第23話 最凶公爵令嬢は、負けた後の言葉を見る
放課後の中庭は、昼間より少しだけ静かだった。
講義を終えた生徒たちは、それぞれの居場所へ散っている。談話室へ向かう者。寮へ戻る者。訓練場へ急ぐ者。あるいは、わざと人目の多い回廊を選んで歩く者。
その流れの中で、セレスティア・ヴァン・グランフェルは珍しく足を止めていた。
中央の噴水から少し離れた石畳の脇。花壇と低木に囲まれた小さな一角で、彼女は夕方の風を受けながら立っている。図書室へ向かう前に少しだけ思考を整理したかった。
アーネスト・ヴァルグレイ。
ああいう男は嫌いだ、と改めて思う。
整えているようでいて、最初から“扱う側”の顔をしている。言葉は柔らかいのに、相手へ勝手に位置を与える前提で話す。あの種類の男は、剣で来る相手よりずっと面倒だ。
「お嬢様」
「何かしら」
ルークが半歩後ろから静かに声をかける。
「本日は、少々お疲れのご様子で」
「そう見えるの?」
「ええ。苛立ってはおられませんが、好ましくないものを見たあとのお顔でございます」
セレスティアは少しだけ口元を上げた。
「よく見ているのね」
「当然でございます」
「そう」
その時だった。
「ようやく見つけた」
聞き覚えのある男の声がした。
振り返るまでもない。
ディルクだ。
夕陽を背に、中庭の石畳をこちらへ歩いてくる。三年騎士科の制服の上着は着崩していない。歩き方にも妙な荒さはなく、今日は最初から“話しに来た”顔だった。
それだけで、昨日までとは少し違う。
「何かしら」
セレスティアが問う。
ディルクは数歩手前で止まった。近すぎない。だが遠くもない。ちゃんと話をする気のある距離だった。
「少し時間をもらえるか」
「内容によるわ」
「分かってる」
ディルクは小さく息を吐いた。
「今日は、変な誘いじゃない」
「では何?」
「礼と確認だ」
セレスティアはそこで初めて、ほんの少しだけ面白くなった。
「礼?」
「そうだ」
ディルクは一瞬だけ視線を逸らし、それからまっすぐ戻す。
「昨日の模擬戦、受けてくれたことに対してだ」
ルークの気配が、ほんの僅かに変わる。
警戒ではない。意外そうな、しかし観察を強める変化だ。
「ずいぶんまともなのね」
セレスティアが言うと、ディルクは笑った。
「俺もそう思う」
「気持ち悪いわね」
「そこまで言うか」
「今さらでしょう」
ディルクは苦笑する。
だが、昨日までのような熱っぽさはない。むしろ負けた後で一度整理し、自分の言葉を選んで来た顔だ。
「礼は本当だ」
彼は続ける。
「お前が受けなきゃ、たぶん俺はもっと面倒なやり方をしてた」
「でしょうね」
「否定しないのか」
「事実でしょう」
ディルクは少しだけ肩を竦めた。
「そうだな」
「それで?」
「それで、昨日ちゃんと負けて分かったことがある」
「何かしら」
ディルクは数秒だけ黙った。
その沈黙は妙だった。言いにくいというより、自分の中で言葉を乱暴にしないよう掴んでいる感じだ。
「お前」
ようやく口を開く。
「思ったより、ずっとまともだな」
セレスティアは一瞬、表情を動かさなかった。
それから、ごくわずかに目を細める。
「失礼ね」
「分かってる」
ディルクは苦笑した。
「でも本音だ。もっとこう……強いだけで押し切る手合いだと思ってた」
「安い評価ね」
「そうだな。安かった」
それをそのまま認めるあたり、昨日よりはだいぶましだ。
「じゃあ今は?」
セレスティアが問うと、ディルクは答えた。
「強い。頭も切れる。面倒。容赦がない。嫌なところまで見る」
「褒めていないでしょう」
「半分は褒めてる」
「半分しか?」
「全部褒めるとお前、気持ち悪がるだろ」
それは正しかった。
セレスティアは少しだけ口元を上げる。
「正解ね」
ディルクも笑う。
「だろうな」
夕方の風が、二人の間を抜ける。
中庭にはまだ数人の生徒がいる。だがここまで近い距離で話を聞いている者はいない。遠目にはただ上級生が公爵令嬢へ話しかけているようにしか見えないだろう。
「確認って何?」
セレスティアが話を戻す。
「昨日の続きだ」
ディルクの声が少し低くなる。
「お前、またやってもいいと思ってるか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
相手を見る。
これは挑発ではない。少なくとも、今この瞬間は。
