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最凶公爵令嬢は王家にも頭を下げない  作者: 翡翠


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35/41

第35話 最凶公爵令嬢は、謝罪より確認を選ぶ女を見る

 その夜、女子寮の空気はいつもよりわずかに硬かった。


 夕食を終え、浴室や談話室へ散っていく足音は普段と変わらない。だが、その何でもない物音の下に、薄く張りついたような緊張がある。誰かが誰かを見ていて、けれどそれを表へは出さない。そういう時の女子寮は、昼の教室よりよほど静かで、よほど面倒だ。


 セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自室の机で本を閉じたところだった。


 父、ヴァレリウス・ヴァン・グランフェルへの返書はすでに送り出す準備が整っている。今日一日の盤面も、おおむね頭の中で整理は済んでいた。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「どなたかしら」


 セレスティアが問うと、返ってきたのは見覚えのある侍女見習いの声だった。


「クロイツ様付きの者でございます」


 またイザベラか、と一瞬思ったが、今回は少し違う気配があった。


 扉を開けると、栗色の髪をきっちりまとめた少女が一礼する。


「夜分に失礼いたします」


「何かしら」


「クロイツ様からではございません」


 そこを最初に切ってきた。


 つまり、それが誤解されやすい内容だと分かっているのだろう。


「二年のアシュクロフト様付きの侍女見習いから、伝言の取り次ぎ依頼がございました」


 セレスティアの目が、わずかに細くなる。


 リディア・アシュクロフト。


 昼間、マリア・セルヴェーンとともに“上品な顔の悪意”を運んできた金髪の二年令嬢だ。


「内容は」


「“謝罪ではなく確認がしたい”とのことです」


 なるほど、とセレスティアは思う。


 悪くない入り方だ。


 謝罪ではない、と先に切る。

 つまり、昼の自分の立場や言い方そのものをなかったことにはしないということだろう。

 その上で確認、と来るなら、少なくとも安い媚びではない。


「続けて」


「“もし話す価値がないと思われるなら断って構わない。ただし、今日の時点で一つだけ誤解を解いておきたい”とのことです」


 そこまで聞いて、セレスティアは少しだけ考えた。


 リディアはマリアほど盤面を見る女ではない。

 だが完全に浅いわけでもない。

 少なくとも、昼の一件のあとで“謝罪”ではなく“確認”を選んだ時点で、感情だけでは動いていない。


「場所は?」


「明朝、講義前に南回廊の小談話室前で、短くとのことです」


「分かったわ」


 セレスティアは答える。


「受けると伝えて」


 侍女見習いの少女が、一瞬だけ目を上げる。


 たぶん、断る可能性もあると思っていたのだろう。


「承知いたしました」


「ただし」


 セレスティアは静かに付け加える。


「短くよ。本当に確認だけなら」


「そのままお伝えいたします」


 少女は一礼して去っていく。


 扉を閉める。


 静けさが戻る。


「お嬢様」


 少し後ろで控えていたルークが、低く言った。


「何かしら」


「受けられるのですね」


「ええ」


「リディア・アシュクロフト嬢を、でございますか」


「そうよ」


 セレスティアは机へ戻りながら答える。


「謝罪ではなく確認と言った時点で、少しだけ価値が出たもの」


「と申しますと」


「謝って済ませたいなら、それはそれで安いでしょう?」


 セレスティアは椅子に腰を下ろす。


「でも、確認したいというのは、自分の立ち位置をまだ切っていないってことよ」


「なるほど」


「昼のあの場で、私へ不快をぶつけに来たこと自体は変わらない。けれど、その後で一人ではなく侍女経由にし、しかも“謝罪ではない”と整理してくるなら、そこは見る価値があるわ」


