスティアの頭の片隅には、さきほどのカードが残っていた。


 旧温室西棟。


 学園の施設配置図はもうある程度入っている。現行の大温室とは別に、古い棟が北西側の林寄りに残されていたはずだ。使われていない区画がある、という話も耳にしている。


 人目が少ない。

 放課後ならなおさら。

 誘う場所としては、あまりにも分かりやすい。


 問題は、誰が何のために呼んでいるかだ。


 イザベラではない。

 あの女なら、もっと断りにくく、もっと意味のある形を作る。


 アルフレッドでもない。

 彼なら正面から呼ぶ。


 レオン・ハルヴェインの線も薄い。

 あの男は、こういう匿名性の高い手を使う性質には見えない。


 となると、別だ。


 学級内か。

 上級生か。

 あるいは、その両方をまたぐ誰かか。


 授業を終え、放課後が近づく頃には、セレスティアの中で整理は済んでいた。


 行く。

 ただし、相手の思う形では行かない。


 鐘が鳴り、解散が告げられる。


 教室内に椅子の音と人の流れが生まれる中、セレスティアはゆっくり立ち上がった。誰も話しかけてはこない。だが、空気だけが待っている。


 あの招待状にどう反応するのか。


「お嬢様」


「行くわ」


 ルークは一切の無駄なく頷いた。


「旧温室西棟でございますね」


「ええ」


「お一人で行かれるおつもりではないでしょうね」


「まさか」


 セレスティアは封筒を手にしたまま教室を出る。


「ただし、最初から二人で正面から入れば、相手は姿を消すかもしれないわ」


「囮と観測、でございますか」


「そういうこと」


 廊下を歩きながら、彼女は続ける。


「私は行く。あなたは気配を切って別導線から入って」


「承知いたしました」


「怪しい動きがあれば」


「排除ではなく、まず確認を」


「ええ。まだ誰か分からないもの」


 ルークは静かに一礼する。


「お任せください」


 旧温室西棟は、現行の温室から少し離れた位置にあった。


 林に寄るようにして建てられた古い石造りの棟で、屋根の一部はガラス張り、壁には蔦が絡み、遠目には廃れた美しさがある。学園の施設であることは分かるが、今はほとんど人が使っていないらしい。


 放課後の光が傾き始め、周囲の人通りは少ない。


 セレスティアは正面から歩く。


 足音を隠さない。隠す必要もない。


 ここで大事なのは、“来た”と相手に知らせることだ。


 旧温室の入口は半ば開いていた。


 招いた側が、最初から待っていたことを示している。


 セレスティアは立ち止まらない。


 扉を押し、中へ入る。


 内部は思ったより広かった。


 使われなくなった植台。空の鉢。古い蔓棚。西棟の方は半分ほどが放置されているらしく、ガラス越しの光も少し濁っている。だが足元はそこまで荒れていない。誰かが最近入っている形跡があった。


「来たか」


 声がした。


 男だ。


 若いが、子供ではない。


 セレスティアが視線を向けると、奥の蔓棚の影から一人の男子生徒が姿を現した。


 二年か三年。制服の上着を少し崩して着ている。背は高め。顔立ちは整っているが、目つきに妙な粘りがあった。洗練されているようで、品がない。そういう印象だ。


「お名前は」


 セレスティアはまずそれを聞いた。


 相手は口元だけで笑う。


「名乗る必要があるか?」


「ないなら、帰るわ」


 即答だった。


 男の笑みが一瞬だけ止まる。


「待て」


「呼び出しておいて名も出せない相手と話すほど暇ではないの」


「……リカルド・セインズだ。二年」


 セインズ。


 伯爵家の次男あたりで聞いた名だと、セレスティアは記憶した。家格そのものは高くない。だが王都社交界に顔が広いと噂される家系だったはずだ。


「それで、セインズ先輩」


「話が早くて助かる」


 リカルドは肩を竦めた。


「単刀直入に言おう。お前、最近目立ちすぎだ」


「そう」


「そう、じゃない」


 彼は数歩だけ近づく。


「一年の分際で、王子に顔を覚えられ、上級生にも注目され、学級でも好き勝手やってる。そろそろ周りが面白くなくなってくる頃だ」


「あなたも、その一人?」


「そうかもしれないな」


 声が軽い。


 だが中身は軽くない。


 これは善意の忠告ではない。揺さぶりだ。まず不安を与え、それから何かを飲ませる形に持ち込もうとしている。


「続けて」


 セレスティアが促すと、リカルドは薄く笑った。


「賢いな。嫌いじゃない」


「光栄ではないわね」


「手厳しい」


 彼は気にした様子もなく続ける。


「要するに、お前は今、敵を作りすぎている。とくにバーミリオンみたいな手合いは使いやすい。少し煽ればすぐ動くし、その周りも巻き込める」


 イザベラの言葉と重なる。


 やはり、そういう流れはあるのだ。


「それで?」


「取引しよう」


 来た、とセレスティアは思う。


「何を」


「俺のところへ来い、とは言わない」


 リカルドは笑う。


「ただ、少し立ち回りを教えてやる。上級生の誰に近づくべきか、誰を避けるべきか、どの場で何を言えばいいか。その代わり」


「その代わり?」


「俺が必要な時に、少し顔を貸せ」


 安い、とセレスティアは内心で思った。


 あまりにも安い。


 要するに、自分の“後ろ盾らしきもの”として名前を利用したいのだ。セレスティアを従わせることまではできなくても、自分が彼女へ影響力を持っているように見せられれば、それだけで得になる。


