第14話 最凶公爵令嬢は、値踏みされるなら見返す
翌日の朝、王立アルディオン学園の空気は、これまでより一段だけ露骨だった。
理由は明白だ。
前日の公開模擬戦。
二年騎士科のレオン・ハルヴェインと三年のディルク。
そして、その場でディルクへ真正面から感想を返したセレスティア・ヴァン・グランフェル。
もはや一年一組の中だけで完結する話ではない。
騎士科の上級生たちに見られ、教師たちにも聞かれ、別学科の生徒の口からも広がる。学園という閉じた箱庭の中で、噂はいつだって足が速い。
セレスティア本人だけが、それを特に気にしていなかった。
朝の回廊を歩く。窓から差す光は柔らかく、石床は静かに足音を返す。その半歩後ろにルークがいる。いつも通りの距離。いつも通りの気配。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日は、見られ方の質が違います」
「ええ」
「好奇だけではなく、警戒と、少しの高揚が混じっております」
「でしょうね」
セレスティアは前を向いたまま答える。
「面白いものを見たあと、人は勝手に期待するもの」
「何を期待しているのかが問題でございます」
「ろくでもないことでしょう」
ルークはそれに短く一礼で応じた。
教室へ入ると、やはり視線が集まった。
以前のような単なる恐れや距離感ではない。
昨日までは“学級内で危険な令嬢”だったものが、今は“上級生相手にも平然としていた女”へ変わっている。
格の認識が、少し変わったのだ。
イザベラ・フォン・クロイツは自席に座っていた。
その視線がこちらへ一度だけ向く。ごく短く、だが意味は濃い。
昨日の公開模擬戦の話は、当然彼女の耳にも入っている。ディルクがセレスティアへ話を振り、セレスティアが正面から返したことも含めて。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
短い挨拶。
それ以上はない。だが、互いに分かっていた。
盤面がまた広がった、と。
午前の講義は淡々と進んだ。
王国史、政治学、魔術理論。どれも内容自体は変わらない。だが周囲の集中力は薄い。学園では、教科書の中より、今ここで誰がどう動いているかの方が遥かに刺激的だからだ。
二限目の終わり、休憩に入ったところで、教室の外が少しざわついた。
女子生徒ではない。男子の、しかも少し抑えた驚きの気配。誰かが立ち止まり、誰かが道を空ける音。
ルークが扉側へわずかに視線を流す。
「お嬢様」
「ええ」
言われる前に、セレスティアも気づいていた。
教室の入口に立っていたのは、レオン・ハルヴェインだった。
二年騎士科の制服。昨日と変わらぬ静かな立ち姿。周囲に必要以上の威圧は出していないのに、人が自然に意識を向けてしまう。そういう種類の上級生だ。
ざわめきが広がる。
二年騎士科の上位生徒が、わざわざ一年一組へ来た。しかも誰を訪ねてきたかなど、考えるまでもない。
「失礼」
レオンは教室の空気を一度見渡し、それからまっすぐセレスティアを見た。
「少し、お時間をいただけますか」
声は落ち着いている。
だがその一言だけで、教室全体の意識がこちらへ集中した。
セレスティアは座ったまま尋ねる。
「内容によるわ」
その返しに、教室内の数名が息を呑んだ。
相手は上級生だ。しかも昨日の公開模擬戦で名を上げた二年騎士科の有力株。普通ならもう少し言い方を選ぶ。だがセレスティアは選ばない。
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「昨日の非礼を詫びに来ました」
「非礼?」
「ディルク先輩が、あなたへああいう形で話を振ったことです」
教室の空気がまた変わる。
この男は、まずそこから入るのか。
セレスティアだけでなく、イザベラもまた、その言葉に意識を強めたのが分かった。
「あなたが謝ることではないでしょう」
「ええ」
レオンはあっさり認める。
「ですが、少なくとも私は、あの場を“ただの余興”にしたかったわけではありません」
「そう」
「それに」
彼は一拍置いた。
