第26話 最凶公爵令嬢は、切った相手の執着を嫌う
夕暮れの学園は、昼とは別の顔を持っている。
講義と訓練を終えた生徒たちが、それぞれの帰路や談話へ散っていく時間。校舎の白い壁は西日を受けて淡く赤みを帯び、石畳には長い影が落ちていた。
その穏やかな景色の中にあって、セレスティア・ヴァン・グランフェルの機嫌は悪くなかった。
昼の会談で、アルフレッド・レオンハルトとレオン・ハルヴェインが持ってきた話は、少なくとも筋が通っていたからだ。止めるのではなく、選びやすいように場を整理する。そういう提案なら、聞く価値はある。
「お嬢様」
「何かしら」
北回廊を歩きながら、ルークが低く言った。
「少々、後ろが騒がしいかと」
「ええ」
セレスティアも気づいていた。
騒がしいというより、気配が雑なのだ。隠れる気があるようでない。追っていることを悟られたくないが、完全に消すほどの技量もない。あまり好みではない気配だった。
「誰かしら」
「かなり絞られます」
「そうね」
そのまま角を一つ曲がる。
曲がった先、ちょうど小さな中庭へ抜ける手前で、待っていたように姿を現した男がいた。
アーネスト・ヴァルグレイ。
昨日、教室の前で“都合のいい男”として切り捨てた相手だ。
今日も整った顔をしている。だが昨日より少しだけ余裕がない。柔らかい笑みを浮かべてはいるものの、その奥にあるものは明らかに苛立ちだった。
「またあなた」
セレスティアは隠しもせずに言った。
アーネストの笑みが、わずかに引きつる。
「ずいぶんな歓迎ですね」
「歓迎していないもの」
「それでも、少しは話をしていただけるかと」
「昨日の時点で終わっているわ」
ルークが半歩だけ前へ出られる位置を保つ。
アーネストはそれを見ても下がらなかった。
つまり今日は、昨日より少し強く来るつもりなのだろう。
「そう冷たくなさらずに」
アーネストは声を柔らかくした。
「昨日は、私の言い方が悪かったのかもしれません」
「ええ」
セレスティアは即答する。
「かなりね」
「……率直でいらっしゃる」
「今さらでしょう」
そこでアーネストは、一度だけ笑みを消した。
社交の皮を少し剥いだのだろう。だが完全には崩さない。そこが余計に鼻につく。
「では、率直に言いましょう」
「どうぞ」
「あなたは、今のままだと損をします」
セレスティアは一瞬、表情を動かさなかった。
それから、ほんの少しだけ目を細める。
「安いわね」
「何がです」
「脅し文句が」
アーネストの眉がわずかに動く。
「脅しているのではありません。忠告です」
「同じでしょう」
セレスティアは静かに切る。
「“あなたのためを思っている”顔で、“従わないと損をする”と言う人間を、私は忠告とは呼ばないわ」
夕方の空気が、そこで冷えた。
アーネストは数秒、セレスティアを見つめる。
「……あなたは本当に、人の善意を信じませんね」
「善意?」
セレスティアは少しだけ笑った。
「それ、本気で言っているの?」
「少なくとも私は、あなたにとって不利益になる道を避けた方がいいと考えています」
「それが善意?」
「ええ」
「違うわね」
セレスティアの声は静かだった。
「あなたは、“自分が教えてやる立場”にいたいだけよ」
アーネストの顔が硬くなる。
「随分な言いようだ」
「昨日も言ったでしょう」
セレスティアは一歩も引かない。
「あなたは最初から、“学園の中だけに置いておくには惜しい”なんて顔をしていた。つまり、私をどこかへ置いてやる側のつもりだった」
「それの何が悪いんです」
ついに、少し本音が出た。
「悪いわよ」
セレスティアは即答する。
「私を自分の都合のいい場所へ動かせる前提で話しているもの」
ルークの気配がさらに研がれる。
だがセレスティアは続けた。
「あなたみたいな男は嫌いなの」
「……」
「切られた理由も分かっていないでしょう?」
アーネストが黙る。
図星だ。
「あなたは、整った言葉で近づいているつもりでしょうけれど、根っこがずっと同じなのよ。“自分が選ぶ側だ”っていう顔が消えない」
その一言一言が、丁寧に男の自尊心を削っていく。
「ですが」
アーネストは、まだどうにか体裁を保とうとした。
