第16話 最凶公爵令嬢は、学園の外を持ち込ませない
翌朝、セレスティア・ヴァン・グランフェルの机の上には、見慣れない封書が置かれていた。
クロイツ侯爵家の紋ではない。
王家の印でもない。
学園内で使われる簡易封筒とも違う。
紙質は厚く、質実だ。華美ではないが、明らかに安物ではない。封蝋には、細い剣と盾を組み合わせたような意匠が刻まれていた。
セレスティアは席へ着く前に、その封蝋を一目見て足を止めた。
「お嬢様」
廊下側に控えるルークが、わずかに声を落とす。
「ええ」
「ご存じで?」
「完全には」
セレスティアは封書を手に取る。
「でも、学園の中だけの印ではないわね」
その時点で、空気が少し違って見えた。
昨日までの視線は、学園内の噂に対する熱だった。だが今朝は、そこに別種のものが混じっている。知らない印を見ている者はいないはずなのに、なぜか幾人かが“何かが来た”と察している顔をしている。
誰かが見ていた。
誰かが置いた。
そして誰かは、その意味を知っている。
面倒ね、とセレスティアは内心でだけ呟いた。
席に座り、封を切る。
中の便箋は一枚。
筆跡は丁寧で、無駄に飾られていない。書き手は若くはないだろう。整っているが、貴族令嬢の私信のような柔らかさはなく、どこか事務的ですらある。
文面は短かった。
グランフェル公爵令嬢 セレスティア様
学園内にてお時間を賜りたく存じます。
お話ししたき件は、公爵家にも無関係ではございません。
本日放課後、南棟一階第二来賓談話室にて。
ウォルター・エルムヘイヴン
セレスティアは最後の名を見て、目を細めた。
知らない名ではなかった。
「お嬢様」
「ええ」
ルークもまた、その反応でただ事ではないと察したらしい。
「どなたで」
「エルムヘイヴン伯爵家」
セレスティアは便箋をたたみながら答える。
「中央政界寄りの家よ。軍ではなく、政務と調整で力を持つタイプ」
「学園の関係者ではなく」
「完全に外ね」
それが厄介だった。
王族が学園内で接触してくるのは、まだ分かる。
イザベラのような侯爵令嬢が空気を使って距離を詰めるのも、学園の延長だ。
だが、外の政治に属する家の人間が、学園内の来賓談話室を使って呼んでくるとなると話が違う。
これは、学園という箱庭に、外の論理が意図的に差し込まれたということだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「お会いになりますか」
セレスティアは即答しなかった。
窓の外を見る。朝の光は穏やかだ。中庭では何人かの生徒が歩き、昨日までと変わらぬ学園の朝を演じている。だが、机の上の一通だけが、その穏やかさから明らかに浮いていた。
「会うわ」
「承知いたしました」
「でも」
セレスティアは視線を戻す。
「これは学園の話ではない。だからこそ、学園の中だけで処理させない」
ルークの目が、わずかに鋭くなる。
「どうなさいますか」
「まず、誰がこの封書を机に置けたのか確認する。それからセルウィン先生にも一言通すわ」
「担任へ」
「ええ。来賓談話室を使うなら、学園側が完全に無関係ということはないもの」
「かしこまりました」
そこでちょうど、イザベラ・フォン・クロイツが教室へ入ってきた。
彼女の視線がセレスティアの手元の封書に一瞬だけ触れる。ほんの一瞬だが、その目がわずかに細くなった。
知っているのではない。
ただ、昨日までと違う種類の封だと察したのだ。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
「随分と、見慣れないお手紙ですのね」
柔らかい声。
だが探りは探りだ。
「ええ」
セレスティアはそれだけ答えた。
イザベラは一拍待つ。何も足されないと分かると、微笑みを深めた。
「差し支えるご様子ですわね」
「そうね」
「でしたら無粋は控えますわ」
「賢明ね」
それで終わる。
イザベラもそれ以上は踏み込まない。
だが彼女の横顔には、明らかな計算があった。外から来た話。しかもセレスティアが一言で閉じる程度には、学級内へ混ぜたくない類のもの。
彼女なら、それだけで十分な情報だろう。
午前の講義が始まる。
だがセレスティアは、一限の内容を聞きながらも頭の片隅では別のことを考えていた。
ウォルター・エルムヘイヴン。
伯爵家の名は知っている。だが家中の誰が来ているのかまでは知らない。
学園内にいるということは、保護者か来賓か、あるいは政務系の外部協力者か。
いずれにせよ、直接セレスティアへ接触する必要があると判断したのだ。