「あなたの言葉は、間違っていませんでした」
静かな教室の中で、その言葉は妙に鮮明だった。
セレスティアはほんの少しだけ目を細める。
「どの部分が?」
「ディルク先輩は強い。ですが、見せるために力を使う場面がある」
「ええ」
「そして、あなたはそれを見抜いた」
「そうね」
レオンは頷いた。
「だから、少し話したいと思いまして」
「ここで?」
「できれば場所を変えたいところですが」
彼の視線が教室内を軽く流れる。
この場は見られすぎている。内容が何であれ、長く話せば余計な解釈が増えるだけだ。
セレスティアはそれを理解した。
「昼休みなら少し時間があるわ」
「助かります」
「ただし」
セレスティアは静かに続ける。
「私が場所を選ぶ」
「もちろん」
「ルークも同席する」
「異論はありません」
即答だった。
そこでようやく、セレスティアは立ち上がった。
「では昼休みに」
「ええ」
レオンは一礼し、教室を離れる。
残された空気は、あまりにも濃かった。
誰もが聞いていた。
誰もが見ていた。
そして誰もが思っていた。
また一つ、セレスティア・ヴァン・グランフェルの周りの線が増えた、と。
「随分と堂々としていらっしゃるのですね」
柔らかな声がした。
イザベラだ。
「そうかしら」
「ええ。上級生から呼ばれても、少しも慌てないのですもの」
「慌てる理由がないわ」
「それもそうですわね」
イザベラは微笑む。
「ハルヴェイン先輩は、悪い意味で来ているようには見えませんでしたけれど」
「ええ」
「では、良い意味で?」
「まだ分からないわ」
「慎重ですのね」
「当然でしょう」
セレスティアは短く返した。
「昨日の公開模擬戦で測られたばかりだもの。今日の接触が、好意か観察の延長かくらいは区別したいわ」
その言葉に、イザベラは小さく目を細めた。
「やはり、そういう見方をなさるのですね」
「あなたならしないの?」
「わたくしなら、もう少し相手の得を先に考えますわ」
「私は両方見るの」
「でしょうね」
イザベラはそこで会話を切った。
それ以上踏み込んでも、今は意味がないと判断したのだろう。
昼休み。
場所は中央棟の北回廊、その先にある小さな休憩室にした。窓が大きく、人の流れが一方向からしか来ない。気配を読むには悪くない。
レオンは時間ちょうどに来た。
昨日と変わらぬ静けさ。少しも急かさず、遅れもせず、過剰に社交的でもない。やはり整っている。
「ありがとうございます」
入室してまずそう言った。
「お時間をいただいて」
「内容次第では、次はないわよ」
セレスティアが言うと、レオンは苦笑に近い息を漏らした。
「厳しいですね」
「今さらでしょう」
「ええ」
ルークは壁際へ控える。
レオンはそれを見ても表情を変えなかった。もうこの護衛騎士が外れることはない、と理解しているのだろう。
「では、単刀直入に」
「どうぞ」
「昨日、ディルク先輩へ返したあの言葉ですが」
「雑だと言ったこと?」
「ええ」
「事実でしょう」
レオンは口元をわずかに緩めた。
「そうですね」
「否定しないのね」
「できません」
率直だった。
「ディルク先輩は強いです。騎士科でも上位ですし、実戦経験もある。ですが、見せ場になると少し変わる」
「押しすぎる」
「ええ」
「勝てる相手に、勝てる形を選びすぎるのよ」
レオンの灰色の瞳に、ほんの少しだけ感心が宿る。
「やはり、見えているんですね」
「見せているから」
「……なるほど」
そこでレオンは、昨日より少しだけ本題に寄せた。
「あなたは、ディルク先輩が今後どう動くと思いますか」
セレスティアはすぐに答えなかった。
この問いは単なる感想戦ではない。
レオン自身が、何かを警戒している。
「試すでしょうね」
数秒後、セレスティアは言った。
「正面からか、別の形かは分からないけれど」
「同感です」
「あなたは、先輩を止めたいの?」
「止めたい、というより」
レオンは目を伏せる。
「巻き込まれたくない人間を、なるべく巻き込みたくないんです」
セレスティアはそこを聞いて、少しだけ面白くなった。
「優しいのね」
「そう見えますか」
「ええ」
「だとしたら、買いかぶりです」
