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最凶公爵令嬢は王家にも頭を下げない  作者: 翡翠


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34/41

第34話 最凶公爵令嬢は、面白がる男にも線を引く

 翌日の午後、第二訓練場へ続く渡り廊下には、春の終わりに近い乾いた風が流れていた。


 陽はまだ高い。だが空気は昼より少しだけ緩み、石床に落ちる光の輪郭も柔らかくなっている。講義終わりの生徒たちが三々五々に散っていく中、その一角だけが妙に静かだった。


 静かだが、人目はある。


 通り過ぎる者の歩幅が少しだけ遅い。視線が一瞬だけ留まり、しかし露骨には止まらない。

 誰かが何かを見に来ている時の流れだった。


 セレスティア・ヴァン・グランフェルは、そうした空気を感じながら歩いていた。


 後ろには、いつも通りルークが半歩外した位置で付いている。


「お嬢様」


「何かしら」


「本日は、騎士科側の熱がまた少し戻っております」


「ええ」


 セレスティアは前を見たまま答える。


「昨日までの熱とは違うわね」


「はい」


「今のは、“見たい”ではなく“様子を見たい”側の熱よ」


 模擬戦の直後のような、単純な高揚ではない。

 女子側の空気が混ざり始めたことで、騎士科側も“どこまで関わるべきか”を探っているのだろう。


 その意味では、盤面は確かに細かくなっていた。


「お嬢様」


「何」


「前方に」


「ええ、見えているわ」


 渡り廊下の先、窓際に一人の男が立っていた。


 ディルクだった。


 三年騎士科。赤みのある茶髪。壁に寄りかかっているわけでもなく、かといってきっちり待ち構えているようにも見せない立ち方。

 以前なら、もっと露骨に空気を荒らしていたはずだ。


 今日は違う。


 面白がってはいる。

 だが、その面白がり方を前より少しだけ抑えている。


 それだけで、この男が本当に負けた後に少し整ってきたのが分かった。


「来たか」


 ディルクが言う。


「何かしら」


「少し話す」


「内容によるわ」


「だろうな」


 ディルクは口元だけで笑った。


「今日は喧嘩を売りに来たわけじゃない」


「珍しいわね」


「俺もそう思う」


 その返しに、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。


 ルークはすでに一歩後ろへ位置をずらし、周囲の通路とディルクの足元がどちらも見える立ち位置を取っている。いつも通りだが、今日は警戒一辺倒ではない。様子を見る余白がある。


