第20話 最凶公爵令嬢は、真正面から来た剣を受ける
放課後の第二訓練場は、いつもより明らかに静かだった。
人がいないわけではない。
むしろ、いる。
ただしその数は絞られていた。
騎士科補助訓練の名目で場は開かれているが、ガレス・ドレイクの指示により、見学は制限付きになっている。騎士科の一部生徒、訓練関係の教師、必要最小限の立会人。野次馬としての見物人は、入り口の時点でかなり弾かれていた。
それでもなお、空気は濃い。
見たい者だけが残っているからだ。
セレスティア・ヴァン・グランフェルが訓練場へ入ると、その濃さがわずかに揺れた。
普段の学級内とは違う。
ここにいるのは、少なくとも剣に意味を見ている者たちだ。
だから視線も、単なる好奇心だけではない。
測る目。
確かめる目。
そして、まだ見ぬものへの期待。
「お嬢様」
「何かしら」
ルークが低く声を落とす。
「かなり絞られております」
「ええ」
「ですが、それでも十分に多い」
「だからいいのよ」
セレスティアは淡々と言った。
「変な尾ひれがつきにくいもの」
見られすぎるのは面倒だ。
だが、見られなさすぎるのも厄介だ。
閉じた場での模擬戦は、後でどうとでも語られる。だからこそ、今日くらいの人数がちょうどいい。
訓練場中央では、すでにディルクが待っていた。
木剣を手にしている。立ち方は昨日よりさらに整っていた。熱が消えたわけではない。だが、その熱を剣の前に出しすぎない程度には整理してきている。
そしてそれは、セレスティアにとって十分な変化だった。
「来たか」
ディルクが言う。
「ええ」
「逃げないな」
「逃げる理由がないもの」
セレスティアは壁際の木剣架台から一本を取り、重さを確かめるように軽く振った。
訓練用の標準木剣。
癖は少ない。
特別な得物ではない。
だからこそ、誤魔化しが利かない。
「お嬢様」
ルークがごく低く言う。
「何」
「お気をつけて」
「もちろん」
「ディルク先輩は、昨日よりずっと良い顔をしておられます」
「ええ」
セレスティアは木剣を持ったまま訓練場中央へ歩く。
その途中、見学列の中にレオン・ハルヴェインの姿を見つけた。彼は壁際寄りで、騒がず、しかし最も見やすい位置に立っている。
視線が合う。
ほんの一瞬だけ、レオンが目を細めた。
気をつけろ、ではない。
見せてくれ、に近い目だった。
悪くない、とセレスティアは思う。
ガレスが中央へ出る。
「条件は確認済みだな」
「ええ」
セレスティアが答える。
「問題ない」
ディルクも頷く。
「木剣のみ。模擬戦。勝敗は有効打で見る。必要以上の追撃は禁止。感情的な延長は認めん」
ガレスの視線が二人を順に貫く。
「特にディルク。今日は訓練だ」
「分かっています」
珍しく、ディルクは素直に返した。
「グランフェル」
「ええ」
「お前も、必要以上に切るな」
「善処します」
その返答に、ガレスが少しだけ眉を寄せた。
だがそれ以上は言わない。
「構え」
訓練場の空気が変わる。
セレスティアは木剣を静かに構える。高くも低くもない。無駄がなく、けれど防御一辺倒でもない構えだ。
対するディルクは、やや前重心。圧をかけるのが本来の型なのだろう。だが、以前見た時より角が削れている。押し込み一辺倒ではなく、間を見るつもりでいるのが分かる。
だからこそ、悪くない。
「始め」
ガレスの合図と同時に、二人が動く。
最初の一手は、探りだった。
ディルクが踏み込む。
重い。
だが前回のように勢いだけで圧すのではない。入る角度に迷いがなく、受けさせる位置も選んでいる。
セレスティアは正面から受けず、半歩ずらして木剣を滑らせた。
乾いた音。
互いにすぐ離れる。
ざわ、と見学列が揺れる。
「やっぱり速い……」
「でも前と違う」
「ディルク先輩、押しつけてない……」
セレスティアは内心でだけ頷いた。
本当に整えてきた。
感情で押し潰す剣ではない。
少なくとも今の一手には、相手の反応を見ようとする冷静さがあった。
二手目。
今度はセレスティアが入る。