「そうかしら」
レオンは一拍置く。
「ディルク先輩は、面白いと思った相手を放っておかない。勝ち負け以上に、どう崩れるかを見たがるところがある」
「悪趣味ね」
「否定はしません」
「それで」
セレスティアは視線をまっすぐ向ける。
「あなたは、私が崩れるところを見たくないの?」
「そうではありません」
「では?」
「あなたが崩れるなら、自分で崩れるべきではないでしょうか」
ルークの気配が、ほんの少しだけ変わった。
無礼とは言えない。だが、相当に踏み込んだ物言いだ。
けれどセレスティアは怒らなかった。
むしろ、そこで初めてはっきりとレオンに興味を持った。
「面白いことを言うのね」
「そうでしょうか」
「ええ。大抵は、崩れないでほしいとか、気をつけてほしいとか、その程度で濁すもの」
「それでは本音になりません」
「そう」
セレスティアは椅子の背にもたれすぎないまま、少しだけ顎を引いた。
「あなた、やっぱり嫌いではないわ」
レオンの目が、わずかに動く。
「……それは、かなり珍しい言葉として受け取っても?」
「好きにすればいいわ」
ルークが無言のまま控えている。
だが空気は、先ほどよりも少しだけ変わっていた。
レオンは続ける。
「正直に言います」
「ええ」
「俺は、あなたがどこまで行く人なのか見たい」
「知っているわ」
「ですが同時に、ディルク先輩の玩具になるのも面白くない」
「あなたは、私に味方したいの?」
「まだそこまでは」
即答だった。
「ですが、あなたを安く扱う相手は、少し気に入らない」
それは奇妙な言葉だった。
好意とも違う。忠誠でもない。かといって単純な義憤でもない。
自分の基準に照らして、面白いものが雑に消費されるのが気に入らない。
そういう匂いに近い。
「なるほど」
セレスティアは頷く。
「では確認するわ」
「どうぞ」
「あなたは私の味方ではない。けれど、ディルク先輩のように雑な試し方をする側にも乗りたくない」
「今のところは、その通りです」
「半端ね」
「ええ」
レオンはわずかに笑う。
「ですが、その半端さが今は一番正直です」
正しい、とセレスティアは思った。
最初から味方の顔をされるより、よほど信用できる。
「お嬢様」
ここでルークが初めて口を開いた。
「差し出される情報の価値はございますか」
問いはレオンへ向けたものではなく、主へ向けたものだ。
だがレオンもそれを理解している。
「あるわね」
セレスティアは答える。
「少なくとも、ディルク先輩が“試す側”の人間だと確認できた」
「それだけで十分でございますか」
「今はね」
レオンはそこで一礼した。
「それで十分です」
「あなた、割り切っているのね」
「長引かせると、余計な意味がつきますから」
「賢明だわ」
レオンは立ち上がる。
「では、今日はこれで」
「ええ」
「一つだけ」
彼は最後に言った。
「もし本当にディルク先輩が動くなら、正面からとは限りません」
「知っているわ」
「でしたら結構です」
そのまま部屋を出ていく。
足音が遠ざかるのを聞きながら、セレスティアはしばらく黙っていた。
「お嬢様」
「何かしら」
「いかがご覧になりますか」
「悪くないわ」
「ハルヴェイン先輩を」
「ええ」
セレスティアは静かに言う。
「少なくとも、安く媚びない。味方のふりも、敵のふりも急がない。それでいて必要なことは言う」
「たしかに」
「ただし、完全には信用しないわよ」
「当然でございます」
ルークは一礼した。
最凶公爵令嬢は、値踏みされるなら見返す。
相手が見るなら、こちらも見る。
相手が半端な立場で来るなら、その半端さごと評価する。
そして今、レオン・ハルヴェインは、
“ただの観察者”から一歩だけ前へ出た。
盤面がまた動く。
ディルクという三年。
レオンという二年。
イザベラという学級の中心。
アルフレッドという王族。
そして、まだ見えていない裏側の手。
線は増え、濃くなる。
その日の夕方、
セレスティアの下へは、
また別の形の接触が来る。
今度は手紙でも招待でもない。
もっと直接的で、もっと稚拙で、
だがだからこそ面倒な形で。




