第24話 最凶公爵令嬢は、人を変えたつもりはない
翌朝の一年一組は、いつも以上に妙な均衡の上に成り立っていた。
静かではない。
けれど、騒がしくもない。
誰もがそれぞれに会話をし、席に着き、教本を開いている。令嬢たちは上品に笑い、令息たちは何でもない顔で朝の時間を消費している。
だが、その全部の下に、明らかな観察が流れていた。
昨日の放課後。
中庭で、ディルクがセレスティアへ話しかけたこと。
それ自体を見ていた者は多くない。だが、少ないからこそ、見た者の話は早く広がる。
模擬戦の直後ならまだ分かる。
けれどその翌日、今度は挑発でもなく、喧嘩でもなく、落ち着いた顔で話しに来た。
そこに意味を見出す人間は、学園には少なくない。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、その空気を感じながら席へ着いた。
「お嬢様」
「何かしら」
廊下側に控えたルークが、低く言う。
「本日は、昨日までと少々種類が違います」
「ええ」
「恐れと値踏みだけではございません」
「でしょうね」
セレスティアは机に手を置いたまま、淡々と答える。
「今度は“どう関わるべきか”を考え始めている目が混じっているもの」
「左様でございます」
それは面倒で、同時に当然でもあった。
人は強さそのものに慣れると、次はその強さが自分へ向くのか、逸れるのか、利用できるのかを考え始める。
純粋な恐れの段階は、もう少し前に過ぎている。
「ごきげんよう、グランフェル様」
柔らかな声がした。
イザベラ・フォン・クロイツだった。
今日も完璧な笑みを浮かべている。だが、机の横まで来た時点で、その笑みの奥にある本音は半分ほど透けていた。
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
「本当に、人を変えてしまいますのね」
セレスティアは一瞬だけ目を細めた。
周囲に聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声量。
だが内容は、明らかに昨日の件を指している。
「誰のことかしら」
「ディルク先輩ですわ」
イザベラは微笑んだまま言う。
「昨日の中庭でのやり取りを見た方が、少しだけいらしたようですの」
「そう」
「ええ。驚きましたわ。あの方が、ああいう顔であなたへ話しに来るなんて」
「私は変えたつもりはないわ」
「そうでしょうね」
イザベラは即答した。
「でも、変わったこと自体は事実ですわ」
セレスティアはその言葉を聞いて、小さく息をついた。
「負けた後に少しまともだっただけでしょう」
「それを“少しまとも”で片づけられるのは、たぶんあなたくらいですわ」
その返しに、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。
「失礼ね」
「いいえ、事実認識ですもの」
イザベラはそこで少しだけ表情を緩める。
社交の笑みではある。
だがいつもより少し体温がある。
この女もまた、ディルクのような上級生が変化したことを軽くは見ていないのだろう。
「何か困ることでも?」
セレスティアが問う。
イザベラは一拍だけ考え、それから率直に言った。
「困りますわね」
「また?」
「ええ、またです」
そこに冗談の色は薄い。
「あなたの周囲で起きる変化は、いつも少し速すぎるのです」
「そうかしら」
「ええ」
イザベラは静かに続ける。
「学級の中だけならまだ調整のしようがあります。誰が誰を怖れているか、誰がどこで不満を漏らすか、誰を近づけて誰を遠ざけるか。そういう空気は、ある程度読むことができますもの」
「でも、外は違う」
「ええ」
イザベラの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「騎士科の上級生、王族に近い家、学園の外の政治。そのあたりがあなたに触れ始めると、こちらの見える範囲を越えてきます」
「それで困るのね」
「困りますわ」
やはり誤魔化さない。
そこは好ましいと、セレスティアは思った。
「でも、あなたは困ると言いながら、止めろとは言わないのね」
その問いに、イザベラはほんの少しだけ笑った。
「申し上げても無駄でしょう?」
「ええ」
「でしたら、意味のないことは言いませんわ」
