第15話 最凶公爵令嬢は、陰口ごと切り捨てる
その日の夕方、王立アルディオン学園の空気は妙に乾いていた。
春の終わりに差しかかった風はまだ冷たくはない。だが、校舎の石壁に反射する夕陽の色だけがやけに鋭く、長く伸びた影の中に人の感情を濃く沈ませているようだった。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、本棟西側の回廊を歩いていた。
今日の講義は終わっている。寮へ戻る前に、図書室で確認したい資料が一つあった。王国建国期の地方軍制に関する記述で、昨日の政治学の講義中に少し違和感を覚えたからだ。
頭の中では、まだ先ほどのレオン・ハルヴェインとの会話が整理されていた。
ディルクは正面からだけでは来ない。
レオンはそう見ている。
セレスティア自身も同感だった。
あの手合いは、相手を試す時、真正面の勝負だけで満足しない。崩れ方を見たがる。つまり、剣でなくてもよいのだ。空気でも、噂でも、人間関係でも、相手の姿勢が崩れるなら、それは十分な観察対象になる。
「お嬢様」
「何かしら」
ルークが半歩後ろから静かに声をかける。
「少々、人の流れが不自然でございます」
「ええ」
セレスティアも気づいていた。
西側回廊は、この時間なら本来もっと静かだ。だが今は、人がいないのではなく、意図的に“いなくなっている”空気がある。少し前まで誰かがいて、だが今は角の向こうへ引いた。そういう種類の空白だ。
そして、その空白の先から聞こえてきた。
「――だから言ったんだよ。あの女、頭がおかしいって」
男の声。
若い。おそらく一年か二年。
もう一つ、少し笑いを含んだ別の声が続く。
「でも、あれだけ王子殿下や上級生に目をつけられて、逆にいい気になってるんじゃないのか?」
「気取ってるだけだろ。強いとか何とか言われてるけど、結局は公爵家の娘ってだけだ」
「それにクロイツ様まで変に関わってるのが意味分からないよな」
「利用価値があるんじゃないか? どうせああいうのって、持ち上げれば勝手に気持ちよくなるだろ」
セレスティアは足を止めない。
だが、ルークの気配だけが一段冷えた。
角を一つ曲がれば、声の主たちは見える位置に出る。
おそらく相手は、こちらが聞いていると思っていない。あるいは、半分は聞かせるつもりで言っている。どちらにしても安い。
角を曲がる。
そこには男子生徒が三人いた。
一年の制服が二人。二年が一人。壁際に寄りかかるように立ち、さっきまで随分気安く人の品定めをしていたらしい。
セレスティアの姿を見た瞬間、三人とも目を見開いた。
完全に想定外だった顔だ。
「……続けなさいな」
セレスティアは立ち止まり、静かに言った。
「面白い話をしていたのでしょう?」
沈黙。
一年の男子のうち一人が、青ざめたまま一歩下がる。もう一人は虚勢で立とうとしているが、喉が引きつっていた。二年の男子だけが、遅れて表情を整える。だが遅い時点で三流だと分かる。
「な、何のことですか」
その二年生が言った。
ルークの気配がさらに冷たくなる。だがセレスティアは動じない。
「聞こえていたのよ」
「誤解では?」
「便利な言葉ね、誤解って」
セレスティアは相手を順に見た。
「私が頭がおかしい。気取っている。公爵家の娘ってだけ。持ち上げれば勝手に気持ちよくなる」
淡々と復唱するたび、三人の顔色が悪くなる。
「だいたいその辺りだったでしょう?」
「……」
「それで?」
セレスティアは首を傾げた。
「面と向かっても言えるの?」
二年生の男子が、ようやく体勢を立て直そうとした。
「別に、陰口のつもりで言ったわけじゃ――」
「では何?」
「その……噂を話していただけです」
その返しに、セレスティアは少しだけ笑った。