理由は何か。
グランフェル公爵家にも無関係ではない。
この書き方は便利だ。政治も、縁談も、派閥も、王家との距離感も、何でも入り得る。
つまり、あえて広く書いている。
その時点であまり好みではない。
二限の休憩に入ると、セレスティアはすぐに席を立った。
「ルーク」
「はい」
「セルウィン先生のところへ行くわ」
「職員室でございますね」
「ええ」
教室を出る。
後ろでは何人かが視線を向けているのが分かったが、もう気にする必要もなかった。
セルウィンは職員室の隅で書類を見ていた。セレスティアとルークの姿を見ると、すぐに顔を上げる。
「どうした、グランフェル嬢」
「少し確認したいことがあります」
「内容によるな」
「今朝、机に外部の封書が置かれていました」
セルウィンの目がわずかに細くなる。
「外部?」
「エルムヘイヴン伯爵家の名で、放課後に来賓談話室で会いたいと」
そこまで言ったところで、セルウィンの表情が変わった。
完全に予想外ではなかったが、知っていたわけでもない顔だ。
「見せてもらえるか」
「ええ」
セレスティアが封書を差し出すと、セルウィンは中身まで素早く確認した。
「……なるほど」
「ご存じで?」
「名前だけはな。学園の外部後援と、王都側の調整役で顔を出すことがある家だ」
やはりそうか、とセレスティアは思う。
学園と無関係ではない。だが内側の人間でもない。最も面倒な距離感だ。
「来賓談話室の使用は正式ですか」
「少なくとも、完全に無断ではないはずだ」
セルウィンは封書を返しながら言う。
「だが、君個人をそこへ呼ぶことまで、学園が積極的に関与しているとは限らん」
「でしょうね」
「断ることもできるぞ」
「知っています」
セレスティアは静かに答える。
「でも、内容次第では一度顔を見た方が早い」
「危険は」
「この場で感じてはいないわ」
セルウィンは数秒考える。
「なら、一つだけ助言しておく」
「どうぞ」
「学園の外の論理を、学園内の空気で処理しようとするな。逆も同じだ」
その一言は重かった。
セレスティアはわずかに目を細める。
「ええ」
「君はどちらも切れる。だからこそ、混ぜると厄介だ」
「忠告として受け取っておくわ」
「そうしてくれ」
職員室を出ると、ルークが低く言った。
「お嬢様」
「何」
「よろしかったのですか」
「何が?」
「担任へ通したことです」
「よかったわよ」
セレスティアは廊下を歩きながら答える。
「少なくとも、これで“誰にも言わず勝手に外と接触した”形ではなくなったもの」
「たしかに」
「学園内に持ち込まれた外の話は、最初に線を引いておかないと面倒になるわ」
ルークは一礼した。
「承知いたしました」
放課後。
南棟一階第二来賓談話室は、応接室より少し広く、外部客を迎えるための体裁が整えられていた。壁の装飾も落ち着いていて、学園内にありながら少しだけ“外の空気”がある。
扉の前には誰もいない。
だが、中に人の気配はある。
「お嬢様」
「ええ」
「わたくしも」
「当然よ」
セレスティアは扉を開けた。
室内には二人いた。
一人は四十代半ばほどの男。痩せすぎても太すぎてもいない、よく整えられた外見。髪には少しだけ白いものが混じり、目元に細かな皺がある。柔らかな顔つきだが、その柔らかさが生来のものではなく、後天的に磨かれたものだと分かる。
もう一人は学園側の文官らしき男で、壁際に控えている。
中央に立っていた男が一礼した。
「初めてお目にかかります、セレスティア様。ウォルター・エルムヘイヴンと申します」
「ごきげんよう、エルムヘイヴン卿」
セレスティアは必要十分な礼を返す。
ルークもまた騎士礼を取る。
「お時間をいただき、感謝いたします」
「内容次第では、次はないわ」
挨拶の次にそれを置くと、ウォルターは驚かない。
むしろ、少しだけ口元を緩めた。
「噂以上に率直でいらっしゃる」
「それで用件は」
「単刀直入に申し上げましょう」
椅子を勧められ、セレスティアは座る。ルークは斜め後ろ。ウォルターも向かいに座った。
「近々、学園主催の対外交流晩餐会がございます」
「存じていないわ」
「まだ公にはされておりませんので」
つまり、情報そのものが先に来ている。
「王都側の後援家、学園、王家近辺の関係者が一部顔を揃える、小規模な場です。本来なら上級生や一部の家格ある者に限られますが」
「私にも顔を出せと?」
「ぜひご検討いただきたい」
セレスティアは無表情のまま聞く。
なるほど、そういう類か。
学園の外を含む小規模な社交の場。