「実際、外の世界は学園の中よりずっと複雑です。あなたほどの方でも、扱い方を間違えれば――」
「またそれ?」
セレスティアは呆れたように言った。
「本当に語彙が薄いのね」
「何ですって」
「あなた、“損をする”“扱いを間違える”“外は複雑”って、そういう言葉しか持っていないでしょう」
アーネストの表情から、ついに柔らかさが消えた。
ようやく本性が出てきた、とセレスティアは思う。
「あなたは、自分が外の論理を知っている側だと思っている。でもね」
セレスティアは淡々と続ける。
「知っていることと、使いこなせることは別よ」
「……」
「もっと言うと、知っていることをいちいち他人へ見せたがる時点で、二流なの」
完全に沈黙が落ちた。
アーネストの目の奥に、はっきりとした怒りが宿る。
もう隠しきれていない。
整った男の皮が剥がれ始めている。
「お嬢様」
ルークが低く言う。
「これ以上は」
「ええ」
セレスティアは頷く。
「もう十分ね」
そしてアーネストを見る。
「私はあなたを選ばないわ」
最後通牒のように言った。
「これで終わり。次に来るなら、今度は迷惑として処理する」
アーネストの顔色が変わる。
「そこまで言いますか」
「ええ」
「私はただ――」
「ただ?」
セレスティアは冷たく返す。
「切られたことが気に入らないだけでしょう」
その一言で、全部終わった。
アーネストの口元が震える。
怒り。屈辱。
そして何より、“自分はまだ余裕のある側だ”という顔を保てなくなった焦り。
それが全部出た。
「……あなたは」
低い声だった。
「本当に、厄介な方だ」
「今さらでしょう」
返しもまた、いつも通りだった。
アーネストは数秒立ち尽くし、それからようやく踵を返した。去り際の背中には、昨日のような余裕も、柔らかな仮面もない。
ただ、切られたことに執着している男の背中だった。
足音が遠ざかる。
ルークが完全に気配を解いたのは、それを見送ってからだった。
「お嬢様」
「何かしら」
「案の定、でございました」
「ええ」
「切られたことそのものに執着しておりましたね」
「安い男ほどそうなるもの」
セレスティアは淡々と言った。
「自分が拒絶される想定をしていないから、そこで止まるのよ」
「たしかに」
「厄介なのは、ああいうのが勝手に物語を作ることね」
「ご自分の中で、でございますか」
「ええ。“自分は善意で近づいたのに切られた”とか、“相手が無礼だった”とか、都合のいい形にするでしょう」
ルークは静かに一礼した。
「その点は、わたくしも同感です」
「だから先に言っておいたのよ」
「迷惑として処理すると」
「ええ」
セレスティアは中庭の方へ視線を向けた。
夕方の風が低木を揺らす。空は少しずつ色を落とし、学園の一日は終わりへ向かっている。だが、自分の周囲だけは相変わらず静かに終わってくれない。
「お嬢様」
「何」
「本日の一件、クロイツ嬢あたりは好ましく思うかもしれません」
「どういう意味かしら」
「お嬢様が、あの種の外の男を明確に切ることが確認されましたので」
なるほど、とセレスティアは思った。
イザベラ・フォン・クロイツにとって、アーネストのような男は不快なはずだ。空気も、人の立ち位置も、何もかも“外から当然のように触る”顔をしているから。
「そうね」
セレスティアは短く答えた。
「でも、だからといって借りが増えるわけではないわ」
「もちろんでございます」
「ただ」
少しだけ言葉を切る。
「イザベラがああいう男を嫌うなら、そこは少しだけ話が早いかもしれないわね」
ルークはそれに一礼で応じた。
最凶公爵令嬢は、切った相手の執着を嫌う。
拒絶されたことに意味を見出し、
自分の中で都合よく物語を作る男は、
最初から最後まで価値がない。
そしてその価値のなさを、今度は周囲が見ていく。
アーネスト・ヴァルグレイは、ここで終わる男ではないかもしれない。
だが少なくとも、セレスティアの前ではもう終わった。
それがどう波及するか。
誰がどう拾うか。
学園ではいつだって、切った後の方が少し面倒だ。
そして翌日。
その面倒を最初に拾いに来るのは、
やはりイザベラ・フォン・クロイツだった。




