第32話 最凶公爵令嬢は、上品な顔の悪意を見逃さない
昼休みの王立アルディオン学園は、いつもなら人の流れがほどよく散る。
大食堂へ向かう者。
中庭へ出る者。
談話室に集まる者。
上位貴族子女用の個室や控え室へ戻る者。
だがその日、一年一組の前を流れる空気には、少しだけ不自然な滞りがあった。
立ち止まるほどではない。
けれど、通り過ぎる速度が揃いすぎている。
誰かが、何かを見ようとしている時の流れだ。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、その熱を感じながら教本を閉じた。
「来るわね」
小さく呟くと、廊下側に控えるルークが低く返した。
「ええ」
「女子側でございます」
「分かるわ」
男の気配なら、もっと単純だ。
興味、対抗心、あるいは露骨な値踏みが先に立つ。
だが今の空気は違う。
柔らかい。
整っている。
そして、その整い方自体が不自然だ。
イザベラ・フォン・クロイツもまた、何かを察しているようだった。自席で令嬢たちと話しているふりをしながら、意識の半分は完全に扉の方へ向いている。
やがて、教室の前に二人の令嬢が現れた。
二年生だ。
制服の細部と学年章で分かる。
どちらも容姿は整っている。片方は淡い金髪を上品に編み込み、もう片方は黒髪を滑らかにまとめていた。姿勢も綺麗だ。声を荒げるような種類ではないと、一目で分かる。
だからこそ面倒だ、とセレスティアは思う。
金髪の令嬢が、扉の前で穏やかに微笑んだ。
「失礼いたしますわ。一年一組のグランフェル様はいらっしゃるかしら」
その声は柔らかい。
だが、柔らかすぎた。
教室内の空気が、見えない針で張られたように静まる。
「何かしら」
セレスティアは座ったまま答えた。
令嬢の視線がこちらへ向く。
その一瞬だけ、笑みの奥で値踏みが走ったのが分かった。
「まあ。ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう」
「二年のリディア・アシュクロフトと申します。こちらは同じく二年のマリア・セルヴェーン」
黒髪の令嬢が一礼する。
「ごきげんよう」
「何の用?」
セレスティアがそう問うと、リディアはほんの少しだけ微笑みを深めた。
「少し、お話ししたいと思いまして」
「ここで?」
「できれば場所を変えて」
「断るわ」
即答。
教室の空気が一瞬だけ揺れる。
だが二年の令嬢たちは驚いた顔をしない。
つまり、それも想定内だ。
「そう仰ると思っておりましたわ」
リディアは穏やかに言う。
「でしたら、ここで少しだけでも」
「内容によるわ」
「そうですわね」
リディアは一拍だけ置いた。
「最近、グランフェル様のお名前をいろいろなところで伺うものですから」
来た、とセレスティアは思った。
やはりこの入り方か。
「それで?」
「同じ学園に通う者として、少しだけ気になっておりましたの」
「何が?」
「ご自身がどう見えていらっしゃるのか、ですわ」
教室の空気が、さらに静まる。
これは露骨な悪意ではない。
だが、明確に悪意を含んでいる。
“どう見えているか自覚しているのか”
つまり、あなたは周囲へ不快を撒いている自覚があるのか、という問いだ。
「面白い聞き方ね」
セレスティアは淡々と言う。
「そうかしら」
「ええ。心配している顔で、人を咎める時の言い方だもの」
リディアの笑みが、ほんの僅かに硬くなる。
だが崩れない。
そういう訓練は積んでいるのだろう。
「咎めるつもりではありませんわ」
「では?」
「ただ、最近のグランフェル様は少し、男の方々との距離が近すぎるように見える時があるものですから」
後方で、誰かが息を呑んだ。
イザベラはまだ動かない。
だが、その視線の温度が少しだけ下がったのをセレスティアは感じた。
「男の方々?」
セレスティアはわざと繰り返した。
「ええ。第一王子殿下、騎士科の上級生、外の貴族子弟の方まで」
リディアは上品な声で並べる。
「もちろん、すべてに問題があるとは申しません。ただ、周囲からどう見えるかは少しだけ意識なさった方がよろしいのでは、と」
やはり上手い、とセレスティアは思う。
直接“ふしだら”だの“軽い”だのは言わない。