そこへ、最近急速に名の出た公爵令嬢を呼びたい。
表向きは自然だ。
だが、それだけではないだろう。
「なぜ私なのかしら」
ウォルターは小さく笑う。
「理由はいくつかございます」
「全部どうぞ」
「一つは、グランフェル公爵家のご令嬢であること。もう一つは、最近の学園内でのご活躍。そして最後に」
そこで一拍置く。
「王都側でも、あなたに興味を持つ者が増えていることです」
その言い方は嫌いではなかった。
濁しているようで、実はかなり率直だ。
「要するに、見せたいのね」
「ええ」
ウォルターは否定しなかった。
「ただし、品評会のつもりではありません。むしろ、誰をどう見るべきか、あなたご自身が選べる機会になるかと」
セレスティアはそこで少しだけ目を細めた。
上手い。
この男は、セレスティアに“選ばれる側に回る”話ではなく、“選ぶ側に立てる”話として差し出している。
それは正しい誘惑の仕方だった。
「お嬢様」
ルークがごく低く声を落とす。
警戒ではなく、確認の気配。
「ええ」
セレスティアは答えてから、ウォルターを見た。
「それで。あなたは私に何を期待しているのかしら」
ウォルターは少しだけ笑みを薄くした。
「あなたが、ただ噂どおりの方かどうかを、確かめたいと思っている者がいます」
「私に会わせたいの?」
「ええ」
「誰に」
「現段階では伏せさせていただければ」
「断るわ」
即答だった。
ウォルターの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「理由を伺っても」
「相手の名も出せない場に、私が価値を感じると思って?」
ウォルターは沈黙した。
そこでルークの気配が一段だけ研がれる。
セレスティアは続ける。
「学園の外の人間が、学園の場を使って、私にだけ匿名で相手を差し出す。失礼でしょう」
「……なるほど」
ウォルターはゆっくり頷いた。
「確かに、その通りです」
「分かるなら早いわ」
「ですが、相手にも立場がございますので」
「私にも立場があるのよ」
空気が静かに張る。
「匿名で見られる側に回る趣味はないわ。名を出して来るなら考える。出せないなら、ここで終わり」
ウォルターは数秒、セレスティアを見つめていた。
柔らかな顔の奥で、計算が組み替えられているのが分かる。
やがて彼は、ほんの僅かに笑った。
「やはり、噂以上でいらっしゃる」
「光栄ではないわね」
「失礼いたしました」
その謝罪は軽くない。少なくとも、形だけではなかった。
「本日は、それで十分です」
ウォルターは立ち上がる。
「こちらの詰めが甘かった。次にご相談する機会があれば、もっと整えて参ります」
「そうするといいわ」
「率直なご意見に感謝いたします」
セレスティアも立つ。
話は早かった。
そして、今ので十分に価値はあった。
少なくとも学園の外で、自分を“匿名のまま測りたい”人間がいる。しかもウォルター・エルムヘイヴンのような調整役を使って。
それだけ分かれば、収穫としては悪くない。
談話室を出る。
扉が閉まったところで、ルークが低く言った。
「お嬢様」
「何」
「やはり、学園の外が動き始めております」
「ええ」
「しかも、かなり慎重に」
「だからこそ面倒ね」
セレスティアは廊下を歩きながら続ける。
「王族は王族として正面から来る。イザベラは学級の空気で来る。レオンは観察から入る。ディルクは試す。リカルドは安く利用しようとする」
「ええ」
「でも外は違うわ。名を隠したまま、まず見たいのよ」
「お気に召しませんか」
「嫌いね」
はっきり言った。
「値踏みされるのは構わない。でも、名も出さずに見下ろす位置を取ったつもりで来るなら、相応に切るわ」
ルークは静かに一礼する。
「承知いたしました」
最凶公爵令嬢は、学園の外を持ち込ませない。
少なくとも、自分のルールを無視した形では。
その日の夕暮れ、学園の空は静かに暮れていった。だが盤面はまた一つ広がった。
学級。
上級生。
王族。
そして、学園の外にある政治。
それぞれが別の論理でセレスティアへ近づき、別の角度から測ろうとしている。
だが、どの盤面でも変わらないことが一つだけある。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、
最初に条件を下げない。
それは傲慢ではなく、
この女が最初から“選ばれる側”に回る気がない証だった。
そして翌日。
その姿勢を面白がるように、
今度はもっと分かりやすく、
もっと苛立たしい形で、
ディルクが再び前へ出てくる。