「逃げ方が安いわね」
その一言が、綺麗に刺さる。
「自分の言葉に責任を持てないなら、最初から口を開かなければいいのに」
「っ……!」
「噂を話していただけ?」
セレスティアは一歩だけ近づいた。
「あなたたちの言葉には、驚くほど中身がない。自分で見たことより、人から聞いた熱で喋っているだけでしょう」
二年生が歯を食いしばる。
図星だ。
「でも、そういう人間ほど、自分は空気を読んで話しているつもりなのよね。責任を取る気もないくせに」
一年の男子の一人が、耐え切れず声を上げた。
「じゃあ何ですか! 皆そう思ってるってことですよ!」
空気が変わる。
ようやく、本音に近いものが出た。
セレスティアはその男子を見た。
顔は幼い。怒りというより、焦りに近い赤さが出ている。周囲の熱に押されて、自分も乗ったのだろう。主体性は薄い。だからこそ扱いやすいし、だからこそ浅い。
「そうでしょうね」
セレスティアはあっさり言った。
「別に、私は好かれようとしていないわ」
予想外の返答だったのだろう。
男子が一瞬、言葉を失う。
「怖いと思うのも、面倒だと思うのも、関わりたくないと思うのも自由よ。でも」
彼女は視線を三人へ流す。
「だからといって、安い場所で集まって、人の価値を勝手に決めていい理由にはならないでしょう?」
二年生が苦々しく言う。
「……別に、あんたの価値を決めたつもりは」
「決めているじゃない」
即答。
「強さも家も人間性も、全部“どうせこうだ”で片づけていたでしょう。それを価値づけと言わずに何て呼ぶの?」
誰も返せない。
言葉がなかった。
セレスティアはそこで、完全に切るように言う。
「陰で好き勝手言うのは構わないわ。どうせ、そういう人間はどこにでもいるもの。でも、せめて自分の目で見た範囲だけで話しなさい」
「……」
「見てもいないものまで知った顔で喋るから、薄っぺらいのよ」
廊下の空気が、妙に澄んでいる。
夕陽が窓から差し込み、三人の顔色の悪さまで照らし出していた。
その時だった。
「随分と景気の悪い顔をしているじゃないか」
別の声がした。
低く、少しだけ笑いを含んだ男の声。
視線を向けると、回廊の先から二人の男子生徒が歩いてくる。
一人はレオン・ハルヴェイン。
もう一人は、昨日の公開模擬戦でセレスティアへ声をかけた三年生、ディルクだった。
タイミングが良すぎる、とセレスティアは思う。
偶然か。半偶然か。あるいは初めからどこかで見ていたか。どれでもあり得る。
「ハルヴェイン先輩……ディルク先輩……」
二年生の男子が顔を強張らせる。
上級生の格が違うのだろう。露骨に動揺が出る。
ディルクは三人を一瞥し、それからセレスティアへ視線を移した。
「何だ、公爵令嬢殿。今日は剣ではなく舌で切っていたのか」
「今さらでしょう」
セレスティアは平然と返す。
ディルクが笑う。面白がっている顔だ。
レオンは三人の男子を見た。
「何を言ったのかは知らないが」
声は静かだった。
「相手を選ばないと、次はもっと痛い目を見るぞ」
それだけだった。
怒鳴りもしない。脅しもしない。だが、その一言で三人の顔色がさらに悪くなる。
二年の男子が慌てて頭を下げた。
「し、失礼しました……!」
そのまま三人とも、逃げるように去っていく。
足音が遠ざかるのを見送りながら、ディルクが肩を竦めた。
「つまらん連中だな」
「そうでもないわ」
セレスティアが言うと、ディルクの目が細くなる。
「ほう?」
「ああいうのは、どこにでもいるもの。だから価値があるのよ」
レオンがわずかに首を傾げる。
「価値?」
「ええ。人の質を見るにはちょうどいいでしょう」
セレスティアは淡々と続けた。
「誰が乗るか。誰が止めるか。誰が見ているだけか。ああいう安い陰口ひとつで、周囲の人間の程度が見えるもの」