真正面ではない。ディルクの利き足側へ少しだけ軸をずらし、重心の変化を探るように踏み込む。ディルクはそれを読んでいたらしく、受けではなく捌きで返した。
悪くない。
三手。四手。
打ち合いは静かだった。
速い。
だが荒れていない。
互いに“勝ちたい”以上に、“相手を見たい”が前にある。
そのせいで、一手ごとの密度が高い。
見学者たちが息を潜め始める。
もう、軽口は消えていた。
五手目で、ディルクが一度だけ強く来た。
真正面からの圧。だが以前のような雑な押しではない。受けさせた上で、そこから崩すための重さ。
セレスティアはそれを受け、次の瞬間には木剣を回し込んで軌道をずらす。
ディルクの目がわずかに細くなる。
読んだ。
だが、読み切れなかった。
そういう顔だ。
そこへセレスティアが返す。
速さよりも、位置。
ディルクが下がる。
完全には崩れない。
けれど、主導権がほんの一瞬だけ入れ替わる。
見学列の空気が張りつめる。
「……っ」
「今、どっちが……」
「まだ分からない」
その通りだった。
どちらも、まだ“決め”に行っていない。
決める前に、相手の底を見ようとしている。
ディルクが笑った。
声には出さない。
だが、口元だけで笑う。
先ほどまでの苛立ちではない。
本当に面白いものに当たった時の顔だ。
「いいな」
小さく、それだけ言った。
「そう」
セレスティアは淡々と返す。
「ようやく剣らしくなったわね」
その言葉で、ディルクの足が一瞬だけ止まりかける。
止まりかけた、というのが重要だった。
完全に止まらない。
だが、響いている。
次の瞬間、ディルクが大きく踏み込んだ。
今度は見せるためではない。
取りに来た。
その意思が明確に出ている。
セレスティアは半身を引き、木剣の腹で角度を殺す。だが、ディルクはそこからさらに追ってきた。重心がぶれない。これは先ほどまでと違う。
整えてきた剣に、決断の重さが乗った。
悪くない、とセレスティアは思った。
だから今度はこちらも、少しだけ深く入る。
木剣が交差する。
軋む音。
力は拮抗しない。ディルクの方が重い。
だが、セレスティアはその重さを真正面から受けず、わずかにずらしながら踏み込みの内側へ入った。
近い。
ディルクの瞳が、そこで初めて大きく動く。
近すぎる。
この間合いは、もう圧だけでは支配できない。
セレスティアの木剣が、最短距離で上がる。
ディルクが反射で受ける。
受けきる。
だが完全ではない。
次の一瞬、セレスティアは自分から下がった。
見学列がざわつく。
「今、入ったのに……」
「なぜ引いた?」
「決められた……?」
レオンだけは、黙って見ていた。
分かっている顔だった。
今のは決めに行かなかったのではない。
決めに行けたが、あえて切ったのだ。
まだ見る価値があるから。
ディルクが息を吐く。
荒れてはいない。
だが、今の一瞬で完全に理解したのだろう。
目の前の公爵令嬢は、思った以上に深いところまで入ってくる、と。
「……なるほど」
ディルクが言う。
「何が?」
セレスティアは構えを崩さない。
「俺がお前を面白がっていたんじゃない」
見学列が静まる。
「逆だな」
その言葉に、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。
「ようやく気づいたの?」
次の瞬間、空気がまた変わった。
ディルクの中で何かが切り替わる。
苛立ちではない。
熱でもない。
もっと単純な、剣士としての集中だ。
そしてそれは、セレスティアが見たかったものでもあった。
再開。
今度の打ち合いは、さらに静かだった。
音だけが響く。
乾いた木剣の衝突。
踏み込み。
衣擦れ。
吐息。
ディルクはもう、無理に押し込まない。
セレスティアも、ただ躱すだけではない。
互いに相手の選択肢を削りながら、一番深いところへ入れる一手を探す。
十手、十五手、二十手。
長い。
だがだれていない。
むしろ、見る側の呼吸が追いつかなくなる。
やがて、その均衡が崩れた。
ディルクが一瞬だけ、右足へ重心を寄せた。
癖ではない。
打ち込みの前の“溜め”だ。