「それで?」


 セレスティアが促す。


 ディルクは一度だけ周囲を見た。

 聞き耳を立てている者はいない。

 だが、人の気配は完全には切れていない。


「昨日の二年女の件」


 単刀直入だった。


「マリア・セルヴェーン?」


「そっちまで行ったか」


 ディルクの目がわずかに細くなる。


「お前、本当に色んなところから拾うな」


「向こうが勝手に来るだけよ」


「だろうな」


 ディルクは頷く。


「それで、何?」


「騎士科でも少し回ってる」


「早いわね」


「お前の周りの話は、今もう何でも早い」


 それは事実だった。


 セレスティア個人の意思とは別に、名前が動く速度だけはどんどん上がっている。

 だからこそ、父の問いが重かったのだ。


「どんな形で?」


 セレスティアが問うと、ディルクは答えた。


「“グランフェル公爵令嬢は、男だけじゃなく女側まで騒がせ始めた”ってな」


 安い。


 だが、予想の範囲内でもある。


「それで?」


「それを面白がってる連中がいる」


「あなたも?」


 ディルクはそこで、少しだけ間を置いた。


「半分はな」


「正直ね」


「今さらだろ」


「ええ」


 セレスティアは静かに返す。


 ディルクは続けた。


「ただ、半分は違う」


「どう違うの?」


「くだらねえと思ってる」


 その言葉に、セレスティアは少しだけ目を細めた。


 悪くない答えだ。


「女の不快だの品位だの、そういう形にずらしてまで人を触りに行くのは、あんまり好みじゃない」


 ディルクは淡々と言う。


「剣で来るならまだ分かる。実力でも、言葉でも、正面からならまだ見やすい。でも、外の坊ちゃんや二年女が“見え方”で削りに来るのは面倒だ」


「同感ね」


「だろうな」


 短く意見が揃う。


 そこに妙な気安さはない。

 ただ、見ているものが一致しただけだ。


「それを言いに来たの?」


 セレスティアが問う。


 ディルクは首を軽く振った。


「半分は」


「残り半分は?」


「お前がどう見るか聞きに来た」


 やはりそうか、とセレスティアは思った。


 この男は最近、面白がるだけではなくなっている。

 自分が見たものを、こちらがどう見るかまで確かめに来るようになった。

 それは少しだけ、質が変わった証拠だ。


「簡単よ」


 セレスティアは答える。


「男の熱も女の不快も、どちらもそれ自体には価値が薄いわ」


 ディルクが黙って聞く。


「でも、それを誰が使おうとしているかには価値がある」


「やっぱりそこか」


「当然でしょう」


「二年女どもは?」


「全員が同じではないわね」


 セレスティアは言う。


「リディア・アシュクロフトは不快そのもの寄り。マリア・セルヴェーンは盤面寄り。イザベラは空気の制御側」


 ディルクの目が、そこでほんの少しだけ動く。


「本当に仕分けてるんだな」


「見れば分かるもの」


「俺には、そこまできれいに分かれて見えねえよ」


「でしょうね」


「失礼だな」


「今さらでしょう」


 ディルクはそこで声を立てずに笑った。


 以前より、このやり取りに苛立ちが乗らなくなっている。

 それ自体が悪くなかった。


「じゃあ、外の坊ちゃんは?」


 ディルクが問う。


「アーネスト・ヴァルグレイ?」


「そうだ」


「価値がないわね」


「そこは即答か」


「ええ」


 セレスティアは少しも迷わず答えた。


「切られたことに執着しているだけでしょう。そういう男は、自分の物語の中でしか人を見ないもの」


 ディルクは数秒、黙ったあとで頷いた。


「分かる気がする」


「珍しいわね」


「お前の言葉で少しだけ、な」


 その言い方は、以前なら気に入らなかったかもしれない。

 だが今のディルクには、安い取り入りがない。

 ただ本当に、自分の見え方が少し変わったことを認めているだけだ。


「それで」


 セレスティアが問う。


「あなたは何をするつもりなの?」


「何もしねえよ」


 ディルクは肩を竦めた。


「少なくとも今はな」


「本当に?」


「お前に変に肩入れすると、余計な見え方になるだろ」


 それは意外なほどまっとうな整理だった。


「やっと学んだのね」


「うるさい」


「でも正しいわ」


 セレスティアは淡々と続ける。


「今、あなたが私の側へ寄ると、“騎士科の上級生まで味方につけている”って材料になるでしょうね」


「だろうな」


「だから動かない」


「そうだ」


「賢明ね」


 ディルクはそこで少しだけ目を細めた。


「褒めてるのか?」


「半分は」


「嫌な返しを覚えやがった」


「今さらでしょう」


 短いやり取りのあと、ディルクは一度だけ窓の外を見た。


 訓練場の屋根、その向こうの空、行き交う生徒たち。

 それから再び、セレスティアへ視線を戻す。


「一つだけ」


「何かしら」


「最近、お前の周りの話が増えすぎてる」


「ええ」


「剣で見たい奴もいる。話したい奴もいる。品位だの見え方だので削りたい奴もいる。外から勝手に値札を付けに来る奴もいる」


「そうね」


「それで、お前は平気か」


 その問いは意外だった。


 心配、というほど甘いものではない。

 だが確認ではある。

 そしてたぶん、少しだけ本音だった。


 セレスティアはディルクを見た。


「平気よ」


「本当に?」


「ええ」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「でも、面倒ではあるわ」


 ディルクが小さく笑う。


「そりゃそうだ」


「ただ、面倒でも価値があるなら拾うだけ」


「全部じゃねえんだな」


「全部拾っていたら死ぬでしょう」


「違いない」


 その一言で、空気が少しだけ軽くなった。


 ルークが低く口を開く。


「お嬢様」


「何かしら」


「そろそろお時間かと」


「ええ」


 セレスティアは頷いた。


「では、先輩」


「何だ」


「今日は悪くなかったわ」


 ディルクの目が、わずかに動く。


「何が?」


「近づき方が」


 セレスティアは静かに言う。


「面白がるだけではなく、線を引いていたもの」


 ディルクは一瞬、言葉を失ったように黙った。


 それから、ほんの少しだけ口元を上げる。


「……それは光栄だな」


「似合わないわよ」


「うるせえ」


 その返しに苛立ちはもう薄い。


 むしろ、ようやくこの男も“面白がる男”と“盤面を見る男”の中間あたりへ来たのだろう。


「じゃあな」


 ディルクが言う。


「ええ」


「また面倒が増えたら教えろ」


「断るわ」


「そう言うと思った」


 そのまま踵を返し、去っていく。


 背中に熱はある。

 だが以前ほど雑ではない。

 悪くない変化だと、セレスティアは思った。


 ルークが静かに並ぶ。


「お嬢様」


「何かしら」


「ディルク先輩、やはり変わりましたね」


「ええ」


「いかがご覧になりますか」


 セレスティアは少しだけ考えた。


「前は“面白がる男”だった」


「ええ」


「今は、“面白がりながらも線を引ける男”になりつつあるわね」


「高い評価でございます」


「負けた後の質が悪くないもの」


 ルークは一礼する。


「承知いたしました」


 最凶公爵令嬢は、面白がる男にも線を引く。

 ただし、その男が自分で線を覚えたなら、

 見る価値はまた少し変わってくる。


 そして今、

 ディルクはもう“ただの面倒な上級生”ではなくなりつつあった。


 盤面の質は、また少し変わる。


 女子側の熱。

 騎士科側の整理。

 王族の静かな介入。

 外の男の執着。

 そのどれもが、前より一段複雑になっている。


 そしてその夜。

 セレスティアのもとへは、

 父からの返書よりも先に、

 思いも寄らない人物から短い伝言が届くことになる。


 送り主は、リディア・アシュクロフト。

 内容は、謝罪ではなく――

 確認だった。

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