ディルクが声を立てずに笑う。
「面白い見方をする」
「そう?」
「普通は不快になる場面だ」
「不快よ」
セレスティアはあっさり認める。
「でも、不快だから価値がないとは限らないでしょう」
その返しに、ディルクの瞳に熱が宿る。
明らかに面白がっている。
レオンは少しだけため息に近い息を漏らした。
「やはり、そう来ますか」
「何が?」
「普通に慰める気が失せる返答です」
「頼んでいないわ」
「ええ、でしょうね」
短いやり取りの中で、ルークは一言も挟まなかった。
ただし、その視線はディルクに寄っている。レオンにはまだ一定の保留があるが、ディルクに対しては明確に警戒が強い。
「で」
セレスティアが問う。
「二人とも何?」
ディルクが先に笑った。
「通りかかっただけだ」
「嘘ね」
「半分はな」
「残り半分は?」
「お前がまた何か起こしていないか、少し気になった」
ひどく正直だった。
レオンが横で小さく眉を寄せる。
「先輩」
「何だ」
「それをそのまま言うから、警戒されるんです」
「今さらだろう」
セレスティアはそのやり取りを見て、少しだけ口元を上げた。
レオンは整っている。
ディルクは雑だ。
だが雑なりに、少なくとも嘘だけで塗り固める男ではない。
「あなたたち、ずいぶん暇なのね」
「暇ではない」
ディルクが即答する。
「ただ、お前は退屈しのぎにはちょうどいい」
「安い口説き文句ね」
今度はレオンがほんの少しだけ目を閉じた。
「お嬢様」
ルークが低く言う。
「そろそろお戻りになった方がよろしいかと」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「では、先輩方。ごきげんよう」
「もう終わりか?」
ディルクが言う。
「何か不満?」
「少しは」
「知ったことではないわ」
その返答に、ディルクが笑う。
気を悪くしたのではない。むしろ、余計に興味を持った顔だ。
レオンはそんな先輩を横目で見てから、セレスティアへ視線を向けた。
「お気をつけて」
「何に?」
「今日は、見えている敵意でした」
レオンの声は静かだった。
「次は、もっと見えにくいかもしれません」
セレスティアはその言葉を受け止め、ほんの僅かに頷く。
「覚えておくわ」
それだけ返して、歩き出す。
ルークが半歩後ろへ続く。
ディルクの視線が背中へ刺さるように残っているのが分かった。レオンはそれより静かだが、確実に見ている。
回廊を曲がり、人の気配が遠のいたところで、ルークが口を開く。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日は、随分と賑やかでございました」
「ええ」
「ハルヴェイン先輩とディルク先輩、いかがご覧になりますか」
セレスティアは少しだけ考えた。
「レオンは、やっぱり嫌いではないわ」
「ええ」
「ディルク先輩は面倒ね」
「かなり」
「でも」
セレスティアは窓の外へ目を向けた。夕暮れの空が、薄く紫を混ぜ始めている。
「価値はあるでしょう」
ルークは静かに一礼した。
「承知いたしました」
最凶公爵令嬢は、陰口ごと切り捨てる。
そして切り捨てた先に現れた相手すら、
敵か味方かではなく、
まず価値があるかどうかで測る。
盤面はまた少し動いた。
安い敵意。
それを見に来る上級生。
それを止めるでもなく、見守る者。
そのすべてが、少しずつセレスティアの周囲へ集まってくる。
そして翌日。
その盤面に、
今度は最初から“学園の外”の色を帯びた話が差し込まれる。
送り主は王族ではない。
だが、王族以上に面倒な可能性を秘めた相手。
グランフェル公爵家と、
学園の外側にある政治が、
初めて正面から接続されることになる。