「断るわ」


 即答。


 リカルドの笑みが少しだけ細くなる。


「まだ最後まで聞いてない」


「聞く価値を感じなかったもの」


「おいおい」


 彼はわざとらしく息をついた。


「お前、そうやって全部切ってると、本当に足元を掬われるぞ」


「それが本題?」


「半分はな」


「残り半分は?」


「俺は親切なんだよ」


 その言葉に、セレスティアは初めてはっきりと笑った。


 声を立てるほどではない。だが、明らかに笑った。


 リカルドの目がわずかに細くなる。


「何がおかしい」


「親切、ね」


 セレスティアは静かに言った。


「その言葉を、自分で使う人間は大抵ろくでもないのよ」


 空気が一瞬で冷えた。


 リカルドの笑みが、今度は完全に消える。


「……お前、分かって言ってるのか」


「ええ」


「俺はわざわざ、お前に道を作ってやろうとしてるんだぞ」


「違うわね」


 セレスティアは一歩も動かない。


「あなたは、自分が私を“扱える側”に立ちたいだけでしょう」


 図星だった。


 リカルドの顔に、それが出た。


「上級生の誰に近づくべきか、誰を避けるべきか。そんな情報で恩を売って、あとから顔を出させる。要するに、自分の札にしたいだけじゃない」


「……っ」


「しかも、その値札が安いのよ。脅しも親切も中途半端。欲しいのが私なのか、私の名前なのか、そこすら曖昧でしょう」


 リカルドが一歩踏み込む。


 だがその瞬間、温室の奥、見えにくい側面通路の気配がわずかに変わった。


 ルークだ。


 姿は見えない。だが、ここから先は踏み込ませないという気配だけが明確に伝わる。


 リカルドもそれを察したらしい。目線が一瞬だけ横へ流れる。


「護衛付きか」


「当然でしょう」


「用心深いな」


「あなたが浅いだけよ」


 リカルドのこめかみに、怒りの筋が浮いた。


「……舐めるなよ、一年」


「舐めてはいないわ」


 セレスティアは静かに返す。


「評価しているだけ」


「何だと」


「あなたは、自分では手を汚さず、使えそうな相手へ“親切”の顔で近づくタイプ。でもそのやり方、二流なの」


 完全に沈黙が落ちた。


 リカルドの目が変わる。社交の顔が剥がれ、薄い怒気と敵意がむき出しになる。


 ようやく本性が出た。


「……いい度胸だ」


「そう?」


「今のうちに言っておく。学園は広く見えて狭い。敵に回した相手が、いつ、どこで効いてくるか分からない」


「あなたがそれをするの?」


「するとは言ってない」


「できるとも思っていないわ」


 リカルドが歯を食いしばる。


 ここまで来ると、もはや取引の体裁すらない。怒りに押されているだけだ。


「用件は終わり?」


 セレスティアが問う。


「……帰るのか」


「ええ」


「後悔するぞ」


「でしょうね」


 セレスティアは踵を返す。


「でも、それが何?」


 その一言だけを残して、彼女は温室の出口へ向かった。


 背後から追ってくる気配はない。


 代わりに、側面通路からルークが静かに現れ、自然に半歩後ろへ付く。


 外へ出ると、夕方の空気は驚くほど澄んでいた。


「お嬢様」


「何」


「思った以上に小粒でございました」


「ええ」


 セレスティアは歩きながら言う。


「でも、収穫はあったわ」


「と申しますと」


「やっぱり、感情で動く人間の背後を利用したい層はいるのよ」


 オズワルドのような安い敵意。

 そこへ、リカルドのような“親切顔”の上級生が近づく。

 構図としてはあまりに分かりやすい。


「クロイツ嬢のお言葉どおりでございましたね」


「ええ」


「彼女がどこまでご存じなのかは不明ですが」


「少なくとも、ああいう流れがあること自体は見えているのでしょうね」


 ルークは静かに頷く。


「今後、同種の接触が増えるかと」


「でしょうね」


「備えを厚くいたしますか」


「お願い」


 セレスティアは旧温室を振り返らなかった。


 見る価値がもうないからだ。


 リカルド・セインズは、敵としても中途半端だった。

 ただし、ああいう人間が動き始めたという事実は、軽くない。


 最凶公爵令嬢は、名もなき誘いを疑う。

 そして疑った上で、必要なら踏み込む。

 ただし、その相手が安ければ、容赦なく切って捨てる。


 夕暮れの学園は穏やかだ。

 だがその穏やかさの下で、線はさらに増えていた。


 イザベラは学級の空気を握る。

 アルフレッドは理を見ようとする。

 レオンは外から観察する。

 そしてリカルドのような者は、隙あらば利用しようとする。


 少しずつ、役者が揃っていく。


 そして翌日。


 セレスティアのもとへは今度こそ、

 差出人のはっきりした、

 だが別の意味で断りにくい正式な招待が届く。


 送り主は――

 イザベラ・フォン・クロイツだった。

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