セレスティアはそれを見た瞬間、前へ出る。
ディルクも同時に動く。
正面からぶつかる形。
だが、その半歩の差で、セレスティアの木剣が内側を取った。
乾いた鋭い音。
次の瞬間、セレスティアの木剣の先が、ディルクの首筋へ寸前で止まっていた。
完全な有効打。
訓練場が静まり返る。
誰も声を出さない。
ディルクの目だけが、真正面からセレスティアを見ていた。
悔しさはある。
だが、それ以上に、納得があった。
「……そこまで」
ガレスの声が入る。
セレスティアは木剣を引く。
ディルクも、すぐには動かなかった。
数秒の後、ようやく一歩下がる。
「勝敗は明白だ」
ガレスが言う。
「グランフェルの有効打」
見学列が遅れてざわめく。
「勝った……」
「ディルク先輩に……?」
「本当に……?」
「いや、でも……」
だが、そのざわめきの質は、いつもの軽さではなかった。
目の前で見たのだ。
真正面から整えて来た三年騎士科の上級生を、セレスティアが正面から取り切ったことを。
ディルクは木剣を下ろし、数秒だけ黙っていた。
そして。
「……負けだ」
はっきりと言った。
濁さない。
言い訳もしない。
条件どおりだ。
セレスティアはそれを見て、少しだけ満足した。
「ええ」
「お前、やっぱり嫌なところまで見てるな」
「今さらでしょう」
ディルクは、そこで初めて本当に笑った。
悔しさを飲み込んだ上での笑いだ。
負けたことをごまかさない顔。
悪くない、とセレスティアは思う。
「面白かった」
ディルクがそう言う。
「そう」
「またやろう」
「整えて来るならね」
その返しに、ディルクは木剣を肩へ担ぎかけて、途中でやめた。今の自分には、その仕草が少し軽く見えるとでも思ったのだろう。そういうところまで、今は少しだけ変わって見えた。
ガレスが前へ出る。
「終わりだ」
教師の声音は低いが、どこか納得も混じっていた。
「野次馬どもはもう散れ。お前たちが見たのは訓練だ。余計な尾ひれをつけるな」
そんなことが効くとは思えない。
だが、それでも教師として言うべきことなのだろう。
セレスティアは木剣を返しに向かう。
ルークが静かに近づいた。
「お嬢様」
「何かしら」
「お見事でございました」
「そうでもないわ」
「ディルク先輩は、かなり整っておられました」
「ええ」
「それでも取り切られた」
「だから価値があったのよ」
ルークは一礼する。
「承知いたしました」
木剣を架台へ戻すと、視線を感じた。
レオン・ハルヴェインだ。
見学列の端からこちらを見ている。驚きではない。
むしろ、ようやく見たかったものを見た人間の目だった。
「何かしら」
セレスティアがそのまま問うと、レオンは近づいてきた。
「いえ」
彼は小さく笑う。
「やはり、受けて正解でしたね」
「そうね」
「ディルク先輩も、たぶん同じことを思っているでしょう」
その通りだろう。
負けた。
だが、安くはなかった。
そういう負け方だった。
「あなたは」
セレスティアが言う。
「満足した?」
レオンは一拍だけ考え、それから正直に答えた。
「ええ。かなり」
「そう」
「ただ」
「何?」
「これで終わらないとも思っています」
その言葉に、セレスティアは少しだけ目を細めた。
そうだろう。
学園はこういう勝負を、一度で終わらせてはくれない。
一年公爵令嬢が三年騎士科上位を正面から取った。
その事実だけで、また別の熱が生まれる。
「ええ」
セレスティアは静かに答える。
「知っているわ」
最凶公爵令嬢は、真正面から来た剣を受ける。
そして受けた上で、価値があれば取り切る。
ディルクは負けを濁さなかった。
だからこの模擬戦は、ただの見世物では終わらなかった。
だが同時に、その結果は新しい波紋を呼ぶ。
騎士科。
学級。
王族。
そして学園の外。
セレスティア・ヴァン・グランフェルという名は、
もう“面倒な公爵令嬢”の枠では収まりきらない。
そして翌日。
その波紋の中で、
最初に動くのはイザベラ・フォン・クロイツだった。
彼女は笑顔のまま、
こう言うことになる。
――少し、困りましたわね。