あくまで“周囲からどう見えるか”に話をずらす。
女の熱が最も使いやすい形だ。
「あなたは、そう見えるのね」
セレスティアが問うと、リディアは少しだけ首を傾げた。
「わたくし一人がどう思うかではなく」
「でも、あなたもその一人でしょう?」
即座に切る。
リディアが一瞬だけ黙る。
「……ええ、少しは」
「そう」
セレスティアは彼女をまっすぐ見た。
「では、先に確認するわ」
「何でしょう」
「あなたは、私が男を引き寄せているように見える」
「少なくとも、そう受け取る方がいても不思議ではないかと」
「質問に答えて」
静かな一言だった。
だが、それだけで空気の主導権がこちらへ戻る。
「……ええ」
リディアはついに認めた。
「そう見える部分もございます」
「なるほど」
「ですが、それは忠告であって――」
「忠告ではないわね」
セレスティアは切った。
「どうしてそう言い切れますの?」
「簡単よ」
セレスティアは椅子に座ったまま、少しだけ顎を引いた。
「本当に忠告なら、最初に“何を見てそう思ったのか”を具体的に言うはずだもの」
リディアの目が細くなる。
マリアという黒髪の令嬢は、横で静かにセレスティアを観察していた。こちらの方がむしろ本体に近いかもしれない、とセレスティアは思う。
「あなたはずっと、“周囲からどう見えるか”しか言っていないでしょう」
セレスティアは続ける。
「つまり、自分の不快を他人の目に預けているのよ」
教室の空気が凍りつく。
あまりにも正確に言い当てられたからだ。
「それは……」
「違う?」
リディアは返せない。
代わりに、ここで初めてマリアが口を開いた。
「グランフェル様」
黒髪の令嬢の声は、リディアより少し低かった。
「では、あなたご自身はどうお考えですの?」
「何について?」
「ご自身の振る舞いが、他の女子生徒へどう見えているかについてです」
こちらの方が少し強い。
上品さを保ちながらも、問うべき芯がぶれていない。
悪くない、とセレスティアは思う。
「そうね」
セレスティアは少しだけ考えるふりをしてから答えた。
「不快に思う人がいること自体は、別に驚かないわ」
その返答に、二人ともわずかに目を動かした。
たぶん、もっと強く否定すると思っていたのだろう。
「でも」
セレスティアは静かに続ける。
「だからといって、私がそこへ合わせて振る舞う理由にはならないでしょう」
沈黙。
「第一王子殿下と話したのも、上級生と話したのも、必要があったからよ。私が男を集めているのではなく、向こうが勝手に来ているだけ」
「それでも」
マリアが言う。
「結果として、あなたの周囲ばかりが騒がしくなる」
「ええ」
「それを気にしないのですか」
「気にするわよ」
セレスティアはあっさり認める。
「面倒だもの」
そこで教室の後方から、かすかな笑いを噛み殺す気配がした。
緊張が少しだけ緩む。
だがセレスティアはそのまま続ける。
「でも、面倒だからって、自分の行動を“見え方”だけで削る趣味はないの」
マリアは静かにセレスティアを見る。
「つまり、他の女子生徒が不快でも?」
「その不快に筋があるなら聞くわ」
セレスティアはまっすぐ返した。
「でも、“男が寄ってくるのが気に入らない”を、私の責任みたいに置かれるなら違うでしょう」
今度こそ、リディアの笑みが揺らいだ。
そこなのだ。
彼女たちが本当に不快なのは、セレスティアの具体的な無礼ではない。
男側の熱が、セレスティアの周囲へ集まって見えること。
それを“見え方の問題”に変換して正当化しようとしている。
だが、その変換ごと切られると苦しい。
「リディア様、マリア様」
そこで、とうとうイザベラが立ち上がった。
声は柔らかい。
だが、明確に場へ入る声だ。
「一年の教室で、そこまで踏み込んで問う必要がおありかしら」
リディアの顔が、わずかに硬くなる。
「クロイツ様」
「ごきげんよう」
イザベラは美しく微笑む。
「ただの確認ですの。あまりに空気が悪くなるような話題でしたら、場を改めた方がよろしいのではなくて?」
助け舟に見える。
だが実際には違う。
これは“その論理でこの場を汚すな”という、イザベラなりの排除だ。
マリアがわずかに目を細める。