 ルークは静かに一礼した。


「承知いたしました」


 その夜、セレスティアは父への返書の控えをもう一度読み返し、それから灯りを落とした。


 盤面は増えている。

 だが、見失ってはいない。

 そう自分でも確かめるように。


 翌朝。


 南回廊の小談話室前は、講義前の短い時間だけ人が薄くなる場所だった。主要動線からほんの少し外れ、わざわざ用がなければ立ち寄らない。


 だからこそ、短い確認には向いている。


 セレスティアがそこへ着くと、リディア・アシュクロフトはすでに待っていた。


 今日も綺麗だ。

 淡い金髪は丁寧に整えられ、姿勢も美しい。

 だが昨日より少しだけ、作り込んだ柔らかさが薄い。


 それだけで、今日の方がましだと分かった。


「来てくださったのですね」


 リディアが言う。


「ええ」


 セレスティアは必要以上に近づかず、適切な距離で止まった。


「確認したいことがあるのでしょう?」


「はい」


 リディアは一度だけ息を整えた。


「まず先に申し上げます。昨日のわたくしの言い方が、あなたにとって不快であったことは理解しております」


「そう」


「ですが、謝罪をしに来たわけではありません」


「そこは聞いているわ」


「ええ」


 リディアはほんの少しだけ目を伏せ、それから上げた。


「確認したいのは一つです」


「どうぞ」


「あなたは、本当に“男の熱”を利用する気がないのですか」


 直球だった。


 昨日のリディアなら、もっと上品な言い回しで包んだだろう。

 今日はそこを削ってきた。

 悪くない変化だ。


「ないわ」


 セレスティアは即答した。


「少なくとも、今の形では」


 リディアの目が、そこでわずかに動く。


「今の形では?」


「ええ」


「それはどういう意味ですの」


「簡単よ」


 セレスティアは静かに答える。


「人の熱や視線や噂が勝手に集まることはある。でも、それを自分のために使うかどうかは別でしょう」


 リディアは黙って聞いている。


「私は、寄ってきた男を使って自分の位置を上げたいとは思っていない」


「……」


「でも、寄ってきた結果として見える盤面には価値があることがあるわ」


 リディアの眉が、わずかに寄る。


「盤面」


「ええ」


「やはり、その言い方をなさるのですね」


「今さらでしょう」


 セレスティアは続ける。


「第一王子、騎士科、外の貴族子弟、学級、女子寮側。誰がどう寄って、誰がどう嫌がって、誰がどう使おうとするか。それを見ること自体には価値があるもの」


 リディアはしばらく沈黙し、それから低く言った。


「では、利用していないのではなく、“利用対象は男ではなく盤面”ということですのね」


 悪くない要約だった。


「そうね」


 セレスティアはあっさり頷く。


「でも、それはあなたが昨日言いたかった意味とは違うでしょう?」


「ええ」


 リディアも認めた。


「昨日のわたくしは、もっと単純に不快でしたもの」


「そうでしょうね」


「あなたの周囲ばかりが騒がしくて、男たちが勝手に反応して、それが女側へ流れてきて」


 リディアはそこでほんの少しだけ自嘲気味に笑った。


「見苦しいと思っていました」


「男たちが?」


「全部です」


 その答えは予想より率直だった。


「あなたも、男たちも、見ている周囲も」


「なるほど」


「でも、昨日あなたに切られて分かったのです」


 リディアはまっすぐセレスティアを見る。


「わたくしは“見苦しい”の中身を、ほとんど分けていませんでした」


 悪くない、とセレスティアは思った。


 ここまで来るなら、少なくとも浅い謝罪よりはずっと価値がある。


「それで、今日は確認に来たのね」


「ええ」


「私が男を使っているのではなく、男の熱が勝手に寄っているだけか」


「ええ」


「その答えは出た?」


 リディアは一拍だけ黙った。


 そして答える。


「半分は」


「半分?」


「あなたが意図していないのは分かりました」


「そう」


「でも、意図していなくても、結果として周囲へ与える影響は同じです」


 そこがリディアらしいのだろう。


 盤面より感情が先にある。

 だが、感情だけでもない。


「ええ」


 セレスティアは頷いた。


「そこは否定しないわ」


 リディアの表情が少しだけ変わる。


 否定されると思っていたのだろう。


「でも」


 セレスティアは続ける。


「だからといって、私がそこで振る舞いを削る理由にはならないのよ」


「なぜですの」


「私が男を呼んでいるわけではないから」


 即答だった。


「寄ってくる側の熱まで私が管理する気はないわ。でも、その熱が盤面を広げるなら見る。利用しようとするなら切る。ただそれだけ」


 リディアは沈黙する。


 昨日よりずっと静かに、その言葉を受けていた。


「……あなた、やはり変わっていますのね」


「今さらでしょう」


 そう返すと、リディアは小さく息をついた。


「ええ、本当に今さらですわ」


 短い沈黙のあと、彼女は一礼した。


「確認したかったことは、だいたい分かりました」


「そう」


「完全に納得したわけではありません」


「でしょうね」


「でも、昨日の時点よりは、ずっとましです」


 その言い方が少しだけ面白くて、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。


「そう」


「ええ」


 リディアはそこで迷うように一瞬だけ視線を落とし、最後に言った。


「マリアには、今日の話を伝えます」


「好きにしなさい」


「イザベラ様にも、たぶん伝わるでしょう」


「でしょうね」


「その上で、わたくしはまだあなたを好みません」


 それは、ある意味で誠実な宣言だった。


 セレスティアは一瞬だけ目を細め、それから頷く。


「それでいいわ」


「……怒らないのですね」


「好かれるために話していないもの」


 リディアはそこで、初めてほんの少しだけ笑った。


 昨日のような上品な作り笑いではなく、もっと短く、もっと諦めに近い笑いだ。


「本当に、そういう方ですのね」


「ええ」


「では、これで」


 リディアは一礼し、去っていく。


 背筋は最後まで美しい。

 だがその歩幅は、昨日よりほんの少しだけ迷いが少なかった。


 悪くない変化だと、セレスティアは思った。


 少し離れた場所で待っていたルークが近づく。


「お嬢様」


「何かしら」


「いかがご覧になりますか」


 セレスティアは少しだけ考えた。


「リディア・アシュクロフトは、浅いだけではなかったわね」


「ええ」


「不快が先にあるのは変わらない。でも、その不快の中身を切り分けようとはしている」


「保留、でございますか」


「そうね」


 セレスティアは短く答える。


「でも、価値は少し上がったわ」


 ルークは一礼した。


「承知いたしました」


 最凶公爵令嬢は、謝罪より確認を選ぶ女を見る。

 謝って終わらせるのではなく、

 自分がどこで不快になり、

 何を誤解していたのかを確かめに来るなら、

 そこには少しだけ価値がある。


 そして今、

 女子側の盤面はまた少しだけ整い始めていた。


 イザベラは空気を整える。

 マリアは盤面を見る。

 リディアは不快の中身を切り分け始めた。


 それぞれ違う。

 だが違うからこそ、見えるものも増える。


 そして、その日の午後。

 ようやく父――ヴァレリウス・ヴァン・グランフェルからの返書が、

 学園へ届くことになる。

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