勝ち負けそのものより、“もう一度ちゃんと向き合えるか”を聞いている顔だ。
「条件次第ね」
そう返すと、ディルクの目がわずかに細くなる。
「条件、か」
「ええ」
「厳しいな」
「当然でしょう」
セレスティアは静かに言う。
「昨日は価値があった。だから受けた。でも、毎回付き合うほど暇ではないわ」
「つまり、価値がある形ならまだあり得る」
「そういうこと」
ディルクはそこで、少しだけ満足そうな顔をした。
「なら十分だ」
「何が?」
「完全に切られたわけじゃない」
「今のあなたは、そこまで安くないもの」
その言葉に、ディルクが一瞬だけ黙る。
嬉しいというほど単純ではない。だが確かに、相手からの評価を受け止めた顔だった。
「お嬢様」
ここでルークが初めて口を挟んだ。
「確認してもよろしいでしょうか」
「何かしら」
「ディルク先輩」
ルークの視線がまっすぐ向く。
「次にお声がけになる場合、少なくとも今朝のような教室への踏み込みはお控えいただけますか」
静かな口調だが、内容は明確だった。
ディルクはルークを見る。
数秒、互いに何も言わない。
そしてディルクが先に口元を緩めた。
「……当然だ」
「承知いたしました」
「信用してない顔だな」
「しておりませんので」
あまりにもはっきり言われて、ディルクが本当に笑った。
「いい護衛だな」
「存じております」
ルークは一歩も引かない。
セレスティアはそのやり取りを見て、少しだけ気分が良くなった。
この主従の形を、軽く見ない相手は嫌いではない。
「それで」
セレスティアが言う。
「礼と確認は終わり?」
「ああ」
ディルクは頷く。
「あと一つだけ言うなら」
「何かしら」
「今朝、ヴァルグレイの坊主がお前に声をかけたらしいな」
セレスティアの目が、わずかに細くなる。
「ずいぶん耳が早いのね」
「騎士科にも流れてくる」
「そう」
「気をつけろ、とは言わない」
ディルクは淡々と言う。
「お前なら自分で切るだろうからな」
「ええ」
「ただ、ああいうのは一人で終わらない」
「知っているわ」
「ならいい」
そこまで言って、ディルクは少しだけ視線を逸らした。
「あと」
「まだあるの?」
「これは礼とは別だ」
「どうぞ」
「イザベラ・フォン・クロイツ」
その名に、セレスティアは黙って反応を待つ。
「お前、あいつのことを少し変えたな」
意外な切り口だった。
「どういう意味かしら」
「見てれば分かる」
ディルクは肩を竦める。
「前はもっと、“学級の空気を整える侯爵令嬢”って顔だけだった。今はそこに、お前を見る目が混じってる」
「よく見ているのね」
「お前のことを見てると、つい周りも目に入る」
それは正直すぎて、少し笑える言い方だった。
「それで?」
「別にそれだけだ」
「中途半端ね」
「忠告じゃないからな」
ディルクはそう言うと、一歩下がった。
「じゃあ、今日はこれで終わりだ」
「ええ」
「次に来る時は、もう少しましな顔で来る」
「そうするといいわ」
「お前もな」
「私はいつも通りよ」
その返しに、ディルクは少しだけ笑い、踵を返した。
背中に妙な熱はない。
敗北を引きずる湿り気もない。
ちゃんと負けを持ち帰って、少しだけまともになってきた人間の背中だ。
悪くない、とセレスティアは思う。
ディルクが去った後、ルークが低く言った。
「お嬢様」
「何かしら」
「かなり変わりましたね」
「ええ」
「負けた後の質が悪くない」
「そこが一番大事でしょう」
セレスティアは中庭の先を見た。
夕陽が校舎の壁を染めている。影が長い。学園は、見た目だけなら穏やかだった。
「勝った時の顔より、負けた後の言葉の方がよく見えるもの」
「たしかに」
「ディルク先輩は、そこを濁さなかった」
「ええ」
「だから、次があるかもしれないわね」
ルークは静かに一礼する。
「承知いたしました」
最凶公爵令嬢は、負けた後の言葉を見る。
どれほど強い剣でも、
どれほど整えた顔でも、
負けた後に濁るなら価値は落ちる。
だがディルクは、そこを濁さなかった。
だから一度きりの面倒な上級生では、少しなくなった。
そして翌日。
その変化を最も敏く拾うのは、
やはりイザベラ・フォン・クロイツだった。
彼女は笑顔のまま、
少しだけ呆れたようにこう言うことになる。
――本当に、人を変えてしまいますのね。