「クロイツ様は、グランフェル様を庇われるのですね」
その言い方に、教室の温度が少しだけ下がった。
来た、とセレスティアは思う。
ここでイザベラを引きずり込めれば、
“クロイツがグランフェル側に立った”
という形ができる。
女の空気は、こうやって盤面を増やす。
「庇う?」
イザベラは笑みを崩さない。
「いいえ。場を整えているだけですわ」
「そう見えませんけれど」
「見る目の違いでしょうね」
上手い。
セレスティアは内心でだけ感心する。
否定しすぎず、乗りすぎず、しかし立場は明確に取っている。
「もう十分でしょう」
セレスティアがそこで口を挟んだ。
三人の視線がこちらへ向く。
「何が、ですの?」
マリアが問う。
「あなたたちがどういう種類の不快を持っているかは分かったわ」
セレスティアは静かに立ち上がる。
「でも、その不快を私へ処理させようとしても無理よ」
「……」
「男が勝手に寄ってくる熱を、女の見え方の問題として私へ返すなら、それは筋が悪いもの」
リディアもマリアも、すぐには言い返せなかった。
セレスティアはそこで、最後に一つだけ付け加える。
「ただし」
二人の目が上がる。
「あなたたちが本当に不快なのが、“男が寄ってくること”ではなく“誰かがそれを利用しようとしていること”なら、話は別よ」
空気が止まる。
それは二人にとって想定外の切り返しだったはずだ。
不快をそのまま切るのではなく、
“利用されているなら別”
と盤面を一段上で見せられたのだから。
「どういう意味ですの」
マリアが低く問う。
「そのままの意味よ」
セレスティアは答える。
「私が男を集めていると見るのは自由。でも、その空気を使って何かをしたがる男や女がいるなら、そちらの方がよほど面倒でしょう?」
マリアは黙った。
リディアもまた、もう最初のような上品な余裕だけでは立っていられない顔をしている。
イザベラが、その沈黙を見て小さく息をついた。
「本日は、この辺りでよろしいのではなくて?」
柔らかい声。
だが、これ以上は場を割るという線引きだ。
リディアが先に一礼した。
「……失礼いたしましたわ」
マリアはセレスティアを数秒見つめ、それから言う。
「またお話しする機会があるかもしれません」
「価値があればね」
セレスティアの返答は変わらない。
二人はそのまま教室を去っていく。
扉が閉まる。
教室内に、遅れて空気が戻った。
「すご……」
「今の、二年の方々よね……」
「クロイツ様まで……」
囁きが一斉に広がる。
イザベラは机の横に立ったまま、わずかに肩の力を抜いた。
「お嬢様」
ルークが低く言う。
「何かしら」
「少々、熱が広がりすぎております」
「ええ」
セレスティアは短く答える。
「でも、今ので一つだけ見えたわ」
「何がでしょう」
「二年女子寮側は、ただ不快なだけではない」
セレスティアは扉の方を見る。
「“その不快を、何に使えるか”まで考えているわね」
イザベラがそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「やはり、そう見ますのね」
「あなたもでしょう?」
「ええ」
イザベラは認める。
「だから嫌なのです」
その一言には、かなり濃い本音が混じっていた。
セレスティアはそれを聞いて、少しだけ口元を上げる。
「悪くないわね」
「何がですの?」
「あなたが、そういう顔をするところ」
イザベラは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑った。
「あなた、本当に人を試しますのね」
「今さらでしょう」
最凶公爵令嬢は、上品な顔の悪意を見逃さない。
それが女の不快に偽装されていても、
場を乱さない言葉に包まれていても、
中身が“利用したい”なら、ちゃんと見抜く。
そして今、
盤面はまた一つ進んだ。
二年女子寮側。
イザベラ・フォン・クロイツ。
そしてセレスティア自身。
この三者の間に、
ただの不快ではなく、
“誰が空気を握るか”という別の線が引かれ始めていた。
そして、その日の放課後。
ディルクではなく、
イザベラでもなく、
マリア・セルヴェーンの方から、
今度は一人で接触してくることになる。