正しい。
少なくとも、今の時点では。
「だからせめて」
イザベラは少しだけ声を落とした。
「次に外側が動く前に、何か気配があれば知りたいのです」
「またその話?」
「ええ」
イザベラは微笑む。
「諦めが悪いのは承知しております」
「知っているわ」
「でも、あなたの周囲で盤面が変わる時、わたくしが完全に後手に回るのは好みではありませんの」
そこまで言うと、この女らしさがよく出る。
守りたいのは学級でも、自分の位置でも、たぶんどちらもだ。
そして、それを隠しきらない程度には、今の関係を見積もっている。
「保留よ」
セレスティアは前にも出した答えを、今回もそのまま出した。
「でも」
「ええ」
「あなたが今みたいに、本音で来るなら考える余地はあるわ」
イザベラの目が、ほんのわずかに和らいだ。
「それは、前進と取っても?」
「好きにしなさい」
「では、前進ということにしておきますわ」
その返しに、セレスティアは少しだけ面白くなった。
「都合がいいのね」
「生き残るには必要ですもの」
会話はそこで終わった。
イザベラは一礼し、自席へ戻る。周囲の令嬢たちは何も聞いていない顔をしているが、聞こえる範囲の者には十分聞こえていただろう。
それでもいい。
この程度の会話なら、逆に聞こえていた方が都合がいいこともある。
「お嬢様」
「何かしら」
ルークが低く言う。
「クロイツ嬢、かなり寄せてきております」
「ええ」
「いかがご覧になりますか」
セレスティアは少しだけ考えた。
「悪くないわね」
「相変わらずでございます」
「そう?」
「ええ。お嬢様は、価値があると判断した相手には一貫して甘い」
その言葉に、セレスティアはゆっくり視線を上げた。
「甘い?」
「少なくとも、切り捨て方が少し遅くなります」
「失礼ね」
「事実でございます」
セレスティアは反論しなかった。
ルークのこういう評価は、たいてい正確だ。
イザベラに対しても、レオンに対しても、ディルクに対しても、最初の切り方より少しだけ手が残るようになっている。
それは甘さというより、“見る価値がある”と判断したからこそだが、結果としては似たようなものなのかもしれない。
「まあ、いいわ」
そう言って教本を開く。
「価値がなくなったら切るもの」
「承知しております」
ルークは一礼した。
午前の講義は静かに進んだ。
だが、その静けさの裏では確実に線が増えている。
イザベラはもう、セレスティアを“学級内の変数”としてだけ扱っていない。
レオンは観察者の位置から半歩踏み込んでいる。
ディルクは負けた後、言葉を整えてもう一度近づいてきた。
外の政治も、匿名で測ろうとし始めた。
そして学級全体もまた、その変化を見て、自分の距離を測り直している。
昼休み前、そんな空気を破るように、教室の外で一つのざわめきが起きた。
以前ならもう少し軽かっただろう。
だが今は違う。
周囲が先に“また何かだ”と察するざわめきだ。
セレスティアは顔を上げる。
扉の外に立っていたのは、レオン・ハルヴェインだった。
ただし今日は、昨日までと違って一人ではない。
その隣には、もう一人、見覚えのある人物がいた。
アルフレッド・レオンハルト第一王子。
教室の空気が、本当に止まった。
「これは、また」
セレスティアは小さく呟いた。
面倒ね、と続けそうになって、やめる。
これは面倒というだけではない。
盤面がまた一段、上がったのだ。
第一王子と、騎士科上位のレオンが並んで一年の教室前へ来る。
それが意味するものを、理解できないほど周囲は鈍くない。
アルフレッドは教室内を一度見渡し、それからまっすぐセレスティアを見た。
「少し、時間をもらえるか」
その声は以前と同じ、静かで無駄のないものだった。
だが今この状況では、その静かさ自体が十分に重い。
セレスティアは立ち上がる。
「内容によるわ」
返答もまた、いつも通りだった。
それが、この教室にいる者たちにとってどれほど異様なことかを理解していながら、理解していないように自然に。
最凶公爵令嬢は、人を変えたつもりはない。
ただ、価値があるなら見て、
価値があるなら話すだけだ。
だがその結果、
人も、空気も、盤面も、
勝手に変わっていく。
そして今、
その変化はついに、
王族と騎士科上位が並んで迎えに来るところまで来ていた。




